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『法善厳一郎 拾うは生者の反響』   第五話 遅くばせながら 一

 住宅街は帰宅を急ぐ車で溢れ返っていた。ミニバンや普通車や軽自動車が次々と現れては、各々の家に車を停めるため、路上で一旦停止し、ハザードランプを点けバックをする。その度に霧野は車を止め、様子を見守り、最後に互いに軽い会釈をして別れる。これを幾度となく繰り返した。
 その後、長い下り坂を進み、住宅街の出入り口であるT字路を右折し、ようやく幹線道路に戻れた霧野はその様相を見て思わず、
「マジかよ……」
 と情けない声を漏らしてしまった。無理もない。なんせ目の前の幹線道路には無数のブレーキランプが列を成し、徐行程度にしか進んでいなかったのだから。何でこんなに混んでるんだよ……そもそもこの大量の車は一体何処どこからやって来たんだ? 霧野は運転席の窓に頭を押し付け渋滞の先を窺った。するとあろう事かこれから通ろうとしている海沿いの工業地帯から、一日の仕事を終えた労働者達が魚群の様に幹線道路へと流れ込んで来るのが見て取れた。ハッとした霧野は車のデジタル時計に目をやった。時刻は十七時四十五分を示していた。
「しまった……帰宅時間と重なったかあ」
 まあ、焦ってもしょうがない。気長に待つとしますか。霧野は左手を肘置きに預け、右手一本でハンドルを握り、だらけた姿勢で前の車のブレーキランプをぼーっと見つめた。
 
 それから数十分後、霧野の車は幹線道路を左に曲がり、R工業地帯へと入って行った。目の前に広がる片側三車線の太い道路を、火力発電所に石炭を運ぶ二十トンダンプや物流を担う大型トラックが忙しなく走り抜けて行く。そこに一般車両も加わり、相変わらず混んではいたが、こちらは車線が多いため時速四十キロから五十キロで走る事ができた。先程積もったストレスが自己の中でスーッと消えていくのを霧野は感じた。工業地帯を突っ切るように進んだ霧野は、どれだけ長く全幅のある車両も悠々と曲る事ができるであろう大きな十字路の交差点を右折し、U町へと繋がる抜け道へと入った。

 少しの間、右も左も広大な工場を囲う金網のフェンスに挟まれた直線を進むと、平坦な道は緩やかな左カーブを描きながら登り坂へと変わった。穏やかだったエンジンも徐々にうなり上げ力強く加速して行く。しかし、カーブを抜けた先に現れた信号機が赤を灯しているのに気付き、霧野は素早くブレーキを踏んだ。車は甲高い音を立て急激に減速し、停止した瞬間、霧野の身体がガクッと前に押し出され、シートベルトに寄り掛かる格好になった。
「いかんな。さすがに疲れたか?」
 霧野はぼーっと月明かりだけに照らさせた信号機を眺めた。背後にそびえ立つ急勾配。街灯など存在しない真っ暗な一本道。確認できる生命体といえば、反対車線と霧野の後ろに並ぶ五、六台の車だけ。物悲しい……そんな言葉が頭をよぎった時、左手前の脇道から一台の車が出てきた。ヘッドライトの光を浴びたアスファルトが闇夜に浮かび上がる。それを目にした霧野は、そうだ忘れてた。厳一郎の家はここから入るんだった。いかんな。待てよ──そういえば直ぐ近くにO公園もあったな。先月家族と桜を見に来たんだ。満開の桜がずらりと並んで綺麗だったなあ。とは言えさすがにもう散ったか? まあいいや、ついでにちょっと寄り道して行くか。目の前の信号が青に変わるのと同時に、霧野は左のウィンカーを上げ、O公園へと続く脇道へと入って行った。

