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「僕の心のヤバイやつ」は、底が丸見えの底なし沼 (前編)

 僕の心のヤバイやつ。通称「僕ヤバ」。
「陰キャ少年と陽キャ美少女の極甘青春ラブコメディ」がキャッチフレーズのマンガです。

 確かに極甘。
 見た目は、かなり甘いんです。



 でも、作品として甘く見ていいかとなると “さにあらず” 。ピリッときてチャレンジングでそれでいて緻密で、なんとも侮れない味がします。

 今、一番アツいマンガの一つです。
 そして将来、リアルタイムで読んでいたことが誇らしく語られる作品になる予感もします。
 だから今、リアルタイムの証しとなるよう、現時点で感じるこの作品の凄みについて書き残しておきたいと思います。

(と、リアタイアピールしていますが、note開設前の10月上旬に書いた文章を若干調整したものです。少し古く感じる記述がありましたら御容赦を。また、長いので2回に分けて投稿します)

☆ シーンの中の「僕ヤバ」

 60年代少女マンガに勃興した「ラブコメ」は、やがて少年マンガに戦線を拡大し、マンガ界の一大勢力になりました。目立って退潮した時期が無いように思えるのは、節目節目で秀作が出ているからでしょう。

 綺羅星のごとき秀作が生まれた過程では、さまざまな発明がなされ、その追随者が生まれ、結果として定石のようなものが築かれました。登場人物についても同様です。

 言わずもがなの主人公。
 その意中の相手。
 意中の相手を争う好敵手。
 主人公を慕い、意中の相手との間に割って入る魅力的な邪魔者。
 場合によって彼ら彼女らで形成されるハーレム。
 彼ら彼女らに付与される、使い勝手のいい属性(ツンデレ、ドジっ子、超お金持ち……)
 エトセトラエトセトラ。
 メインの2人とコンペティターが互いの関係性のなか競い合い、ラブを面白おかしくしていく。
 それがこの道の先達が踏み固めてきた王道と言えるでしょう。

 これらの複雑な関係性を削ぎ落とし、一対一のラブコメとして成り立っているのが僕ヤバです。
 いや、そこに独自性があると言いたいわけじゃないんです。今はもしかしたら、そういう結構が一つのサブジャンルを確立した時代かもしれません。実際、知っているラブコメを挙げていくと、簡単に同じ結構に行き当たる人もいることでしょう。最初に挙げた作品が、いきなり一対一ものということもあるかもしれません。

 そういった作品は、やはり他のところに面白さを出していきます。メインの二人が、からかい合戦や恋愛頭脳戦を繰り広げて対立したり、特殊能力を持っていたり、あるいはラブで直接競い合わない個性豊かな脇役達が、場を荒らしてみせたりするわけです。もちろん王道作品にもそういったギミックがありますから、より効果的に強烈に打ち出さないと存在感は出ないでしょう。

 しかし僕ヤバは、これらのギミックも抑制しています。
 中学校カースト頂点の陽キャ女子と隂キャ男子が、互いを意識しあい不器用に距離を縮めていく過程を、コミカルかつ丁寧に描いていく。
 基本、それだけなんです。
 カースト格差というギミックも大げさに誇張されているわけではなく、個人の心の中の問題になっています。フォルムとしてはめちゃくちゃシンプルで、派手なところが無いわけです。

 なのに、隔週火曜日の新作が毎回バズって評判を取ります。無料マンガサイト「マンガクロス」の不動の人気トップとして、サイトを牽引しています。今年というくくりでは「このマンガがすごい!2020 オトコ編」第3位、「次にくるマンガ大賞 2020 Webマンガ部門」第1位も獲りました。破格の存在感です。

 もちろん使える武器は何を使ってもいいでしょうし、ギミック無し即ち価値が高いというわけでもないでしょう。ただ、ほとんどキャラクター二人の力と構成の巧みさだけで連載を闘っている作者について、凄い腕だな、凄いハートだなと、ひたすら思うわけです。


