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溢れ出るモノ

蒸し暑い夏の夜。俺はいつものようにベッドで寝ていた。幸い俺の部屋にはクーラーが付いているので、タオルケット一枚被れば程よい体温を保つことができた。俺は心地良い眠りを満喫していた。
 深夜二時を少し回った頃、尿意を感じて目が覚めた。上半身だけムクっと起こし、無言のまま睡魔と闘う。数分の後、今にも爆発しそうな膀胱の悲鳴を聞き入れ、俺は自室を出た。
 一階にあるトイレへ向かう為、階段の手摺てすりを掴んだ時、下の階から物音が聞こえた。
「……なんだ、夜中だぞ。まさか、泥棒か」
 半信半疑に思いながらも、万が一に備え、俺は猫の様に足音を消して階段を降りた。
 不審な物音はトイレの向かい側の若干離れた場所にある母の部屋からだった。扉の僅かな隙間から、部屋の灯りが漏れている。
なんだ、音の正体は母さんか。それにしても……一体こんな時間に何をしているんだ? 
 俺はそっと母の部屋に近付き、息を殺して、数センチだけ扉を開けた。
どういうことだ? そこには外出用の服に着替え、鏡面台に座り化粧をしている母の姿があった。俺は素早く部屋の中に入り声を掛けた。
「母さん! まさか出掛けるのか?」
「そうよ、今日は高橋さんと夕食を食べに行くの」
 鏡越しにチラッと俺を見ると、母は再び化粧を始めた。それからの光景は異常だった。口紅を塗ってはティッシュを咥え、また口紅を塗ってはティッシュを……まるで通り過ぎた馬の乗り物が上下運動を繰り返しながら回り続けるメリーゴーランドの様だった。俺は母さんの肩に手を乗せ、もう片方の手で時計を指さし、優しく語りかけた。
「母さん……時計を見て。夜中の二時だよ。もう、寝よう」
 最初はキョトンとしていた母だったが、時間を確認すると、
「あら、日にち間違えちゃった。恥ずかしいわ」
 冗談口調で言い、照れ笑いを浮かべた。俺は微笑み返すことしかできなかった。
 その後、母さんをパジャマに着替えさせた俺は、自分の部屋へ戻ったふりをして、暫くの間、階段の中段付近に座り込み、聞き耳を立てた。幸いこの日は大人しく眠りについたようで、母の部屋から物音が聞こえてくることはなかった。はあ……良かった。でも、なんでだよ。あんなにしっかりしてたじゃねえか。元気だったじゃねえか。なのに……なんで……。俺の目から自然と涙があふれた。啜り泣く音だけが、静まり返った家中に響いた。

 その翌日、午前十時頃、俺は自室で三つ上の兄に電話をかけた。この日は日曜日だった為、直ぐに電話に出てくれた。緊張のせいか、それとも打ち明けるのが怖かったのか……俺は部屋の中をウロウロと歩きながら事情を説明した。
《それでこれからの事なんだけど、母さんを病院に連れて行こうと思うんだ。やっぱり医者に診て貰った方がいいと思うんだよ》
《同感だ。どのみち介護サービスを受けるにしても、医師の診断は必要だからな》
《その時は、兄さんと夏子さんも一緒に来てくれる? 俺一人じゃ不安だし、そもそも話を聞いてもわからないと思うんだ》
《もちろん行くさ。それに、もし施設に入る事になったら、俺の口利きで入所先を探せるかもしれない》
《本当に?》
《空きが出ていれば……だけどな》
《その言い方だと、望み薄って感じだね》
《悪い。どこも満室で予約待ちなんだよ。でも、俺もたまに様子を見に行くから。次の日が休みなら、実家に泊まってもいい。そうすれば、勝也だってゆっくり休めるだろう》
《そうしてくれると助かるよ》
 本当は、兄さんだって忙しいだろうに……長男の大和は進学と共に上京し、そのまま東京の中堅会社に就職した。介護用品の販売やレンタルを行っている会社らしい。その三年後、大和が二十五歳の時、合コンで知り合った看護師の夏子さんと結婚した。三十歳になった現在は、夏子さんと二歳になる娘のユメちゃんと一緒に親子三人仲睦まじく暮らしている。
 その後も互いの近況報告などで話に花を咲かせた。最後に兄は小声で言った。
《勝也、母さんの事を任せきりにしちまってすまなかったな》
 声が震えていた。涙を堪えているんだなと直感でわかった。
《いや、俺の方こそ申し訳ない。母さんと一緒に暮らしていながら、異変に気付くのが遅れてしまった》
《そんなこと言うな……来週の日曜日は……必ず行くから。それまではすまん……一人で頑張ってくれ》
 電話の向こうから、パパを心配するユメちゃんの声が聞こえてきた。俺は機転を利かせた。
《なんだ、今日じゃないんだ。ちょっとガッカリだなあ。泣いてる兄さんの顔を見られると思ったのに》
《フッ──すまん、今日はちょっとな……》
《言い返さないのか? いつもの兄さんらしくないよお。まあいいか。それじゃ、もう切るよ。またね》
 俺は兄さんの返事を待たずに電話を切った。兄の優しさが心に沁みた。だが、それと同じくらい己の人生に対する悲哀に襲われた。母親はおそらく認知症、自分は結婚もできず、低賃金で生活するのもやっと。実家暮らしでなければ住むところを失い、路頭に迷っていただろう。
 俺はベットに腰掛けた。涙が頬を伝い流れ落ち、白いシーツを色濃く染めた。その形状と色彩は、心にぽっかりと空いた穴を体現しているようだった。

