「やぎさんゆうびん」の謎

本作は、1999年7月23日に【講座:ペンとともに考える】の第1作として公開したものである。


 まずここで、「やぎさんゆうびん」(作詞:まどみちお)なる童謡の歌詞を提示しておく。

 1 白やぎさんからお手紙着いた
   黒やぎさんたら読まずに食べた
   仕方がないのでお手紙書いた
   さっきの手紙のご用事なあに

 2 黒やぎさんからお手紙着いた
   白やぎさんたら読まずに食べた
   仕方がないのでお手紙書いた
   さっきの手紙のご用事なあに

         以下無限に続く

 さて、ここで私が論じようとしているのは、この歌詞に秘められた謎である。いや、謎などというと誤解を招くかもしれない。不可解な点と言い直す。つまり、「なぜ《白やぎさん》及び《黒やぎさん》は、《お手紙》を読まずに食べてしまうのか」という点に関する疑問である。そしてもう一点、「《白やぎさん》による第一通目の手紙には何が書かれていたのか」という疑問である。これらをできるだけ論理的な形で論じてみたいと思う。
 まず、この歌詞がいささかなりとも牧歌的ないしは童話的な光景として成立しうるために想定されている(あるいは想定されるべき)背景について考える。これは、なにも必要以上に回りくどくするための手段ではない。論理的に事物を把握しようとする場合には決して等閑にされてはならない手続きのひとつである。たとえば、「『おまえはあほか』という言葉の意味は何か」という命題を与えられたとき、その言葉が、甲が乙を罵って発したものであるのか、あるいは横山ホットブラザースの長男によってノコギリ芸の折に発せられたものであるのかによってまったく違った意味をもつものであることは容易に察せられよう。
 話がそれた。「やぎさんゆうびん」における所与の条件についてである。だらだら書き連ねる煩を避けて、個条書きとする。
 (1) やぎは文字の読み書きができる。
 (2) 手紙および郵便制度が存在し、かつ機能している。
 (3) 白やぎさんと黒やぎさんを結ぶコミュニケーションの手段は手紙に限られる。
 (4) やぎは手紙を食べる。
 とりあえずここでは以上の4点が条件として与えられていると考えておく。

 さて、本論に入る。
 まず、「読まずに食べる」から最も容易に導かれるのは、「やぎたちは飢えていた」という仮説である。これはなかなか説得力をもつように見える。これは二番目の疑問にも答えてくれている。つまり、白やぎさんによる第一通目の手紙は、食料の無心もしくはそれに類する内容のものであったであろうということである。しかしこの仮説には大きな傷がある。手紙を読まずに食べるほど飢えているのなら、(白やぎさん及び黒やぎさんは)なぜ自分の手持ちの白紙の便箋を食べないのかということである。
 かりにそれが好き嫌いによるものであったとしよう。即ち、白やぎさんは手持ちの食料をすべて食べてしまい、大嫌いな(あるいは体質的に受けつけない)紙質の便箋と封筒を残すのみとなったのかもしれない。そして「これを食べるくらいなら、恥を忍んで黒やぎさんに食料を分けてもらおう」と考えたのである。しかし、食糧不足は黒やぎさんにとっても同様である。黒やぎさんはその手紙を見るなり(空腹に耐えかねて)食べてしまい、仕方なく(自分のところにも残っている大嫌いな紙質の便箋に)手紙を認めたのである。
 こう考えると、先の疑問は解決したように見える。「読まずに食べた」のは空腹のせいであり、それでも便箋を持っているのは、自分には食べ難い紙質であったせいである、ということになる。
 しかし、それでも解決し難い疑問は残る。第一に、白やぎさんと黒やぎさんの嗜好が、それほど食い違うものかということである。第二に、「読まずに食べた」といいながらも、「お手紙書いた」ということは、差出人をはっきりと確認しているのである。それだけの余裕が仮にもあるなら、「開封して目を通すぐらいのことはせよ」と私は言いたい。第三に、草食動物であるところのやぎが、そこまでの飢餓に追い込まれるという状況が、はたしてありうるのかどうかということである。
 それでも飢餓論者は強弁するかもしれない。嗜好の食い違いは、体色があれだけ違うのであるから、あっても不思議はないと。また、差出人を確認するくらいは一瞬でことが足りる、わざわざ開封して読む作業の煩雑さに較べられるものではないと。そしてまた、第三の疑問についてもこう言うかもしれない。「この二匹のやぎは、南極点付近に取り残されたのかもしれない。たとえば、白やぎさんは英国隊の観測基地に、黒やぎさんは米国隊の観測基地に、それぞれ(タロやジロのように)取り残されていて、間をつなぐのはシベリアン・ハスキー犬の郵便屋さんだけなのかもしれない」と。
 もしほんとうにそう考えるなら、これはなかなか説得力がある。そういった極限状況のなかでも「やぎさんゆうびん」という牧歌的な表現が成立しうるのかどうかはさておき、これはこれでひとつの結論と見なしうるかもしれない。
 しかしやはり、私は飢餓論には懐疑的にならざるをえない。それは、それほどの極限状況の中にあって「さっきの手紙のご用事なあに」などという悠長な文体で手紙を書く余裕があるのかといった疑問や、郵便制度というものがあるなら、なぜそれほどの飢餓に追い込まれているやぎさんを放置しておくのかといった疑問だけによるものではない。まだ私が幼かった頃、温かい母の膝に抱かれて見た絵本には、手紙を食べてしまって当惑している白やぎさんと家の外に広がる風薫る初夏の草原が描かれていたのである。それは決してブリザードの吹き荒れる氷原の風景などではなかったのである。その温かなほのかに甘みすら感じられる記憶が、私を懐疑的にさせるのである。
 もちろん、そのような曖昧な幼時の記憶をもってしてのみ、飢餓論を否定するのは誤りである。またその記憶が正確なものであったとしても、誰とも知れぬ三流画家の論理的でない直感によって描かれた挿絵によって、議論の行方を決定するという誤謬は犯すべきではない。
 けれども私は自分の懐疑に忠実でありたいと思う。そのため、以下では飢餓論によらず「やぎさんゆうびん」の謎に挑んでみたい。