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The 二枚看板 な人物紹介。


☆ 陽キャ怪獣 山田杏奈

 本作のヒロイン・山田杏奈は、目黒区イチと称される美少女。中学2年生。170センチ超の長身に恵まれ、モデルや芸能活動もこなします。気質はいたって天然で嫌味なところがありません。

 あるいは、こう説明すると凡庸と受け止められるかもしれないですね。この辺の性質が優れているのはラブコメのヒロインとして古典的ですから。すれっからしの人でなくても、ふーんと読み飛ばしてしまう情報かもしれません。

 しかし山田の造形の面白さは、これらの天分を備えた少女がどう育つ可能性があるかを、かなりラジカルに具現化しているところにあります。

 容姿に優れ、愛される気質を持つ彼女は、劣等感や挫折と縁が薄かったのでしょう。行動にためらいがありません。気分のままに動きます。
 たとえそれがルール違反や過剰な行動(たとえば買い食い、学校内での飲食、暴飲暴食……って全部食ってますね)であっても、被害者がいなければ気にしない様子。それで総じて許されてきたんでしょう。
 気分の波を取り繕わず好き勝手に動くさまを、彼女の友人が「猫のよう」と評していましたが、読者の間では「山田っぽい」で通じます。



 また、生来持っているがゆえに頓着しないのでしょう。ことの体裁にこだわりません。体裁なんて(山田にとっての)些事が、ナチュラルな自分の価値を減じるとは思わないんでしょう。
 鼻の怪我でテーピングすれば、敢えてテープに「バスケットボールをぶつけました」と書きます。人気者ゆえ学校中でどうしたのと声をかけられ、面倒になったからです。顔面センターでの近況報告は前衛的にすぎますが、特に気にするそぶりは見せません。


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市川の言うとおり。


 食事の一口が大きいのも、それによって口の周りに食べかすがつくのも問題無しです。気にしません。ストレスフリー優先です。
 小学生の一時期に水着で登校していた話も、せめて服の下にだろうと思うわけですが、こだわらないのが山田イズムです。



 加えて、拒絶されることがないからでしょう。人との距離の取り方がずれています。信頼している人間にはとことん気を許し、やりすぎなくらいに甘えます。詰めかたも相手が戸惑うくらいに急速です。ときにブレーキが壊れているようにすら見えます。

 全般に、陽キャが過ぎて普通の人と物差しが違う印象です。欲望に忠実な方向に。

 欲望を抑制して(させられて)生きる普通の人々にとって、山田は価値の攪乱者となります。無意識に常識を壊して回る怪獣です。
 だから周囲は、時としてこの怪獣に翻弄される無辜の市民であることを強いられます。僕ヤバはある意味、怪獣映画、パニック映画と同じ箱に入っているんです。

 男主人公の市川は、その最大の被害者でしょう。
 市川は自分ルールも公共ルールも全て守って、それにより自分を守りたいタイプに見えます。
 それが山田に振り回され、様々なルール破りの片棒を担がされ、自らもまた破ることとなるのです。
 山田がお菓子持ち込み疑惑で職員室に呼ばれた際には、不本意に付き添わされつつ無罪を勝ち取る活躍も見せましたが、男主人公というより引き立て役と言った方が、特に物語序盤ではしっくりときます。

 また、山田の親友の小林が、番外編マンガの中で意に反して彼女にプリンを献上する羽目に陥ったのも印象的です。翻弄された末に何故か手ずからプリンを食べさせてしまう小林の姿は、山田の陽キャ怪獣ぶりを鮮烈に浮かび上がらせていました。


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理屈じゃないんです。


 そんな怪獣ぶりが、物語の途中から徐々に変化していきます。触れようとして繊細な人間を握り潰してしまわないか、尻尾で吹き飛ばして嫌われないか、怪獣なりに気遣いを始めます。
 気になる市川の存在が、山田を変えていくんです。
 羞恥やためらい、逡巡を見せるようになった思春期の怪獣は、とはいえ怪獣なので色々抑えきれず、引き続き市川を振り回していくんですが。

 こういった複雑な怪獣性にチャーミングな絵柄が加わって、山田は独特な魅力を放つキャラクターになっています。構造的な派手さに欠けるこの作品を大向こう受けさせ、無関心の読者にも届かせるための、遠心力になっていると言えるでしょう。  

