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僕が50歳で死ぬとしたら。

近ごろよく、自分が50歳で死ぬことを考える。
希死念慮でも悲観でもなくて、僕の体の弱さとこれまでの人生の密度の濃さを考えると、それくらいが妥当だと思うのだ。

そしてそう考えたところで、それが不幸だとも悲しいとも思わない。これから「おそらく50歳で死ぬ。」と考えて生きたら、むしろいい選択ができるかもしれないとさえ思う。

長く生きればいいってもんじゃないよね。まだ少しやり残したことはある気がするけど、あと15年は長い。15年を「やり残したことをなくすように行動する」のに費やせば、なんだか達成できそうだ。

「一日でも長く生きたほうがしあわせ」って、よくよく考えてみたらおかしくない? でも、それについて言及するのはタブーで、「そういうことにしておかなくちゃいけない」となっているような気がする。

昔話ですごく年老いたおばあちゃんとかが言う、「どうやらお迎えがきたみたいだね。なに、悲しむことはないんだよ。わたしはもう十分に満足したからね」というようなシーンがすごく好きで、感動して泣きそうになる。

でも、もしそこで救急車を呼んで、呼吸器をつけて入院することになったらどうだろう。現代の技術があれば、そこからそのおばあちゃんは10年も生きられるかもしれない。おばあちゃんの人生の最後の記憶は、10年分の病室の天井になる。

それよりは、体が動くうちに自分の「終わり」を定めておいて生きたほうがずっといいと、今の僕は感じている。

いざ「終わり」のときが来たら「やだやだやっぱり死にたくない」ってなるかもしれないけど。そうなったら、「終わり」を延長してもいいのかもしれない。人生は何度意見を変えてもいい、というのが僕の持論だ。

とりあえず、「50歳くらいで死ぬ」っていうのは今の僕にとってかなり実感を伴ったリアルだ。もしそのときに生きていたら、「生前葬」とかしてみてもいいかもしれないな。

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