故郷の島、そして真夏の吹雪

1999年7月23日公開。雪の小説/習作 その2。


 真夏の日差しの下で、ぼくは緊張に膝が震えるのを感じていた。額の汗も暑さのせいばかりではない。手にしたメガホンで膝を神さえつけ、ぼくは深く息を吸い、ゆつくりと吐き出した。
 とうとうやってきた。ぼくはこの日何度目かのつぶやきを口の中で繰り返して、現場をとりまく大勢の人間の中に父の姿を捜していた。しかしそんなものがあるはずもない。
 ぼくは、あれこれ指示を仰ぎに来るスタッフの声に答えながら、古い記憶を追い払えずにいた。それは目の前のおだやかな夏の風景に重なって、ぼくを遠い昔に引き戻そうとしていた。
 この島でぼくは生まれた。そして、この島にあるただひとつの大きな工場で働く父と、やさしい母との三人で暮らしていた。家は工場の裏の板葺きの長屋で、同じ工場で働く貧しい労働者の家族が肩を寄せ合うようにして住んでいるところにあった。
 ぼくが小学校に入学する前の日だった。母はパートに出ていたが、父は久しぶりの休日で、ぼくを港へ連れて行ってくれた。ぼくの手を引く父の手は、長い工場勤めで機械油がしみつき、真っ黒な上にいたるところに固いたこがあった。けれども子どものぼくには、世界がつかみとれるほどに大きくて力強く、春のお日様よりも温かく思えた。
 父は埠頭を歩きながら船を指さし、工場で作っている機械部品のことを話してくれた。ぼくは、誇らしげな父の様子がうれしくて、わからないなりに一生懸命うなずいていた。
 そのあと、父とぼくは港の古びた食堂に入った。入口は木の引き戸だった。
 父はビールを、ぼくはクリームソーダを頼んだ。コップからあふれ出ようとする緑色の泡に悪戦苦闘するぼくを見て父は笑い、その笑い声がまたぼくにはうれしかった。
 父はビールを半分残したまま金を払い、ぼくが一人で歩いて帰れることを確かめると、お前はそれをゆっくり片づければいい、ちょっと出かける、と言って席を立った。
 去りぎわの父の言葉が今も耳を離れない。
「この島に雪が降ったら帰ってくる」
 ぼくは父の厳しい表情に気押されて、わけもわからずうなずいた。店を出る父の背中を目で追いながら、父が大きなバッグを持っていたことに初めて気がついた。
 それでもぼくは追わなかった。いつものように夜までには帰ってくると思っていたのだ。ぼくはにっこり笑って、バイバイと言った。
 父は振り返らなかった。
 夕方、帰って母にそのことを話すと、母は座ったまま「そう」と答えて動かなくなった。遠い目をしたまま、次第に暗くなっていく茶の問で、電灯をつけることもせずにじっとしていた。ぼくの知らない何かに心を奪われ、擦り切れた畳の縁に目を落としたまま、その何かに耐えているようにも見えた。
 ぼくはお腹がすいたのと淋しそうな母の姿が悲しいのとでとうとう泣き出した。母は、我に返ったように顔をあげて、ぼくを抱き寄せた。
「雪が降ったらきっと帰ってくる。お父さんは嘘つきやない」
 そういって、母は声を殺して泣いた。
 この島に雪など降ったことがないのを知るには、ぼくはまだまだ幼すぎた。
 ぼくが映画監督になったのはこの思い出のせいかもしれない。ぼくは島にひとつしかない高校を卒業したあと、なかば家出するような格好で東京へ出た。就職口もないではなかったが、安定という言葉から逃げるようにアルバイトばかりしていた。昼食を抜いてまで映画を見るようになったのもその頃からだ。
 そんな生活が一年近く続いたある日、映画製作の現場でのアルバイトに出会った。信じられないぐらい安い時給とひどい待遇ではあったが、大勢で何かを作り上げる作業が、ぼくの心をいやしてくれるような気がした。最初のうちは監督や俳優と口をきくことはおろか、そばへも寄らせてもらえず、スタッフの弁当の調達や裏方の手伝いで走り回らされた。カメラマンや道具係の人間に殴られるのはしょっちゅうだったし、まだ若い助監督の連中にも足蹴にされたりした。ある大道具の親父にはハンマーで頭を殴られたことさえある。それでもぼくは、不平も言わず仕事をした。
 何年かたつうちには、何人かの監督とも知り合い、助監督の仕事も与えられるようになった。ぼくは書きためていたシナリオをあちこちの人間にみてもらうようになり、チャンスを求めはじめていた。
 そして今回、初めてメガホンを持たせてもらえるまでに十年以上の月日がたっていた。これでも十分以上に好運であることはぼくが一番よく知っている。ぼくの友人に限っても、この十年の間に挫折して去って行ったものは、手足の指では数え切れないのだ。
