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『法善厳一郎 拾うは生者の反響』   第五話 遅くばせながら 三

 霧野は今日あった出来事を可能な限り順序よく厳一郎に話した。河川敷公園で和田優希に会ったこと……その後とんでもない相談を受けたこと……時田真奈の家に行き調査したこと……特に相談内容と調査報告に関しては漏れがないように注意を払った。
「……という事なんだ。何かわかったか?」
 一通り話し終えた霧野は不安げな表情を浮かべ、厳一郎の顔を覗き込んだ。
「ああ、大丈夫だよ。ちゃんと順追って話してくれたから、何があったかは大方理解できた。それにしても……なんともまあ 判別の難しい案件だな」
 厳一郎は苦笑を浮かべ、長く深い溜め息きを吐き、それから約五分間、頬杖を付いて襖の丸い取っ手部分を眺めたり、指で畳をトントントンとリズムよく叩きながら推考にふけっていた。

「普通に考えれば、霧野の想像通り、もう時田大輔は時田真奈に殺され、この世にはいないだろうな」
 唐突に口を開いた厳一郎の言葉に、ああ……やっぱりか。と霧野は目を伏せて俯いてしまった。
「しかしながら──僕の推理は全く違う展開を示している」
「はあっ!? どういう事だ!?」
 驚きのあまり声が裏返ってしまった。
「まあ聞いてくれ。僕の推理が間違っていなければ、おそらく時田大輔さんは今も生きている筈なんだ。しかし、残念ながら僕の推理はまだ推測の域を出られていない。なぜか。情報だよ霧野君。情報が不足しているんだ」
「俺の見た事は全部話したぞ」
 霧野は恐る恐る述べた。すると、厳一郎は不気味な笑みを浮かべ、霧野の頭を指差した。
「いいや、全部じゃない。いいかい霧野君、
君は僕の欲しい情報を目にしている筈なんだ。しかし、君自身はそれを重要な情報だとは認識していない。だから先程の話から抜け落ちてしまった。よって……残りの情報は 君の記憶から引き出すしかない。それでは──始めるとしよう」
厳一郎は胡座から正座へと姿勢を改めた。霧野も厳一郎にならい姿勢を正す。
「霧野君、これから幾つか質問をするから、君の見た光景を思い出しながら答えてくれ」
「わかった」
 厳一郎の優しくも引き締まった声が霧野の緊張を徐々に高めて行く。厳一郎は右手の人差し指をピンっと立て質問を開始した。
「ではまず一つ目、息子の大輔さんが行方不明になった時、時田家で工事が行われていたか?」
「うーん、工事と言えるかはわからんが、家を囲んでいた鉄製の柵が生垣に変わった事はあったらしい」
「ならばその事に関してさらに二つ質問しよう。それはどのぐらいの期間行われていた?」
「そこまでは聞いてないな」
「ではもう一つ、その時ショベルカーなどの大型重機を見かけなかったか?」
「それもわからん。なんせそこまで重要な事だとは思ってなかったから、詳しくは聞いてないんだ」
「そうか。ならば一つ目の質問はここまでにしよう」
 申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせる霧野に対して、厳一郎は軽く微笑み返した。
「二つ目の質問は、時田家のリビングに動かせそうな家具はなかったか?」
「うーん……思いつ付かないな。でも無理な物は頭に浮かんだ」
「それでも構わない。消去法で行こう」
「間違いなくテレビ台は無理だろうな。あのデカイ壁面収納型は動かせないだろうし、それにソファーも動かせないって訳じゃないが女性一人では厳しいだろうな。あと奥にあったキッチンも──ってこれは当たり前か。そうなると残るは……」
「小型のテーブル」
「そうだ! あれなら簡単に動かせるだろうな」
 視線を宙に漂わせながら喋っていた霧野はハッとした表情で厳一郎に目をやった。そこには嬉しそうに片方の口角を上げニヤリと笑う厳一郎の顔があった。
「霧野君、床に絨毯じゅうたんの類は敷いてあったかい?」
「いや、フローリングのままだったな。絨毯の類は敷いていなかった」
 霧野は間髪入れずに答えた。
ちなみにだが、その床に何かを引きったような跡はなかったかい?」
「いや、床は綺麗だったな。歩いた時も違和感はなかったし」
 霧野は首をかしげながら答えた。
「そうか。当てが外れたか。まあいいさ。一つ可能性を除外できた」
 霧野は訳がわからず怪訝な表情を浮かべた。
「最後にもう一つ。これは確認なんだが、時田家に行ったのは今日の午後だったね。その時、雨は降っていたかい?」
「いや、曇ってはいたが雨は降っていなかったな」
「そうか。では庭の奥にあった井戸に蓋は乗っていなかったんだね」
「井戸に関しては……たぶん蓋はなかったと思うが」
「なるほどね。それと……まあ、これは聞かなくてもいいとは思うが念の為。不審な物音は聞こえなかったか?」
「ああ、聞いてない。それに関しては自信を持って言える」
「以上で質問は終わりだ。ありがとう」
 そう言うと、厳一郎は座椅子から立ち上がり襖を開けた。