 不気味な静寂に包まれた鬱蒼と茂る森を右に、石油の入った大きな円柱のタンク群を左に見ながら、霧野の車は暗闇の坂を登って行く。しかし、さして恐怖は感じなかった。親友宅へと続く通い慣れた道。霧野の頭の中では昼間の描写が重なり、寧ろ自宅に帰るような安堵さえ感じていた。
 坂を登り切ると海へと続く一本道が姿を現した。だが、傾斜のきつい下り坂の先にある断崖絶壁と駐車場を繋ぐ斜めに掛けられた橋のゲートは、夜になると閉鎖されてしまう。その為、海へと降りて行く事は叶わない。もっとも霧野の目的はO公園に行く事だったので、彼は何の躊躇ためらいもなくハンドルを右に切り、O公園の駐車場へと進み車を停めた。
 煙草とライターと金属で出来た携帯灰皿を持って下車した霧野は、煙草を口にくわえ火を点けた。吐息と共に燻らせた紫煙しえんは、汐風しおかぜに乗り、流動的に形を変えながら、夜空に溶け込んで行く。それを見送った霧野は法面のりめん加工されたコンクリート壁の上にそびえ立つ、水色の灯台へと視線を移した。頂上まで登ると見晴らしがいいんだよな。遠くまで見えてさあ。幼少期から現在までの思い出が胸に去来きょらいする。駄目だな。何か他の事を考えよう。気持ちを切り替える為、霧野は鼻をすすりながら右を向いた。小高い丘の上に造られたO公園からは海から内陸へと続く夜の町が一望できた。月光を反射する太平洋。街灯や常夜灯や停泊する大型タンカーの煌《きら》びやかな明かりにいろどられた埠頭。車の放つ光りが蛍の様に縦横無尽に動き回る市街地。執筆で行き詰まっていたが、こうしてみるとこの世界も綺麗なもんだな……煙草の先に溜まった灰を携帯灰皿に落としながら、霧野は誰もいない夜の駐車場で、黙々と煙草を吸い続けた。

 よし、オッケイ。煙草のお陰でだいぶリフレッシュできた。どれ、夜のO公園に別れを告げて、厳一郎の家に行きますか。と言っても……直ぐそこなんだけどな。霧野は先程の三点セットをジーンズのポケットにしまい、身体を反転させ、駐車場の前を通る横道の先を眺めた。立派な日本家屋が開けた土地の奥側約半分を占有せんゆうし、その周りを外界から遮断するように屋根の掛かった土塀が囲っている。まるで神社仏閣を彷彿とさせる佇まいである。初見であれが個人宅だと気付く人間はいないだろうな。或いは、それが狙いなのか。アイツの家は変わってるから皆目見当もつかんが……まあいい。取り敢えず電話するか。いきなり押しかけても悪いし。
 車内に戻ると、霧野はショルダーバッグからスマートフォンを取り出し、厳一郎の名前をタップした。
 二回目のコール音が鳴り終えたあと、待ち望んだ声が耳に響いた。
「はい、厳一郎です」
「もしもし、霧野だ。厳一郎、いま大丈夫か? ちょっと相談に乗ってほしい事があるんだが……」
 静寂が割って入る。厳一郎が思案している証だ。
「大丈夫だが……一つ訊きたい。事件か? それとも厄介事に巻き込まれたのか? 或いは自ら首を突っ込んだのか。どれだ?」
 単刀直入の返答であった。霧野は答えにきゅうした。もし、事件性がないと判断されれば断られてしまう。かと言って、嘘を吐いたところで直ぐにバレてしまう。千思万考せんしばんこうの末、霧野は素直に述べる事にした。
「どちらでもない。人助けだ」
 ──どうだ。霧野は固唾を呑んで厳一郎の様子を窺った。
「ほう、君も頭は切れる方だ。その君が解決できない案件とは……大いに僕の興味を惹きつけた。それに相手の方も君に助けをうとはなかなかお目が高い。会ってみたいな」
 よっしゃ食いついた。霧野は安堵の溜め息を吐くと共にほっと胸を撫で下ろした。しかし、そんな事はお構いなしと言わんばかりに厳一郎の質問は続く。
「それで、君は今どこにいるんだ?」
「実は直ぐ近くまで来ているんだ」
「なんだ、もうO公園の駐車場まで来ていたのか。なら、僕が大門の隣にあるガレージの門扉を開けるから入っておいでよ」
「わかった」
「それともう一つ。君は一人で来たのかい?」
「ああ、そうだ。一人だ」
「相手の方は?」
「もう夜だからな。今日は連れて来なかった。まずかったか?」
「いや、後日直接会って話を聞くから構わないよ」
「そうか」
「それじゃあ、暫くお待ちを」
 簡潔明瞭かんけつめいりょうなやり取りを済ませると、霧野はスマートフォンを助手席に置き、気の抜けた顔でハンドルにもたれ掛かり星々が煌めく夜空を眺めた。
「それにしても、相変わらず近代文学みたいな喋り方をするなあ、厳一郎は。まあ、俺も人のことは言えんが」
 飄々ひょうひょうと話す厳一郎の声が耳の奥でこだまする。互いに現代文学よりも近代文学を好み、物書きで生計を立てている者同士。気が合うのも自然な成り行きだったのかも知れない。
「類は友を呼ぶ……かあ」
 独り言が口を衝いて出た。その直後──ピポポポパン。着信音が車中に鳴り響いた。急いで電話を手にした霧野は画面を覗き込む。厳一郎の名前が表示されていた。霧野はスマートフォンの画面をタップし電話に出た。
「もしもし? どうした?」
「ガレージの門扉を開けたよ」
 抑揚のない声質に従い、霧野は厳一郎の家へと目を向けた。確かに先程まで閉まっていた大門の隣の門扉が開いている。
「気付かなかった。直ぐそっちに向かうよ」
「待ってるよ」
 短いやり取りであった。関心がある時こそ無関心を装う。相変わらずだな。厳一郎よ。まあいい。さて、あまり待たせると悪いから、物想いに耽るのもこのぐらいにして、行くとしますか。O公園の駐車場に、黒い軽自動車のエンジン音だけが響き渡った。