 さて、飢餓論を捨てた今、第一の疑問である「なぜ《白やぎさん》及び《黒やぎさん》は、《お手紙》を読まずに食べてしまうのか」という命題が、巨大な壁となって立ち上がってくる。そして、明らかに承知のうえで「読まずに食べた」にもかかわらず、なぜ「さっきの手紙のご用事なあに」などという欺瞞と偽善に満ちた返信を出さねばならないのかという疑問も生じる。なおかつ、それが幾度となく両方のやぎさんによって繰り返されるのである。
 そこで、問題点を整理してみたい。不可解なのは以下の点である。
 (1) 白やぎさんも黒やぎさんも、相手の手紙を、差出人を確認しながらも「読まずに食べ」ている。
 (2) 食べたあとで「さっきの手紙のご用事なあに」という、あたかも過失によって読み損ねた(そして内容を知りたいと思っている)ともとれる返事を認めている。
 (3) そして、(1)と(2)が何度も何度も繰り返される。
 まず、(1)についてであるが、(2)によって、それが過失ではありえないということがわかる。即ち、「読まずに食べた」のは故意によるものなのである。つまり、白やぎさんも黒やぎさんも相手の手紙を「読みたくない」もしくは「読んではならない」と考えているのである。そして、それならなぜそれを食べるのか。なぜ「捨てる」「焼却する」「トイレに流す」「まとめて廃品回収業者にだす」といった通常考えられる手段を取らないのか。けだしこれは手紙の湮滅を図ったのであろう。捨てる(あるいは古紙回収業者に出す)だけでは、他人の手に渡る可能性がある(情報収集が紙屑の収集と分析に始まることは産業スパイや相場師の常識である。シュレッダーが何のために開発されたのか考えてみるがよい)。また、「食べる」というのは、焼却などの一般的な方法より、はるかに確実で手軽なのである。なにしろやぎである、「食べる」だけなら一切の道具が必要でない。手間もかからず、煙も立たず、一瞬でことは済む。よいことづくめである。まさしく「食べる」ことは「湮滅する」ことにほかならない。
 そしてつぎに、(2)についてである。こういった内容の返事を書くということは何を意味するのであろうか。読みたくない、消し去りたい、というだけならば、返事を出す必要などないではないか。これはおそらく「あなたの手紙は確かに受け取りましたが、読んではいません」という意思表示なのである。つまり双方のやぎさんにとって、何らかの理由で相手にそういった意思を伝える必要があるのである。
 そして(3)であるが、これは以上の考察より明らかである。「読んではならない」と「返事を出さねばならない」という条件が双方に課されている以上、無限の繰り返しになるのは不可避である。
 では以上で明らかになった点を整理してみよう。
 (A) 白やぎさんも黒やぎさんも、相手の手紙を読みたくないと思っている。
 (B) 白やぎさんも黒やぎさんも、相手の手紙を湮滅する必要に迫られている。
 (C) 白やぎさんも黒やぎさんも、相手の手紙を受け取りつつ、それを読んでいないことを相手に伝えなければならない。
 (D) 以上の手続きが交互に延々と繰り返される。
 さて、これだけのことが明らかになった時点で、それではなぜ(A)~(D)のような状況になっているのかについて考えたい。
 そのまえに、もう一つの大きな疑問、「《白やぎさん》による第一通目の手紙には何が書かれていたのか」というものがあるが、これは先の(A)~(D)についての考察を進めていくうちに明らかになるであろう。

