「森のくまさん」の謎

【講座:ペンとともに考える2】(1999年11月7日 旧サイトにて公開)


1.はじめに

 まず、「森のくまさん」(作詞:馬場祥弘)なる童謡の歌詞を提示する。

ある日森の中 くまさんに 出会った
花咲く森の道 くまさんに 出会った
くまさんの 言うことにゃ お嬢さん おにげなさい
スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ

ところが くまさんが あとから ついてくる
トコトコ トコトコと トコトコ トコトコと

お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落とし物
白い貝がらの 小さな イヤリング

あら くまさん ありがとう お礼に うたいましょう
ラララ ララララ ラララ ララララ

 ここで明らかにすべき最大の謎とは、「くまさん」の不可解な行動である。なぜ、「お逃げなさい」と言っておきながら、「ついてくる」のか。落とし物を渡すために「ついてくる」というほど親切であるのなら、なぜ「お逃げなさい」などと言うのか。
 本稿では、この謎について能う限り論理的に考察してみたいと思う。

 まず一般に流布しているのは、「どっちもバカ説」である。
 くまさんは襲いかかりそうになっていながら、落とし物を見た瞬間に、自分が「お逃げなさい」と言ったにもかかわらず、「お、落としてるがな、こらいかんがな」と追いかけてしまうのである。また、娘の方もイヤリングを受け取るなり、食われそうになったことを忘れて、お礼に歌うなどと悠長なことをしてしまうのである。少なくともイヤリングを受け取ったら、即座にきびすを返して逃げるべきであると思われるのに、である。
 たしかに、こう考えるといずれ劣らぬバカではあるが、一応つじつまは合う。そして、どちらかといえば小娘の方がバカ度は高い。呑気に歌っているバカ娘を見ている間のくまさんの心中が思いやられる。
「何をのんびり歌とんねん。こいつ食われてもええんか」
 とはいえ、これがおそらく順当な解決案のひとつとして一般には流布していると思われる。すなわち、両者の心中を簡潔に書いてみると恐らく以下の展開になる。
 くまさん「食うのは忍びないので逃がそう」
 お嬢さん「きゃー」
 くまさん「お、イヤリング落としてる。これは返しといてやろう」
 お嬢さん「あら、拾ってくれるということは、安心していいんだ。お礼に歌おう」
 くまさん「アホかこいつ」
 しかしながら、私はこの説を支持しない。万物の霊長たる人間であろう「お嬢さん」の頭が悪すぎる。ましてこれは日本中の子どもが口ずさむ童謡である。子どもたちがこのバカ娘の真似をして、森で出会った熊の前で歌えば助かるとでも思い込んだらどうするのか。「小六、熊に襲われて死亡~なんと逃げずに歌を歌う~」などという新聞記事を前にして、作者はどう責任を取ろうというのか。
 また、ついで有力とされるのが「別人説」である。
劈頭の二行に注目してみれば、くまさんに出会ったことが二回も繰り返されていることがわかるが、他にこれほど明らかな繰り返し部分はない。一見奇異な「別人説」は、この部分を論拠にしている。すなわち、森の中で出会った「くまさん」(以下、くま甲)と、花咲く森の道で出会った「くまさん」(以下、くま乙)は別の存在だというのである。
 つまり、この説に立つものは、「お嬢さん」は、くま甲に出会って一緒に歩いているところで、くま乙にも出会い、くま甲が「お嬢さん」に逃げることを促したと考える。そして、くま乙を撃退したくま甲があとからついてきたというのである。
 この説にも特に大きな矛盾はないが、私はやはり与しない。
まず、両者の表記がともに「くまさん」というのが、必要以上の混乱を招いている。子どもが歌うものである以上、少なくとも「くまさんA」と「くまさんB」とか、あるいは「熊田さん」と「ヒグマさん」とか、歌う者に過度の負担を強いない配慮が求められるであろう。
 また、5行目の「ところが」にある小さな矛盾も見逃せない。周知の通り「ところが」は逆説の接続詞である。すなわち、「お嬢さん」の一人称一視点で書かれているこの歌詞にあっては、これは「お嬢さん」が「くまさん」のついてくることを予想していなかったということを意味している。くま甲がくま乙を撃退したならついてくるのは当然であることを考えると、「別人説」を採用した場合、ここは「ところが」ではなく「そのうち」あるいは「ようやく」とすべきであろう。
 このように考えると、やはり「くまさん」と「お嬢さん」は、一対一であると考えるのが自然であろう。ちなみに、手近の保育園児に聞いてみることも試みたが、父親が必死で説明しているにもかかわらず、彼はついに最後まで「別人説」を理解できなかった。
 さて、現在学会の主流をなしている「どっちもバカ説」と「別人説」を捨てた今、新たに私なりの視点でこれらの謎について考察を進めねばならない。そこで、疑問点も含めて、「森のくまさん」における要点を以下のとおり整理しておく。
(1)「お嬢さん」と「くまさん」は「森の中/花咲く森の道」で出会う。
(2)「お嬢さん」と「くまさん」の間にバーバルなコミュニケーションが成立している。
(3)「お嬢さん」は「くまさん」に「お逃げなさい」と言われて逃げる。
(4)「くまさん」は「お逃げなさい」と言っておきながら「ついてくる」。
(5)落とし物は「白い貝殻の小さなイヤリング」。
(6)「お嬢さん」は落とし物のお礼に「うたう」。
 ここから、上記の各点についてそれぞれ述べていきたいと思う。順序に関しては本稿の構成上多少前後するが、その点はご承知おき願いたい。