☆ 信頼できる騙り手 市川京太郎

 一方で作品の求心力となっているのが、男主人公の市川京太郎です。陰キャで孤立しがちの中2、山田の同級生。
 すっぱいぶどう理論で周囲と距離を取り、心の中でマウントを取る、そういう市川の弱さは僕のような陰キャ(あるいは誰もが多かれ少なかれ抱いているであろう陰キャ的な自分)からすると信頼に足ります。リアリティのある造形で、自然と自分を託せます。

 加えて、心根が優しい少年です。山田への好意を意識する前から常に彼女を助けているし、自己評価が低いゆえか、場を丸く収めるために自分が悪者になることを厭いません。信頼できるいいヤツなんです。

 しかしながら、物語の語り手としての彼は信頼に足りません。

 この作品は市川のモノローグを補助輪にストーリーを進めていくんですが、Karte.1(第1話)から早々に、彼が信頼できない語り手であることが開示されます。

 冒頭、山田を遠巻きに眺める市川。陰キャを見くだす(と彼が見做している)山田に憎悪の炎を燃やしています。そのきれいな顔が苦痛に歪むさまを見たい、その真っ白な肌にナイフを突き立てたらどんな感触がするのだろう、と妄想を繰り広げているのです。


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ちなみに連載開始前の本作キャッチフレーズは「少年少女の暗黒思春期を描く戦慄サイコスリラー!?」


 その後、図書室でパーティーサイズのスナック菓子を貪りゴリラのようにエンジョイする山田(こう書くとヒロインとしてどうかと思いますが)を発見。ぎこちない初絡みを経たのち、ゴミとなったスナック菓子の袋を託されます。処分しておいて、というわけです。

 これを受けた市川は「殺戮のカウントダウンは始まったばかり…」と心で独白するものの、頬を赤らめ、身をよじらせ、手交されたゴミを抱きしめています。美少女からのギフト(ゴミ)に喜びと興奮を隠せない決定的な姿に、読者は、それまでの殺害妄想が本意でないことを確信するのです。


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パシリにしてないという返し、山田の中では事実なのかもしれません。のちのスキットにおいて、友人の関根に無邪気にゴミを託すシーンが描かれています。誰にでもするから、特別、パシリにしてるわけではない的な認識。なお、殺戮のカウントダウンは第2話で停止した模様です。


 このギャグ描写以降も彼の語りに安定性はありません。山田との距離が近くなっていってもです。
 虚勢を張るための不実、未成熟であるがゆえの理解不足、自らを過小評価しているがゆえの誤認や、ある種意図的な改竄。
 そういうものが、ときにギャグとして分かりやすく、ときに巧妙に隠蔽され(主に「山田が自分のような陰キャにポジティブな思いを抱くわけがない」という自己評価の低さによる。例は後述)、織り交ぜられていくのです。

 こういった彼の語り手としての信頼性の無さは、コメディに緊張感を与えています。

 本作には市川以外のモノローグは存在しません。ヒロインの山田すら発しません。いくつかの例外条件を除いて、市川の射程外の世界も提示されません。
 つまり市川の語りがストーリーの補助輪を一手に引き受けているんです。
 となるとギャグの部分以外ではフェアな状況説明や内心の吐露を期待されるわけですが、先述のとおり、市川はその役割を全うしません。さりげなく読者を欺く騙りを織り込んでくるんです。

 だから真摯な読者は、語りの本当の意味はなんであるのか、これは騙りではないのか、騙りであるならばその意図や原因は何か、市川補正で捌かれ叙述されている山田は本当は何を考えているのか、考えざるを得なくなります。

 この語り手としての信頼性の無さと、信頼でき応援したくなる気質とが相まって、市川は読者が作品に没入する確固たる導線になっているのです。
 導線を辿っていきながら隠された伏線や謎かけを発見した読者は、やがて作品を味読し積極的に楽しむ、忠誠度の高いファンになっていきます。

☆ 天才 桜井のりお (後編にて)


☆ 底が丸見えの底なし沼 (後編にて)


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