 棄却されるべき仮説のひとつに「恋愛説」がある。すなわち、白やぎさんは黒やぎさんに深い恋愛感情を抱いているのだが、黒やぎさんにそれを受け入れる意思がない、という前提に立脚する仮説である。ここでは白やぎさんが最初に出した手紙はラブレターであるとされる。そして、黒やぎさんは白やぎさんのことを好ましいとは思っていないのである。むしろ嫌っているのかもしれない。ゆえに、白やぎさんからの手紙を読まずに食べてしまうのである(それまでで十分白やぎさんからのアタックにはうんざりしていたのであろう)。これはまさしく「湮滅」である。他人に読まれると大変なことになる。ではなぜ、黒やぎさんは手紙を書くのであろうか。ここが恋愛説最大の弱点である。恋愛論者はこう強弁する。
「この不自然な展開は、白やぎさんと黒やぎさんの地位に大きな隔たりがあるせいである」と。
 つまり、こういうことである。たとえば、白やぎさんは取引先の大会社の令嬢(心やさしいが醜い)であり、黒やぎさんは下請け中小企業の、美しい婚約者のいる年若い係長であるというのである。さすればどうか。黒やぎさんは白やぎさんの愛のメッセージを決して受け入れるわけにはいかない。しかし、あからさまな拒絶は、自分の地位のみならず、勤め先の会社にまで迷惑を及ぼす可能性がある。したがって、たとえ読んでしまったにせよ、白やぎさんの手紙は、無視するわけにも読んだと言うわけにもいかず、欺瞞と偽善に満ちた返信を出さざるを得ないのである。一方、白やぎさんにしても、醜いとはいえ賢明かつかよわき乙女である。返事に何が書かれているのかぐらいおおよその見当はつく。ゆえに、傷つくのを恐れて、こちらも読むわけにはいかない。しかし、愛する黒やぎさんの手紙である。片思いとはいえ愛しい黒やぎさんとの関係が途絶えてしまうのは悲しくて、返事を出してしまう。しかも、内容は決して未練がましいものではない。「さっきの手紙のご用事なあに」である。いじらしい乙女心ではないか。涙せずにはいられない。
 こう考えると、「やぎが会社勤めをするのか」という一点を除き、すべての矛盾は解決し、あらゆる疑問は氷解するように思える。しかし、先ほど「棄却すべき」と書いたように、私はこの恋愛説にも与しない。
 なぜなら、この説を採った場合、白やぎさんにこう言いたくなるのである。
「いやがられてるのがわかってるなら、そんな手紙出すな」と。あるいは「もらった返事は読め」と。
 また、黒やぎさんにはこう言いたい。
「ちゃんと断れ」と。
 すなわち、恋愛論者は、やぎのメンタリティ(あるいはコミュニケーションスキル)をあまりに軽視しているのではないかと考えるのである。