2.「くまさん」と「お嬢さん」

 まず、これまで見落とされて来た最重要な点である、言語による会話の成立から述べる。
 結論を先に書くならば、言語による会話が成立するというのは「くまさん」が人間であるということにほかならない。これまで「森のくまさん」を論じる者は、全くその点を見誤っていたといえる。あらゆる童謡関連書籍の挿絵が「くまさん」を熊の姿に描いているところからもそれは明らかである。驚かれる読者も多いであろう。しかしこれは事実である。
 童謡はメルヘンであるから、人間と動物が会話をしてもなんら不思議はないというのは早計に過ぎる。動物の登場する童謡をいくつでも思い浮かべていただきたい。私でさえも即座に、「ぞうさん」「アイアイ」「ななつのこ」「いぬのおまわりさん」「うさぎとかめ」「おうまのおやこ」「げんこつやまのたぬきさん」「かもめのすいへいさん」「やぎさんゆうびん」「かわいいかくれんぼ」「はとぽっぽ」「やまのおんがくか」「かたつむり」等々、数多くの童謡が思い浮かぶが、いずれにおいても人間対動物の会話は存在しない(「ぞうさん」の話者は仲間の動物であると作詞者が証言している)。唯一の例外は「桃太郎」だが、これは原作があるので特殊な例と思われる。
 すなわち、一般に童謡においては童話とは異なり、人間と動物の会話は禁じられていると考えられるのである。
 また、「お嬢さん」についても、「ドリトル先生」の親戚であるとも、「ききみみずきん」を装着しているとも、明示・暗示ともになされていないことを考えると、動物の言語を解したとは思われない。
 そして、屋上屋を重ねることになるが、「くまさん」という表記も人間説を裏付けている。なぜなら、この歌詞における「くまさん」は、最後の一つを除いてすべて三人称として用いられているが、この歌詞のように事実の伝達を主とする場において、禽獣を「さん」づけで呼ぶことはありえないからである。
 先日も、元アマレス選手であるという中年男性が、道端で出会った熊を投げ飛ばして撃退したというニュースが報じられていたが、いずれのメディアでも熊を「くまさん」と呼んだ例はなかった。どのTV局でもキャスターは「男性が熊に襲われ……」と言っていたし、新聞各紙も「この熊は生後数カ月の……」と表現していた。なによりも、「お嬢さん」同様、森で熊に出会った男性自身がインタビューにおいて「いや、熊に出会ったときは……」と言っていたのである。「くまさんに出会って……」とは言わなかった。このように、動物の熊を指すものとしての「くまさん」という表現は決して用いられなかったのである。
 以上で「くまさん」が人間であることは明らかであろう。

