アナタ

 アナタはいつもそうだった。何も言わず、ただ、私をじっと見つめていた。
朝の最寄駅のホーム、皆んなスマホや雑誌や新聞に見入っているのに、アナタだけはずっと私を見つめていた。たまに目が合うと、アナタは嬉しそうにニタっと笑い、爛々とした表情を浮かべた。私は怖くなった。用もないのにスマホを弄ったり、他の人の後ろに隠れたりもした。とにかくアナタを視界から外したかった。
それなのに……アナタは私を見つめるのをやめなかった。
 
 外回りから会社に戻る途中、前髪が気になり鞄から正方形の手鏡を取り出して、鏡を覗き込んだら──独り佇むアナタの姿が映った。アナタは行き交う雑沓などものともせずに距離を縮めて来た。
逃げなくちゃ──私は震える足で歩き始めた。しかしまともに歩くことができず、歩道のちょっとした段差につまずいて、盛大に転んでしまった。その時、たまたま近くに居た会社の先輩が気付いて声をかけてくれた。その先輩はとても優しかった。人見知りで内向的な私にも、まるで古くからの友人のように話しかけてくれた。私はその先輩と一緒に会社へ帰った。その後も会社で顔を合わせる度に、私の胸は高鳴り強く脈打った。これが恋なんだと知った。
 
 しばらくして、私と先輩は恋仲になった。人生で初めての彼氏。歳は私より三つ上の二十八歳。父親も男兄弟もいなかった私には全ての事が新しく、楽しかった。
遥香はるかの手料理が食べたいな」
 そう言われた時は、スーパーで食材を買い、彼の家に行き、母から教わった手料理を振る舞った。それを牧雄まきおはあっという間に食べてしまった。心配になった私は洗い物をしながらそれとなく、
「男の人っていっぱい食べるんだね。足りた?」
 と聞いた。するとリビングでくつろいでいた牧雄がキッチンへとやって来て、
「大丈夫、お腹いっぱいになったよ。ありがとう」
 後ろから優しく抱きしめて頬にキスをしてくれた。私は嬉しくなり、牧雄の唇にお返しのキスをした。
 初めてお泊まりした翌朝、突然洗面所からジジジジジーと蝉の鳴き声の様なすごい音が聞こえてきた。慌てて様子見に行くと、牧雄が寝ぼけた顔で、
「おはよう。どうした?」
 と見知らぬ黒い機械を片手に聞いてきた。私は牧雄が手に持っている物を指差して、
「それは何?」
 と何も知らない幼子の様にいた。
「これか? これは、髭を剃るための電動シェーバーだよ。男の七つ道具さ」
 寝起きで呂律が回らなかったんだね。時々声を裏返しながら教えてくれた。その様子があまりにも可笑しくて、私は朝からお腹を抱えて笑ってしまった。
 
 そんな幸せな日々が続いたある日の夕方、私は母と暮らす部屋へと向かっていた。最近は牧雄の家に泊まることが多く、母と暮らしているアパートに帰るのは週に三日ほどまで減っていた。そういえば、以前アナタの事も母に相談したんだよね。最初は母も警察に行った方がいいんじゃないかって心配してたけど、アナタの容姿を伝えた途端、母の表情が一気に曇り、急に口を閉ざしてしまった。それから、「危害を加えないなら、様子を見ましょう」と囁くように言った。私は訳がわからず抗議したが、母の意見は変わらなかった。いま思いば当たり前のことだったんだよね。
 でも、私は知らなかったから、玄関を開けて部屋の電気を点けた時、口から心臓が飛び出しそうになった。だってそうでしょう。本来居るはずのないアナタが部屋の奥の窓際に立っていたんだから。私は恐怖に縛られ動くことができなかった。叫ぼうとしても喉が言うことをきかなかった。その間もアナタはずっと私を見つめていた。いつもと違ったのは、口がパクパクと動いていたこと。実際に言葉を発していたのか、それとも私の見間違いだったのか。今となってはもうわからない。覚えているのは、あなたが私に近付いて来たこと……恐怖に駆られた私が台所にあった包丁を握りしめたこと……その時アナタが「遥香、落ち着け」と言ったこと……その言葉を聞かず私がアナタの心臓を刺したこと……。帰って来た母が私とアナタを交互に見て、アナタに覆い被さり泣き崩れながら、「どうして『お父さん』を刺したの! なんで!」
 と私に言ってきたこと……訳がわからなかった。それから母の泣き声を聞いて飛んできた、隣に住む六十代くらいの男性が慌てた様子でどこかに電話をかけていたこと……。
 パトカーの後部座席に乗せられた私は、何も考えられず、頭を窓にくっ付け、ぼんやりと外の景色を眺めた。与えられた役目を果たすため、機敏に動き回る警察官たち。その中に、アパートの階段に座り込む母の姿があった。複数の婦人警官たちが、母を慰めるように肩や背中をさすっていた。頭の中で母の言葉が反響する。お父さん……オトウサン……おとうさん。そっか、離婚したから声をかけづらかったんだね。でも、私を放っては置けなかったから、いつも距離を取って『見守って』くれてたんだね。
 私は泣いた。堰を切ったように涙が溢れ出した。恥も見聞も無く、鼻水とよだれを垂れ流して泣きじゃくった。最後に私は嗚咽混じりに叫んだ。
「どうして言ってくれなかったのよおおおおおお!」        
             終わり

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