 しかしながら、ここで提示された「地位の非対称性」という視点は非常に重要である。
 この童謡は本来、その対称的な外見に特徴をもつ。いずれのやぎも、手紙を「読まずに食べ」てしまい、「さっきの手紙のご用事なあに」という同じ文面の返信を書く。そしてそれら同じアクションが交互に(無限に)反復されるという歌詞内容は、やぎの体色の違いをも打ち消してしまい、いずれのターンがいずれのやぎにあっても何ら不都合はないという、完璧なまでの「印象としての対称性」を二頭のやぎの間(そしてこの童謡を口ずさむ私たち)にもたらすのである。
 これを数学的帰納法に基づく「やぎさんゆうびん型幻惑システム」と名付けてもよい。同様の構造を持つものに「にわとり-たまご型幻惑システム」があるが、前者が未来を無根拠に決定するのに対して、後者は過去を無限定に創出すると言う意味で、対照的であるといえる。
 少し話はそれるが、「にわとりとたまご」の問題は、解決不能な問題ではない。進化論を受け入れるならば、過去のある一点で、「にわとり」は「にわとり以前のもの」から生まれたはずである。従って、「そこからにわとりが生まれるもの」を「にわとりのたまご」と定義するなら、解答は「たまごが先」となる(これは、玩具店等で見かける「きょうりゅうのタマゴ」などというものと同じ論理による定義である)。あるいはそうではなく、「にわとりの産んだもの」を「にわとりのたまご」と名付けるのなら、解答は「にわとりが先」となる(これはまさしくスーパーマーケットにある「玉子」の定義と同じである)。すなわち、この問題は因果律に関する論理学の問題でも哲学の問題でもなく、語の定義の問題なのである。
 閑話休題。「地位の非対称性」の問題に戻る。
 「やぎさんゆうびん型幻惑システム」のもたらす外見の対称性にもかかわらず、二頭のやぎの間には大きな非対称性が隠されていると考えられることは、先に述べた恋愛説の論理性からも明らかである。
 では、その非対称性とは一体どういうものなのであろうか。
 まず最初に、それが「単なる社会的地位の高低」であるという錯誤に陥らないために、重要な指摘をしておく。手紙の本文においては、いずれのやぎも「さっきの手紙のご用事なあに」と同様の文章を認めている。いわゆる「タメグチ」である。先述の恋愛説のように「単なる社会的地位の高低」がそこにあるのみというなら、黒やぎさんの手紙は、いくら歌いにくかろうと「拝啓 先般のお手紙のご用事はどういったものでしょうか 敬具」というようなものになるはずだからである。
 読者諸賢においては、ここでひとつの事実が明らかになったことが容易に察せられよう。「地位が違うのにタメグチ」。これはまさに、二頭のやぎがかつて同級生であったことを示している。「やぎが学校へ行くのか」という疑義が生じるが、識字能力を持つという与件によって、二頭のやぎに就学経験があることは明らかである。
 そして、兄弟や従兄弟という可能性については、体色の違いからこれを棄却できる。また、別居中の夫婦という可能性は捨てきれないが、その場合は一方の文面が「さっきの手紙の用事は何だ」となるであろう。畜生であるやぎがそこまでジェンダーフリーであるとは考えられないからである。
 私も、私より社会的地位の高いかつての同級生は多いが、手紙においては、借金を申し込む場合と借金の返済猶予を懇願する場合を除いて、すべてタメグチである。ただし、私より社会的地位の低いかつての同級生の手紙については、該当する者がないので内容は不明である。
 ここまでで、先の(A)~(D)に付け加えられるべきは次の2点であることがわかる。
 (E) 白やぎさんと黒やぎさんにはなんらかの「地位の非対称性」がある。
 (F) 白やぎさんと黒やぎさんはかつて同級生であった。

 さて、地位の非対称性と手紙の内容について検討する前に、見落とすわけにはいかない大きな前提をいまひとつ挙げておこう。それは、冒頭の与件中の「両者のコミュニケーションは手紙に限られる」という規定である。
 公衆電話、携帯電話、糸電話、ポケベル、パソコン通信、電子メール、電報、手旗信号、伝言ゲーム、その他さまざまな情報通信手段の存在する現代社会において、これは一体何を意味するのであろうか。
 そう、まさしく、この二頭のやぎにあっては「手紙以外の通信手段は禁じられている」としか考えられないのである。
 では、今日そのような禁止を両者に強制することができる社会的装置とは何であろうか。現行法制度の下では、親、教師、上司、飼い主などという私的な存在ではありえない。すなわち通信手段の限定は官憲の手によるものなのである。
 ここではじめてこれら二頭のやぎの関係が、かなりの部分明らかになる。
「官憲によって手紙以外の通信を禁じられたかつての同級生」というものである。
 このような関係とは、一方もしくは双方が拘置所ないしは刑務所に収容されている場合のみであろう。それ以外はありえない。
 そこで私は、いずれのやぎが拘禁中であるのかという問題について、これは歌詞のみからは判断しがたいと思い、調査を行った。そして、図書館や書店等で数十の児童書および童謡関係書を校勘した結果、挿絵についてはすべて白やぎさんが家の中(もしくは屋外)で当惑しているものであるということを発見した。
 したがって拘禁中なのは黒やぎさんだけであるといえる。これは大発見であった。
 ここで「地位の非対称性」も明らかになったといえよう。
 それは「高低」ではなく、「高い塀」の「内外」という非対称性なのである。