 では、「くまさん」とは一体何者なのか。
 ここではひとまず、「お嬢さん」と「くまさん」の関係について論じてみたい。これも歌詞からおおむね推定できるのである。
 まず「お嬢さん」にとっての「くまさん」の位置について述べる。ここでもやはり「くまさん」という「さん」づけがポイントになる。
 最初に、歌詞の最後に現れる「くまさん」という呼びかけから考えたい。このように路上で突然対面するような場で、我々は通常どのような場合に相手をさん付けで呼ぶであろうか。まず第一には、相手が知り合いである場合である。これは容易に理解されよう。次に、相手とは会ったことがなくても一見して名前の知れる場合である。有名人に出会った場合などがこれに当たる。つまり、相手の名前がわかっていなければ「あら、くまさん」という発言はあり得ないのである。
 ではこの歌の場合は上記のいずれに当たるのであろうか。これについても、呼びかけのみならず、三人称においても用いられているさん付けが手掛かりとなる。
 相手が、会ったこともないのに一方的に名前を知っているような有名人の場合、三人称でさんづけというのは不自然である。例えば木村拓哉に町で出会ったとして、あなたは後日友人に向かって「キムタクさんに出会った」と言うであろうか。そのような場合は、通常「キムタクに出会った」と言うであろう。
 何事にも例外はあるが、町で出会った有名人を、別の場所で「くまさんに出会った」と言いうるのは、ゲージツ家の篠原勝之に出会った場合のみである。
 以上の考察からも、この歌の「くまさん」はそのような呼び名を持つ「お嬢さん」の知り合いだったと考えてよいと思われる。

 続いて、「くまさん」にとっての「お嬢さん」の位置を考えてみたい。
 なぜ、知り合いの若い娘を「くまさん」は「お嬢さん」と呼ぶのであろうか。これについても二つの可能性が考えられる。
 第一は「くまさん」が、かなりの年配である場合である。例えば、六十歳以上の男性は、喫茶店のウエイトレスをしばしば「お嬢さん」と呼ぶ。私は出張で上京したおり、何度もそれを耳にして心の洗われる思いがした。
 ちなみに大阪では老若男女地位収入にかかわらず、ウエイトレスは「ねえちゃん」である。東京で年金生活の男性が「お嬢さん、お水をいただけませんかな」と言っているとき、大阪では大会社の社長が「ちょう(ちょっと、の転訛)、ねえちゃん、おひやくれや、おひや」と言っている。
 話がそれた。つまり年配の男性は、若い娘に対しては「お嬢さん」という呼称を用いることが多いのである。
 そして、もう一つの可能性が、「お嬢さん」という言葉が地位関係の反映である場合である。どこかの会社の課長が社長令嬢に向かって呼びかける場合がこれに当たる。すなわち、「お嬢さん」の父親が、「くまさん」に対して非常に高い地位にあると考えられる場合である。この場合、「くまさん」の年齢は考慮する必要がないことも明らかであろう。
 では、上記の可能性のいずれに当たるのかということになるが、先に「お嬢さん」と「くまさん」は知り合いであることが明らかになったことを考え合わせると、後者である可能性が非常に高い。
 この可能性を補強するために、別の根拠を提示しよう。
 「お嬢さん」が逃げる様子を思い出していただきたい。「お嬢さん」は「スタコラサッササノサ」とかなりのスピードで逃げている。にもかかわらず、「くまさん」は「トコトコトコトコ」で追いついているのである。リズムこそ小刻みであるが、これはピッチ走法であると考えれば納得がいくであろう。軽快な若い娘の疾走にピッチ走法で追いつく、これは到底六十歳以上の人間の能くするところではない。つまり、「くまさん」は若いのである。
 ゆえに「お嬢さん」という言葉は、年齢によるものではなく、「お嬢さん」の父親との地位関係の反映であるといえる。

 ここまでで両者の関係がかなり明かされた。いったん箇条書きで整理してみよう。
(ア)両者はともに人間である。
(イ)両者は知り合いである。
(ウ)「お嬢さん」の父親は「くまさん」に対して高い地位にある。
(エ)「くまさん」は高齢ではない。少なくとも青年に匹敵する体力を持つ。