 とはいえ、厳一郎の家は目と鼻の先である。霧野はO公園の駐車場を出たあと左に曲がり、車がギリギリすれ違える程のまあまあ狭い道を三十メートル程直進した。そして幾筋ものうねが列をなすキャベツ畑と、法然邸の屋根の付いた土塀との間に挟まれた未舗装の道へと入るべく右折を行った。
 張り付きの良さそうな泥や、僅かに残った水溜りが垣間見える道を、車のヘッドライトだけを頼りに進んで行く。
 大門の前まで来たところで霧野は車を止め、ブレーキペダルを踏んだまま、身体を左によじった。大きな格子戸こうしどの門扉を背負うように厳一郎が立っている。長髪とまでは行かぬ伸び散らかした黒髪に、ブラウンの瞳が際立つ色白の顔。長身でありながらも広い肩幅と厚い胸板をあわせ持つ体格の良い身体。夜になり気温が下がったせいであろう。厳一郎は上下ともに灰色のスウェットを身にまとっていた。霧野は助手席側の窓を開けた。
「すまんな、厳一郎」
「構わないさ。車は駐車場に停めてくれ」
「ああ、わかった」
 手短に挨拶を済ませると、霧野は身体を前方に戻し窓を閉めた。静寂に支配された暗闇が包み込む中、再び車が動き出す。
 少し進むと学校や会社で見かける黒い大型引戸門扉が、長く続いた白い土塀を切り裂くように設置されているのが視界に入った。霧野は身を乗り出し、車一台分開かれた門扉を慎重に通り、法然邸の駐車場へと入って行った。

 車が進む度にタイヤで掻き分けられたビリ砂利が海のさざなみに似た音を奏でる。霧野はぽつりぽつりと街灯が佇む法然邸の駐車場の一番奥まで進み、バックで車を止めたあと、小物をショルダーバックに詰め込み、車を降りた。
「ああー疲れた!」
 霧野は欠伸あくびを噛み殺しながら大きく伸びをした。ザクっザクっ──少し離れた所からビリ砂利を踏む足音が聞こえてくる。音の方に目をやると厳一郎がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。自ずと霧野の重たい足も厳一郎の方へと向く。二人はお互いに歩み寄り、駐車場の真ん中で落ち合った。

「ほう、随分お疲れの様だね、霧野君」
 茶化すような口調で厳一郎が述べた。霧野は欠伸と共に出た涙を手の甲で拭いながら、
「まったく忙しい一日だったぜえ。まあ、その分退屈はしなかったがな。頭を使い過ぎてクタクタだよ」
 眠そうな目付きで厳一郎を見つめた。厳一郎は後ろで手を組み霧野をじっと観察したあと、ニコッと微笑み、
「そうか。随分と充実した一日を過ごしたんだね。うらやましい限りだよ。しかしながら僕が気になって仕方ないのは、先程電話で話した相談事についてなんだ──どうだろう、ここで話してはくれないか?」
 真剣な眼差しつ穏やかな口調で促してきた。霧野は何も言わずに厳一郎の顔を覗き込み一言。
「ここで話すのか?」
「そうだ。君はもう僕の家まで来たじゃないか。駐車場も我が法然家の歴とした敷地内だ。さあ、聞かせてくれ」
 まったくいつもこれだ。なぜ事件のことになると礼儀や常識を忘れるのか……霧野は苦笑を浮かべ、うつむき、頭を横に振った。しかしこれから相談に乗ってくれる親友に、呆れ顔や説教をしてはマズイ。霧野は優しく厳一郎に語りかけた。
「ああ、なるほどな……確かにそうだ。お前の言っていることは間違っていない。しかしだ、厳一郎よ。どうだろうか。取り敢えず、家の中に入ると言うのは。ここじゃあ……ちょっとな」
「ほう、やはり事件の可能性が高いという事か。よかろう。僕の書斎でゆっくりと話を聞くとしよう」
 厳一郎は軽やかな足取りで歩き始めた。
「喜んでお話しますよ。名探偵」
 霧野は含み笑いで肩を揺らしながら、厳一郎について行った。

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