 それでは、ここでようやく白やぎさんが最初に出した手紙についての考察を進める。
 はじめに、一部先の(A)~(C)と重複するのは承知で、両者の視点から手紙についての条件を整理してみよう。まず、白やぎさんの視点からは、次の条件が課される。
 (a) かつての同級生たる黒やぎさんに手紙を出すなんらかの必要性ないしは動機がある。
 (b) 返事の内容が予見でき、かつそれは読んではならないと考えられるものである。
 (c) 黒やぎさんからの返事については湮滅する必要がある。
 (d) 返信を読んではいないことを、黒やぎさんに伝える必要がある。

 そして、黒やぎさんの視点からは、以下の条件が要請される。
 (a') 唐突に届いたものであっても、白やぎさんの手紙は内容が予見でき、かつそれは読んではならないと考えられるものである。
 (b') 白やぎさんの手紙と返事については湮滅する必要がある。
 (c') 返信を読んではいないことを、白やぎさんに伝える必要がある。

 これらの条件を満たす手紙とはいかなるものであろうか。
 ここで重要になるのは双方における「湮滅の必要」である。一般に知られるとおり、囚人にあっては外部との通信はすべて検閲を受ける。つまり、通常の関係(一般の市民や暴力団員同士、被疑者と弁護士等々)であれば、いくらあわてて食べようが湮滅など意味を持たないのである。そして、「官憲に読まれてもよいが湮滅する必要のある手紙」というものが考えにくい以上、ここに新たな事実が明らかになる。すなわち、白やぎさんは官憲に手紙の検閲を許さないほど高位の人間なのである。たとえば、各国外交官の「外交行曩」が税関をフリーパスで通過できるように、白やぎさんは刑務官あるいは警察に対して大きな特権を持つのである。
 私は法曹界や司法制度について深い知識を持つものではないが、それほどの特権が許されるのは、おそらく国会議員ならば閣僚か政務次官クラス、官僚なら事務次官級であろう。なんと白やぎさんとはそれほど偉かったのである。これには私も驚く。
 では、そんな地位にあるものが、マスコミに知られると大問題になるであろうほどの危険を冒してまで、出さねばならない手紙とはどんなものであろうか。
 そして(a)~(d)および(a')~(c')のような条件を持つ手紙である。たんなる通信、久闊を叙するようなものではありえない。両者の生命財産にかかわるようなものであることは間違いがない。
 たとえば、二頭は若いころ革命家あるいは犯罪者仲間であったとしよう。そして功なり名をとげた白やぎさんは、現在の地位を失うのを恐れて過去の証拠の所在を問う手紙を出したとするのである。この場合、黒やぎさんは、手紙の内容を推認することはできるし、黙殺や拒絶はできない。また、正確な回答を返すこともできない。なぜなら、白やぎさんの神経を逆なでしたり、自分だけが持つ有利な条件を放棄したりすれば、今や絶大な権力を持つ白やぎさんに唐突に極刑を下されるかもしれないからである。
 この仮定はここまでならば正しく機能するようにも思える。しかし、黒やぎさんの返信を白やぎさんは必ず読むであろうゆえに、その瞬間に仮定は破綻してしまう。童謡「やぎさんゆうびん」は1番のみで終わってしまうのである。あえて2番を考えるなら「黒やぎさんからお手紙着いた/白やぎさんたらあわてて読んだ/仕方がないのでお手紙書いた/さっきの手紙、あれはなんや」というようなものになるであろう。