3.「お逃げなさい」と「危険な場所」

 それでは次の疑問に移ろう。
 いわゆる最大の疑問の前半部ともいうべき、なぜ「お逃げなさい」というのか、という点である。
 「くまさん」を熊であると考えた場合のように、「襲いかかろうとするのを自制したため」というのは、明らかに不自然である。「くまさん」は人間であるので、この場合は「食う」ではなく、レイプか強盗、もしくはそれに類する行為であろうが、それにしても自然な発言であるとは言いがたい。襲うならその場で襲うであろうし、襲うつもりがないのであれば「お逃げなさい」などという必要はない。
 ただ、「くまさん」に変わった趣味があれば別ではあるが。たとえば、私は小学生のころ、新しいエアガンを手に入れると、たいていすぐに近所の公園に向かった。そして友人を見つけては「十数えてやるから逃げろ」といって、逃げる友人を追いかけ回したものだったが、やはり「くまさん」の追跡はそのような嗜虐性とは無縁であると考えるのが妥当であろう。
 なぜなら、「くまさん」は、のちほど「お嬢さん」が呑気に歌うのを眺めている。自制して逃げることを強いねばならぬほどの襲う意思や、逃がしてから追跡を楽しむような嗜好などなかったことは明白である。
 それと、「お嬢さん」の様子も不可解である。「くまさん」に「お逃げなさい」と言われてはじめて逃げている。ということは、そう言われるまで逃げるつもりはなかった、あるいは逃げる必要を感じなかったということである。一見して「くまさん」には危険が感じられなかったと言い換えることもできる。また、追いつかれても恐れるそぶりさえ見せず、お礼に歌ったりしている。これも「くまさん」そのものには危険がなかったことを示すものであろう。
 すなわち、この「お逃げなさい」は、従来理解されてきたような「私から逃げなさい」という意味ではないと考えられるのである。
 ならば、「お逃げなさい」とは一体いかなる意味を持つのか。これも通常どういう場面で発せられる言葉かを考えればよい。人が他人に向かって「お逃げなさい」と言うとき、必ずやその前には「ここは私に任せて」という言葉が用いられることに気がつくであろう。
 つまり、「くまさん」の「お逃げなさい」という発言は、何らかの危険から「お嬢さん」をかばおうという意思の発現なのである。
 では、それはいかなる危険なのか。
 これは、「くまさん」が「お逃げなさい」と言いながら、イヤリングを見つけるやいなや即座に「ついてくる」というところに手掛かりがある。
 たとえば、「別人説」を思い出していただきたい。あのように新たな熊が現れたような場合であれば、その熊を撃退するまで追跡は不可能である。それは他の猛獣であっても、暴漢であっても同様である。「くまさん」は身を挺して危険を排除せぬ限り、「お嬢さん」の追跡にはとりかかれない。
 つまり、その危険とは、「お嬢さん」がその場を離れることで回避し得るものであったといえる。「くまさん」は、「この危険な相手から」逃げよではなく、「この危険な場所から」逃げよと言ったと考えるべきであろう。
 これは歌詞中に他の生物が登場しないことからも明らかであろう。もしそのようなものがあれば、事実の記述を旨とする歌詞内容に鑑みて、同時に存在する危険な相手について言及せずにおくというのは不自然に過ぎる。
 重要なのは「場所」である。そして、その場所の有する危険性というのは、歌詞以前に、「お嬢さん」と「くまさん」が出会う以前に、用意されていたのである。
 ならば、その「お嬢さん」にとって「危険な場所」といかなるものか。森の中であるから、たとえば「崖っぷち」や「人食いアリの巣」というようなものも考えられるが、これは決してそのようなスタティックな危険ではない。なぜなら「お嬢さん」は「スタコラサッサ」と走って逃げているからである。もし、そのような静的な危険物であれば、ゆっくりと歩み去るだけでよい。