 ビリ砂利が敷いてある駐車場に戻って来た厳一郎は、巨大な門扉の前で霧野の車がやって来るのを待っていた。駐車場の奥でエンジン音が響く。車のヘッドライトが点灯すると、霧野の愛車は一度バックし向きを変え、時速十キロ以下の徐行で門扉へと近付き停車した。鈍い機械音と共に半分ほど窓が開く。
「今日はいきなり押しかけて悪かったな」
 厳一郎に相談できたので肩の荷が下りたのであろう。室内灯に照らし出された霧野の表情はとても晴れやかであった。
「気にしないでくれ。僕も久しぶりに会えて楽しかったよ。それと、念の為聞いておくが、今回の件に関しては僕が預かるという形でいいんだね?」
 運転席の横に立ち霧野を見下ろすような角度で厳一郎が尋ねた。
「ああ、それで構わない。寧ろ申し訳ない。厄介事を押し付ける形になってしまって……」
 霧野は苦笑いを浮かべ鼻を擦った。
「気にしなくていい。僕も興味が湧いたからね。それじゃあ何か進展があったら連絡するよ」
「ああ、期待して待ってるよ。それじゃあ」
 霧野が窓を閉めようとしたその時、
「ちょっと待った。帰る前に一つだけ約束してほしい事がある」
 厳一郎は前屈みになり運転席で頭に疑問符を浮かべている霧野を真剣な眼差しで見つめ、
「いいかい霧野君、今回の事件を無事解決する為には『段取り』が重要になってくる。よって今後は僕の指示なく勝手に動く事は控えてほしいんだ。もしやむを得なず行動する場合はその都度前もって僕に連絡すること。そうすれば何かしらの策を与える事ができるからね。そしてこれは君だけではなく和田優希ちゃんにも守ってほしいんだ。わかったかな?」
 さとすような口調で言った。しかしその声には尋常ならざる緊張感と多少の怒りが込められていた。それを察知した霧野は、やっぱり独断で動いたのはマズかったか……と猛省し、
「わかった。優希ちゃんにも伝えておくよ」
と 普段の軽い調子とは正反対の重々しい口調で返した。そんな霧野の様子を見て厳一郎は、よしよしちゃんと反省したな。偉いぞ霧野君。と内心ほくそ笑んだのであった。
「それじゃあ、気を付けて帰るんだぞ」
「ああ、またな」
 厳一郎が離れると車はゆっくりと動き出し、赤いテールランプを光らせながら門扉を通り抜けて行った。霧野の車を見送ったあと、厳一郎は静かに門扉を閉め、家の方へときびすを返した。