 母は五年前に死んだ。
 父が去ったあと、工場の食堂や情掃の仕事を断って、母は港の船着場にたい焼きの屋台を出した。
「そやけど、ここにおると、お父さんが帰ってきたときにすぐにわかる」
 それが不安定な仕事を選んだ唯一の理由だった。
 貧しさは以前に倍したが、ぼくは毎日たい焼きの甘い香りに包まれて、島の中で育ったのだ。
 母は、春がくるたびにつぶやいた。
「今年も降らんかったねえ」
 肩を落として残念そうにつぶやく母の姿に、ぼくはいつも「うん」と言う以外にかける言葉を見つけられなかった。いや、中学生の頃、一度叫んだことがある。
「この島には雪は降ったことはないし、これからも降らんって、先生が言うとった」
 母は一瞬だけ眉を曇らせ、笑顔になった。
「なんぼ先生かて、先のことはわからんやろ」
 反抗期とはなんと残酷な季節なのだろう。ぼくは自分の言葉を思い出すたびに、今も心のどこかが疼くのを感じる。
 翌年もその翌年も、母は同じことを言い続けたが、ぼくは目をそらせて返事をしなくなった。
 五年前の梅の季節、母から毎年の便りが届いた。いつまでたってもきちんと字が覚えられず、鉛筆の消しあとだらけの葉書には、こうあった。
--お元きですか、ことしも雪はふりませでした。いちどかえてきてください。おまへのかおが見たいです。えらくならいでもよいです元きでかえてきてください--
 その数日後、ぼくは親類からの電話で母の死を知らされた。母を看取った島の人の話では、屋台の準備をしながら倒れ、その日のうちに息を引き取ったらしい。死ぬまぎわに閉じた目から一筋の涙を流し、ぼくの名を呼んだという。
 ぼくは受話器を握りしめて、母のために涙を流した。その後の葬儀の間も含めて、ぼくが泣いたのはその時だけだった。
 ぼくは首をひと振りして、手元のシナリオに目を落とした。
 このシナリオはぼくが書いた。主人公の男は雪国に生まれ、東京でチンピラとして死んで行く。形はヤクザ物だが、むしろ青春物としてぼくは撮りたいと思っている。
 高校を卒業すると、地元で喧嘩に明け暮れていた男は東京に出る。プロボクサーを目指す男は社会の底辺でアルバイトをしながら、故郷の老いた両親に仕送りをし、土木作業員や皿洗いの仲間たちと友情を育んで行く。生まれて初めてできた恋人も娼婦である。
 そんな中で男はボクサーとしての成功をはかるが、デビュー戦でKOされ、あまつさえ網膜剥離を起こして夢を奪われてしまう。心も荒廃し、生活も乱れ、そこから街のチンピラまで簡単に転げ落ちて行く。
 そしてある日、男は恋人の客といざこざを起こして相手を拳で殴り殺す。客は地元の大きな組織の幹部であった。
 男は逃げる。恋人を連れて。そして、南の小さな島に追いつめられ、恋人とともにかっての仲間に撃ち殺されるのである。
 ぼくは今日そのラストシーンを撮ろうとしている。男は薄れる意識の中で、恋人の手を握りながら、故郷の幻覚を見ることになるのだ。それは暖かい炉辺であり、不良の彼を心配し続けていたやさしい母と、彼に厳しく接しながらも懸命に働くことで生き方を教えようとした男らしい父の姿であり、故郷の自然である。そして彼はそのすベてを、南の島には決してない、故郷の吹雪の中で目にするのである。
 ぼくは、この島の青空の下で荒れ狂う吹雪を想橡した。ふりそそぐ陽光を反射しつつ舞い散り、吹き荒れる無数の雪片は、夢破れ果て死んで行く主人公の心の中に吹きすさび、どこかで何かを誤った主人公の死を許容し祝福する。彼にくちづけ、自らも死に瀕しながら彼を励ます恋人は、その吹雪を見ることはない。
 ぼくはまわりを見渡し、すべての準備が整ったかどうかの最終確認を終えた。大きな音を立ててうなっている大量の発泡スチロール片を吐き出す機械も、猛吹雪を巻き起こす送風機も、係りの者が脇でOKサインを出していた。俳優たちの配置も決まった。
 ぼくは、助監督にうなずいた。
 轟音とともに大量の雪が、南の島の風景の中で吹き荒れはじめた。
 ぼくは声に出してつぶやいた。
「降ったぜ、親父」
 カチンコを持った助監督が叫んだ。
「シーン63、カット1、用意」
 ぼくは思わず笑みを浮かべながら、目の前のすべての動きに集中しはじめた。

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