 これはもっとダイナミックな、時間とともに危険が急激に増大しつつあるような場所であったとしか思われない。たとえば先日、とあるキャンプ場であった悲惨な水難事故のように、「お嬢さん」は豪雨の中で川の中洲に立っていたのかもしれない。あるいは雷鳴とどろく中、巨木の下で雨宿りをしていたのかもしれない。しかし、無論これらは陥りがちな誤りとして例示したのである。第一、「お嬢さん」がいたのは「花咲く森の道」であるし、歌詞には悪天候に関する記述はない。
 なら時限爆弾のようなものであればどうか。特に矛盾はないようだが、一体誰が森の奥深くに爆弾を仕掛けたりするというのか。動機の点から考えても時限爆弾説はありえない。では、それが不発弾であったとすればどうだろう。「お嬢さん」は森の中で見つけた不発弾を目の前にして立ちすくんでいたと考えるのである。これはかなり有力な説のようにも見える。「いつ爆発するか分からない」というのは、走って逃げる重要な要因ともなる。
 しかし残念ながら、これも誤りである。
 それは先述した「ところが」の意味が根拠となる。先に私は、「ところが」というのは「お嬢さん」にとっても「くまさん」の行動が意外だったことを示していると述べた。もし危険が不発弾のようなものであれば、両者は並んで逃げればよいのである。「くまさん」は不発弾の処理に取り掛かろうとしていたと強弁できなくもないが、不意に現れた「くまさん」がそれの可能な重装備であったとは考えられないし、たとえ重装備かつ「くまさん」がベテランの自衛隊員であったとしても、一人でそのような危険な作業に挑むことはあり得ない。
 すなわち、「急激に危険の増大しつつある場所」とは、「お嬢さん」にとってのみ、危険かつ一人で逃げるべき場所であったと考えられるのである。そして、「くまさん」にとっては、本来「ついてくる」必要などない、いやむしろ「ついてくる」ことを禁じられたような危険なのである。
 「くまさん」の視点からみれば、「お嬢さん」を逃がした後で(自分一人でできる)危険の除去に努めなければならなかったのであろう。あるいは、「お嬢さん」とは別方向に立ち去る必要があったのかもしれない。それは、「くまさん」にとっては、あくまでも「お嬢さん」と同時に同方向へ逃げることができるような「危険」ではなかったということである。言い換えれば、その「危険」から逃げるにあたって、「お嬢さん」と「くまさん」が同行しているところを他人に見られてはならない、ということでもある。
 ここで「ところが」問題にもどるが、にもかかわらず、「くまさん」は「お嬢さん」の後を追うのである。それもダッシュで追っている。
 その理由は歌詞中に明確に記述されている。「お嬢さん」の落とした「白い貝がらの小さなイヤリング」を渡すためである。
 ではなぜ、同行を禁じられているにもかかわらず、「くまさん」はそれだけのために「お嬢さん」を追いかけるのであろうか。その理由もまた明白である。「同行していることを他人に知られる危険性」よりも、「イヤリングを放置しておく危険性」の方がはるかに高かったためであろう。
 「イヤリングを放置しておく危険性」も、たったひとつのことをしか意味しない。それは、イヤリングが「お嬢さん」がそこにいた物的証拠となるという危険性である。深い森を直近に持つ村のことである。海からは遠く離れているはずのその村で、「貝がらのイヤリング」など簡単に持ち主を特定されるであろう。
 ここでようやく、「お嬢さん」にとって「急激に危険の増大しつつある場所」の意味も明らかになった。それは、「そこにいたことを他人に知られてはならない場所」かつ「その危険が刻々と迫っている場所」ということなのである。