 ここではやはり二頭の友情が底流にあると考えたい。この仮定のように、かつての同級生の間に今やそのような相互不信しかないというのは悲しすぎるではないか。たしかに本稿にこのような恣意を持ち込むのはふさわしくないことは承知している。しかし、まったくの恣意というわけではない。「さっきの手紙のご用事なあに」という文面には、相手に対する気遣いややさしさがあふれてはいないだろうか。
 おそらく黒やぎさんは死刑囚なのであろう。それも大量殺人などではなく政治犯として獄につながれているのである。なぜなら、黒やぎさんに出所する可能性があるなら、白やぎさんは公になると問題になる危険な手紙など出さずに粛々と保釈の手続きを進めるであろうし、黒やぎさんが凶悪犯罪を犯したのなら、それこそ過去の友情になど拘泥せず、そもそも手紙を出すまい。
 これですべてが明らかになった。
 手紙は黒やぎさんの死刑執行にかかわるものなのである。そして白やぎさんは法務大臣なのである。
 では、白やぎさんによる第一信の文面はどういったものか。
 おそらく黒やぎさんの死刑執行が迫っているのであろう。そしてきっと、白やぎさんは庁内の官僚や保守反動的な他の閣僚に、職責を全うすることを迫られているのである。かつての親友の死刑執行を命じなければならない白やぎさんの心痛はいかばかりであろうか。
 白やぎさんは考える。公人として職務は果たさねばならぬ、しかし、本当にそれだけでよいのか、そんなことをして大臣である以前にやぎとしての誇りが保てるのか、と。そして、失脚の危険を冒してまで、黒やぎさんの最期の望みがあればそれを叶えたいと思うのである。
「黒やぎさんへ。私は大臣として君の死刑執行を許可する書類に判を押さなければならない。本来なら私の仕事はそれだけだが、かつて君と見た学校の風景、ともに汗を流して地区大会まで勝ち進んだクラブ活動、私たちを目の前に二人並べていつも小言を言っていた先生の顔を思い出して涙が止まらない。白黒コンビと周りの差別主義者にいじめられながらも、互いにはげましあった日々を忘れたことはない。
 私は、君の政治的主張を理解する。毛並みの色の違いだけで、君たちはあまりに差別されてきた。誤った白やぎ優越思想を糾弾し、被選挙権を含む公民権を君たちが求めるのも無理はない。
 しかし、今、私は法務大臣の職にある。君が指導者である活動組織の一部過激な分派が繰り返すテロを許すわけにはいかないのだ。そのためにもテロに不関与とはいえ、責任ある指導者である君の、過激派の情報について口を閉ざす君の、死刑執行を拒絶するわけにはいかないのだ。
 だから君の最期の願いを聞くことで、私は自分の気持ちを欺こうと思う。
 君を助けられず、黒やぎたちに味方する政治的な立場をとりきれない私を慰めようと思う。
 どうか私を卑怯者とののしってくれ。そして君の最期の願いを聞かせてくれ。
 ご家族のことなら心配はない。住居も収入も安全なものを確保した。
 だからそれ以外で、君のためにできることを聞かせてくれ。
 よろしくたのむ」
 白やぎさんによる最初の手紙はおそらくこういうものであったはずだ。職務と友情の間で苦悩し、無力な自分を責める手紙であったはずだ。
 黒やぎさんも、非合法かつ巨大な組織の指導者である。鋭すぎる洞察力を持っている。違法ともいえる手続きで届けられた手紙を、かつての親友である法務大臣から受け取った瞬間に、すべてを察したに違いない。
「これは受け取れない。黙殺は回答の拒絶とみなされよう。そして、誠実な回答は白やぎさんの立場を苦しめるばかりか、自分の死刑執行を早めることになるにちがいない。まだ死ぬわけにはいかない。なんとしても生き延びて、黒やぎの同志による救出か、無血革命を待たねばならない。これは引き延ばすしかない」
 そう考えたのである。
 そして、白やぎさんは返信を受け取って思う。
「これは読むわけにはいかない。読んでしまえば、私は決断を下さざるをえない。だから、これはまだ読めない。読んでない以上、私は私に決断を留保することを許そう。黒やぎさんに対して卑怯というだけではなく、職務に対しても卑怯者呼ばわりされてもよい。私にはまだ決断を下す勇気がない。しかし、保守党の圧力を思えば、この接触を断つわけにもいかない。嗚呼。」
 そして二頭の間で、無限に手紙がやり取りされることになる。

 以上が「やぎさんゆうびん」の秘密のすべてである。

 私は、アムネスティの尽力ならびに今後の国際世論に期待したい。
 そして、白やぎさんの苦悩が杞憂に終わり、黒やぎさんがガンジーのように、あるいはネルソン・マンデラ氏のように、熱狂を持って世界に受け入れられる日を待ち望む。 

 

 

 

 

 

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