 日が傾き夕暮れ時を迎えた頃、俺はスマホのロックを解除して、ホーム画面に目をやった。時刻は十七時三十分だった。莉子りこのやつ、仕事終わったかな。取り敢えず、電話掛けてみるか。俺はベットに寝転がったまま、電話帳を開き、水色で表示された莉子の電話番号をタップした。数回コール音が鳴ったあと、留守番伝言サービスに案内された。
「やっぱり出ないか……」
 俺は薄暗くなった部屋の中で唯一光を放つスマホの画面を見つめた。莉子は俺の三つ下だから、今年で二十四歳か。莉子は東京へは行かず神奈川県の大学に進学した。その後、千葉県の会社に就職。結局どんな会社なのか、未だに教えて貰えず。だが、なぜ千葉県を選んだのかは知っている。以前、莉子のInstagramを覗いた時──そうか、莉子のアカウントにメッセージを送ればいいんだ。そっちの方が早い。俺は急いでInstagramを開いた。
「嘘だろう、勘弁してくれ」
 スマホの画面には莉子と彼氏と思われる男性が手を繋ぎイチャイチャしている写真がデカデカと映し出されていた。電話に出なかった理由はこれか。しかもここって……。そこはあの世界的に有名な某テーマパークであった。だろうな、莉子はここが大好きだからな。それでわざわざ千葉県に職場と住居を確保したんだもんな。人生を謳歌してるなあ……。俺は莉子が上げた写真を一枚一枚見ていった。兄として微笑ましい気持ちになった。しかし、心のどこかで、そうじゃない自分もいた。なぜ俺だけ地元に残っているのか。なぜ俺だけ煩わしい親戚付き合いをしなければならないのか。なぜ俺だけ町内会の集まりに出て近所の連中に愛嬌をふりまく必要があるのか。何より──妹は母さんの面倒を見ないつもりか? 自分さえ良ければそれで良いと……だんだん腹が立ってきた。俺はスマホを閉じて、枕に顔をうずめ、叫んだ。喉が痛くなろうが関係なく叫び続けた。他人にとっては単なる奇声だったかもしれない。でも、俺にとっては悲鳴だった……誰にも届くことのない本音……ついに、俺は壊れた。

 その日の夜。時刻は昨晩と同じ深夜二時。俺は母さんの部屋に居た。色鮮やかな血飛沫ちしぶきで染まった壁。無数の刺し傷から血を流し横たわる母。握りしめた包丁から滴る生温い血液。それらが合わさり血の海と化した五畳一間。ああああ……ごめんよ母さん。
「でも、これでみんな楽になれたね」
 俺の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しい音を立て、溢れ出た鮮血の中に消えていった。
               
                  完
           

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