 では、これまで述べた「お逃げなさい」と「危険」について、整理してみよう。
(A)「くまさん」は、何らかの危険から「お嬢さん」をかばおうとしている。
(B)その危険は、「危険な場所」を意味し、その場所は「お嬢さん」と「くまさん」が出会う以前に、用意されていた。
(C)「危険な場所」とは、「お嬢さん」にとってのみの、危険かつ一人で逃げるべき場所である。
(D)その場所から逃げるにあたって、「お嬢さん」と「くまさん」が同行しているところを他人に知られてはならない。
(E)その場所は、「お嬢さん」にとって「そこにいたことを他人に知られてはならない場所」である。
(F)その場所は、「お嬢さん」にとって「そこにいたことを他人に知られる危険が刻々と迫っている場所」である。

4.そしてすべてが明かされる

 徐々に問題の核心に近づいてきたと思われるが、残るいくつかの疑問を明らかにしながらすべての謎を解明して行きたい。
 まず、これまで等閑にされてきた疑問点だが、非常に重要な事実を含むものを指摘しておきたい。
 なぜ森に若い娘が一人でいるのか、という問題である。
 人類学や民俗学の手を借りるまでもなく、森は娘の立ち入る場所ではない。それは「異界」であり、「村=コスモス」に対する「森=カオス」である。森への侵入は、男子にとっては通過儀礼の役割を果たすこともあるが、女子(処女)にとっては厳しい禁忌の対象でしかない。
 たとえば、グリムの「赤ずきん」や「白雪姫」を見てもそれは明らかであろう。「赤ずきん」では、少女は半ば強制的に森へ追いやられ、禁忌を冒した結果として狼の犠牲になる。「白雪姫」においても、森は継母の刺客に殺されそうになって初めて逃げ込むところである。そしてそこへは刺客は入れず、魔法によって老婆に変じた継母しか立ち入れなかったということは、森がロゴスの支配する現実の社会と切断された異界であることを示している。
 しかるに、なぜ「お嬢さん」は一人で森の中にいたのだろうか。
 動機をひとまずカッコに入れると、当然のことだが、可能性は、「お嬢さん」は一人で森へ入ったか、複数で森へ入ったかの二つしかない。
 私は後者であると考えるが、その根拠を示すに際して、今ひとつの疑問を取り上げよう。
 「お嬢さん」はなぜ、イヤリングを落としたのか、という問題である。
周知のように、イヤリングはそんなに簡単に落ちるものではない。走っただけで落ちるなら、欧米の女子短距離選手はどうなるであろうか。スタートライン付近などイヤリングだらけになること必定である。
 たしかに女性はイヤリングを落とすことがある。しかしほとんどの場合、それは外したものを落としたということである。まれに、衣服に引っかけたり大きな衝撃で落とすこともあるようだが、その場合は本人が気づかないということはまずない。ちなみに私の部屋でも、かつてとある女性がイヤリングを落としたままにしていたことがあったが、これは前者の典型的な例である。余談ではあるが、その後持ち主とは別の女性がそれを発見して、私は修羅場という漢字が書けるようになったのである。
 さて、「お嬢さん」の場合であるが、女性が一人で森に入ってイヤリングを外すことなどあるだろうか。シャワーを浴びるようなことも着替えるような可能性もないことを考えると、ここでは衝撃説を採らざるを得ない。
 衝撃説を採用しても疑問は残る。一人で森の中を歩いていてイヤリングが外れるほどの衝撃を受けることがあるだろうか。足元の危ない森の中であるから、転倒や転落、激突等という可能性は常にあるが、イヤリングが吹っ飛ぶほどの衝撃を受けて、その直後に「スタコラサッサ」と駆け出すことなど不可能であろう。
 私が、「お嬢さん」が森へ複数で入ったとする根拠はここにある。「お嬢さん」はともに森へ入ったその相手によって、何らかの暴力行為を受けたのである。それは平手打ちか、頭を振り回されたのか、頭を地面に押し付けられたのか、そこまではわからない。ただ、「走る余力を十分に残してイヤリングを落とす」ような衝撃は、人為的なものでしかありえない。
 これで、「お嬢さん」が厳しい禁忌を冒して、森へ入った原因も明らかであろう。連れ込まれたのである。

 そうすると、なぜ、だれの手でという新たな謎が生じるが、これについては別の角度から検討してみたい。
 「お礼にうたいましょう」に関する疑問である。
 まず、なぜ落とし物を拾ってもらったお礼が「うたう」なのか、ということについて考えてみよう。
 通常拾得物に対するお礼はその貨幣価値の5%から20%であると定められている。しかしながら、「お嬢さん」は財布を取り出すそぶりさえ見せず「うたう」ことでお礼に代えようとしている。これはあまりに誠意がないのではないか。たとえば、路上で肩をぶつけた相手が「誠意を見せぇいうとんじゃワレ」と要求してきた場面で、「じゃあ歌いましょう」などと答えようものならただでは済むまい。下手をすると相手方の事務所へ直行である。
 ただし、「お嬢さん」が本物の「お嬢」であれば話は別である。その歌声は千金に値するであろうが、まさか美空ひばりが森の中を歩き回っていたとは考えられない。
 したがって、この「うたう」にはお礼に値する何かが隠されていると見るのが順当であろう。
 歌の中身を見てみよう。「ラララ ラララララ ラララ ラララララ」である。歌詞も何もあったものではない。音名であると考えるにしても、このメロディがハ長調なら「ソラシ ドソミドラ……」となるはずである。強引に第1音をラで始めるにしても、「ラシド レラファレシ シドシ ラソファミレ」(ドとファは半音上がる)となるはずである。
 「お嬢さん」はとてつもない音痴であったのであろうか。
 そうであればなおさら、そのような歌はお礼に値しない。そう考えると、ここでは公にはできない何かが歌われていると断定せざるを得ない。いわゆる「伏せ字」である。
 やはり、「うたう」には別の意味が隠されているのだ。
 「うたう」には歌を歌うという以外にも二つの用法がある。
 ひとつには関西で特定の職業の方々がよく用いるものがある。たとえば、先の誠意の話に続けて、「なめとったらうたわすぞ、このガキ」とおっしゃることがままある。関西では日常よく耳にする表現であるが、この場合は「泣き叫ぶ」が原義であるので、これが「お嬢さん」に当てはまるとは考えにくい。
 つぎに、警察関係者あるいは犯罪常習者の用いる隠語として用いられる場合がある。たとえば、「おやっさん、あのマル被、とうとううたいよりましたで」(班長、あの被疑者がとうとう自白しました)、あるいは「おんどれ、よけなことうたいくさったら、わかっとんな」(君、警察に余計なことを白状すれば、コンクリート詰めで大阪湾の底ですよ)というような場合である。
 すなわち、「うたう」は警察に対して「自白」するの意であり、ここではこれこそが妥当すると考えられるのである。
 ここではじめて「くまさん」の職業が明らかになった。「くまさん」は警察官なのである。
 そして「お嬢さん」には警察に対して「うたう」べき何かがあったということも知れる。
 三たび整理してみよう。
(a)「お嬢さん」は何者かによって森へ連れ込まれた。
(b)「お嬢さん」はその何者かの暴力によってイヤリングを落とした。
(c)「くまさん」は警察官である。
(d)「お嬢さん」はイヤリングを拾ってもらったお礼に「くまさん」に対して犯罪への関与を自白している。

