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建築を仕事にするまで

この記事では自分の生い立ちや建築を仕事にするまでを思い出すように書いてみたいと思う、自己紹介のつもりと、自分で確認する意味をこめて。


1984年に淡路島に生まれた。
小さい頃は病弱だったと母に聞いたことがある。親戚のお兄ちゃんお姉ちゃんにいじめられていたのをなんとなく覚えている。
小学2年生の時に柔道を始めた、当初はいやいやで泣きながら父に連れて行かれたのをよく覚えている、そんな泣き虫が中学、高校と柔道を続けるとは。
野球、スイミング、相撲、サッカーなどを習いスポーツが好きな子どもで、図工が好きで得意だった。夏休みの宿題は工作やポスターの宿題ばかりに力を入れて、ドリル宿題などは終盤にまとめてやっていた。
小学4年生の冬に阪神淡路大震災が起こった。自宅は全壊判定で、離れの小さな納屋で家族で過ごした。地震の時は恐かったという記憶はそれほどないのだけれど、住んでいた家を解体するまでになることに恐怖を感じたこと、家が解体される様子はなぜか鮮明に覚えている。ショックだったのだろう。
震災後に家が新しくなった、自分の部屋が出来てそこに初めて入ったときの喜びと感動は自分が建築を志す大きなモチベーションになっている。あの時の感じを人に与えることができたら自分の人生はうまくいってると思う。
小学生の頃の夢は大工さんで、犬小屋を設計図を書いて自分で作るような子どもだった。近所に住んでいる大工さんに図面を見てもらったりしていた。
「勉強できるんだったら設計の仕事もいいぞ」と大工さんに言われたことはよく覚えている。
高校は地元の普通科に進んだ、柔道部に入り熱心に部活に打ち込んでいた。高校2年生で進路を意識する頃には建築を目指すということが何となく頭に浮かんでいた。
大学での勉強内容ではなく国公立で偏差値の高いところという動機で大学を志望したが、不合格だった。1年浪人することにした。淡路島を出て大阪で一人暮らしをする浪人生活を選んだ。浪人時代に多くの友人に出会ったので浪人してよかったと思えるが、他人にはあまりオススメしない。
工学部に進み、1年生の成績次第で建築学科に入れるかどうかが決まるので1年生の時はけっこう真面目に勉強していた。柔道は大学では続けなかった。無事に建築学科に進む。流行りを追いかける大学生だった、メディアで話題になる建築家に注目し、建築ができるようになりたいと思って雑誌を欠かさず見ていた。(それだけではダメだと気づくのはかなり後だった)大学2年生の時にバックパックでヨーロッパを旅行した、ドイツ、ベルギー、オランダ、フランスを廻った、異国の空気に触れることはとても楽しかった、近現代建築に偏りすぎていたことは少し公開かもしれない、その後もアジアやアメリカに旅行する。建築ばかり見すぎることは(建築学生にありがち?の)よくないところだった。
計画系の研究室に入り、卒業研究は空間のシークエンスに関する研究を行った、空間について考えることが建築の真髄だと考えていた。一方で大学4年生になったくらいから建築を作ることのモチベーションよくわからなくなっていた時期があった、もやもやしたまま卒業設計に取り組む時期が来て、大したテーマも見つけられないままだった。何とかテーマを見つけて取り組んだのは自分が好きな建築を改修する案だった。
他大学の大学院を希望したがうまくいかず、同じ大学の大学院に進んだ。大学院時代はアイデアコンペに取り組んだり、遊具を制作するなどの実際に作るプロジェクトに取り組んだ、そんなことをしていると作ること、作るために設計することの楽しさを改めて実感することができて、設計の仕事をしたいと思うようになってきた、就職先の希望は組織設計事務所だった、でかくてたくさんの人が使う建築に関わりたいと思っていたのとアトリエ系を希望する度胸はなかったからだ、優秀ではなかったので就職活動は苦労したが何とか東畑建築事務所が拾ってくれた。

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