 ならば、なぜ「お嬢さん」は「うたう」のであろうか。いったんは逃げておきながら。顔見知りの警察官に見逃しておいてもらいながら。
 ここでは「あら、くまさん」に込められた万感の思いを読み取るべきであろう。
 大切な人の娘であるとはいえ、自らの職務をなげうって警察官が犯罪者である自分をかばおうとしている。あまつさえ、物的証拠の隠匿にまで協力してくれている。おそらくその認識が「お嬢さん」を感動させ、その改心を促したのであろうことは想像に難くない。それでこその「あら、くまさん」である。
 それでは、何を「お嬢さん」は「うた」ったのであろうか。
 この論稿の前半を思い出していただきたい。私は、この童謡において「お嬢さん」と「くまさん」は一対一で、他の者の存在はないと述べた。また、「危険な場所」は歌詞以前に用意されていたとも。
 すなわち歌詞以前の時点で、「お嬢さん」を森へ連れ込んだ何者かの姿は失われているのである。しかし、その何者かは既に立ち去った後だったというのは明らかな誤りである。もしそうなら、「お嬢さん」はその場から逃げる必要はない。その場合、そこは単に「お嬢さん」がイヤリングを落とした場所というだけであって、他人に知られて困る要因など微塵もない。
 そう、この歌が歌われる以前、「お嬢さん」が「くまさん」と出会う以前に、既にその何者かは「お嬢さん」の足元に倒れていたのである。それも死体となって。
 ここに、この童謡に隠された恐るべき事実が明らかになったといえよう。これはなんと殺人事件なのである。
 しかも、「お嬢さん」の犯罪はそれだけにとどまらない。
 なぜなら、無関係な何者かに森へ連れ込まれ、その暴行に抵抗して偶発的に殺してしまったいうだけであれば、なにも「うたう」必要などないのである。殺人現場は「くまさん」の目の前にある。何が行われたかは一目瞭然である。相手が見知らぬ女性なら現行犯逮捕ですべてが完結するような場面である。
 たとえ「お嬢さん」が、いったんは逃げかけた後で逮捕を覚悟したとしても、そこにあらためて「自白」すべき事実などない。「突然さらわれて連れ込まれ、結果こうなりました」と告げるだけでよいのである。
 すなわち、「お嬢さん」と殺された何者かの間には、そこに至る背後関係があったと考えるべきなのである。
 おそらく何らかの犯罪にかかわって、長らく共犯関係にあったのであろう。そしてその日、森の奥深くで、ついに仲間割れを起こしたのである。
 なら、わざわざ森の奥深くで話し合うとはどういうことか。次の犯罪の打ち合わせや逃亡計画の検討等ではありえない。それらならばむしろ人込みに紛れることのできる都会の方がふさわしい。
 森の奥深くということは、そこが犯罪の証拠品(現金や盗品あるいは密輸品)の隠し場所になっていたということにほかならない。そして恐らくその分け前をめぐっての殺人なのである。
 そして、「お嬢さん」は、それらすべてについての経緯を「うた」ったのである。

 ああ、なんということであろう。微笑ましいとばかり思われていた童謡に、子どもたちが好んで輪唱する童謡に、これほどの事実が隠されていたとは。

 ディテールには不明な部分も多いが、以上の考察によって明かになった状況を、読者の理解を容易にするため、小説仕立てで再現してみよう。
 かつての人気テレビ番組『ウィークエンダー』における再現フィルムの要領である。したがって、ここまでの私の文章は、レポーターである桂朝丸(現ざこば)の「こいつ、ほんまに悪いやつでっせ~」に相当すると考えてもらってよい。

5.《再現小説「森のくまさん」》

 ある日、駐在の熊田春吉巡査(33)は、県警本部から全国指名手配中の連続窃盗犯が森に入ったらしいとの連絡を受けて、単身捜索に向かった。本来は応援の到着を待って山狩りを行うのだが、この村出身で正義感の強い熊田は、応援の到着を待たずに、日常の警邏のふりをして森へ向かった。
 熊田が一人で森へ向かったのにはもうひとつの理由があった。
 この窃盗犯の陰に若い女性の姿、しかも、かつて地元での就職を希望していた熊田を駐在に取り立ててくれた大恩ある前村長の娘の名前が、非公式にではあるが取り沙汰されていたのである。熊田はお嬢さんの無実を信じていた。そして決心していた。万一お嬢さんが犯罪に関係していたとしても、お嬢さんだけは守ってみせると。窃盗犯が警察官である自分に対してお嬢さんの名前を口にしようものなら、その場で射殺してもよいとまで思っていた。
 このとき、熊田の胸の奥には、本人も気づかぬ娘に対する秘められた熱い想いがあったことは疑いがない。
 森の中深く、熊田が花咲く森の道にさしかかった時である。見慣れた女性の姿をみとめて、熊田は愕然とした。お嬢さんではないか。
 娘の髪は乱れ、ブラウスも胸元が大きく裂けている。
 娘は蹌踉とした足取りで、熊田が近づくまで気づかなかったという。
「お嬢さん、いったいどうなさっただ」
 娘は、はっとして振り返ったが、それが熊田であることを認めると、観念したようにかたわらの茂みを指さした。
 熊田は再び腰を抜かさんばかりになった。手配中の窃盗犯が頭から血を流して倒れているではないか。男が死んでいることは一目で見て取れた。そして、そばに血だらけの石塊が落ちていた。
「お嬢さんお逃げなさい。じきに大勢の警官がやってきます。ここは私にまかせて」
 娘は我に返ったようにあたりを見回し、熊田に深くお辞儀をすると無言で走り出した。
 熊田は近くの岩場から死体を投げ落とすつもりだった。そうすれば殺人は露見しない。男の死を転落事故に見せかけるつもりだった。
 死体を持ち上げたとき、熊田の足元で何かがキラリと光った。娘のイヤリングだ。熊田の背中から冷や汗が吹き出した。白い貝殻のイヤリングなど、この村に一組しかないことは、村の娘ならば全員知っている。
 熊田はそれをつかんで走りだした。日ごろ柔道で鍛えた体である。若い娘に追いつくことなど造作もない。
「お嬢さん、お待ちなさい、ちょっと落とし物。これ、こんなもん残しといたらあとでどえらいことになる」
 熊田は白い貝殻の小さなイヤリングを差し出した。
「あら……」
 娘は絶句した。娘は深く胸を打たれた。昔の恩人の娘とはいえ、自分の職務をなげうって、この男はどうしてここまで。警察官なのに、私のような犯罪者にどうしてそこまで。
 「……くまさん」
 娘の大きな美しい目から、みるみる涙があふれ出した。
「ありがとう」
 娘は、小さなイヤリングの乗った熊田の大きな手を両手で包み込んだ。
「お礼にうたいましょう」
 娘は、男との関係とこれまでの犯罪をすべて自白した。
 熊田の慟哭が森に響いた。

          (了)

よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは、創作活動の大きな励みになります。大切に使わせていただきます。