 先程の縁側まで戻ってきた厳一郎は、仕事部屋のガラス戸を開け、書斎机の後ろに設けられた大きな本棚へと歩みを進めた。向かって左側にはジャンルを問わず勉強や趣味で集めた小説や学術書がズラリと並び、右側にはこれまで厳一郎が携わった事件や興味を惹かれた不審死または行方不明者などの切り抜き記事が収められたクリアファイルが列を成していた。
 厳一郎は左側には触れず、何か呟きながら右側のクリアファイルの背表紙を左から右へと流れる様に指でなぞり、また下の段も同じ動作を繰り返した。そして全五段からなる本棚の上から三番目のちょうど真ん中付近に来た時、厳一郎の指が止まった。
「──あったぞ。これだ」
 厳一郎は背表紙に『2016年』と書かれた黄色のクリアファイルを抜き取ると、ページをパラパラめくり、全体の三分の二を過ぎた辺りで「見つけた」と声を上げ、探していたページを食い入るように見つめながら近くにあった背凭れの長い椅子に腰を下ろした。彼が熱心に読んでいる記事の内容は以下の通りである。

 平成二十八年一月二日午前一時頃、同市に住む時田一男 (満五十五歳) が湯船に顔を浸けた状態で妻に発見された。すぐに妻が消防に通報。駆けつけた救急隊員によって病院に運ばれたが、約二時間後に死亡が確認された。死因は溺死だった。警察の調べに対し妻は「夫は入浴前に処方された睡眠薬を飲んでいた。それ以外に飲酒もしていた」と証言している事が取材でわかった。管轄である東警察署は、不慮の事故の可能性が高いとみて捜査している。

 切り抜き記事の横には赤文字で、『推考の余地あり』と記されていた。

なるほど。当時の僕も何かしら気になる事があったという訳か。
「そうなると、僕の事だから余計な首を突っ込んでいる可能性が高いな。ちょっと調べてみるか」
 厳一郎は書斎机の下にある三段式デスクワゴンに手を伸ばした。一番下の引き出しを開けると、数十冊の大学ノートを取り出し、机の上に並べた。一冊ずつ手に取り表紙に記載された年月日を確認して行く。積み重なった内の三分の一が過ぎた時、厳一郎の手が止まった。
「2016年 (平成二十八年) 。書いてあるとしたらこの中か」
 厳一郎はデスクライトのスイッチを入れた。手元が暖色に包まれる。多少くたびれた表紙をめくると、字面のいい文章たちが出迎えてくれた。しかも達筆で読みやすい。さすが僕だ。素晴らしい。厳一郎は自らの文才を讃えながら黙々と読み進めて行った。
 やがて裏表紙が右の親指をすり抜け、紙の捲れる音が止んだ時、厳一郎がぼそりと呟いた。
「……おかしいな。この件については何も書かれていない。ということは誰も相談しに来なかったうえ、僕の方からも調査はしなかったということか。なっ──!」
 なぜだ……そう言うとした時、厳一郎の脳裏にある光景が蘇った。ああ、そうだ。忘れていた。いや、違うな。思い出したくなかっただけか。厳一郎は大学ノートを机上に置き、背凭れに身体を預け、そっと瞼を閉じた。

 精神病棟の一室……水色のパジャマを着た女性……やつれた頬によどんだ瞳……右手に握られた果物ナイフ……説得をこころみる職員たち……しかし、女性は突如とつじょ奇声を上げ、支離滅裂な言葉を発し、最後は耳をつんざく甲高い笑い声と共に細い首にナイフを突き刺した……辺りが静まり返る……直後、抜かれた刃と共に舞い上がる血飛沫……床に倒れ込んだ女性の目から消えて行く生気……それでも何かを伝えようと動く唇……それは──!
 
 バンっ!! ガタンっ!!!! 気が付くと厳一郎は椅子から立ち上がっていた。背凭れの長い椅子は後ろの本棚に激突し倒れ、机上に積まれた大学ノートは雪崩のように散乱していた。
「感傷によって取り乱すなんて……僕らしくもない」
 厳一郎はかぶりを振りながら、寂しげな笑みを浮かべ力無く呟いた。その後倒れた椅子を起こし、大学ノートを引き出しにしまったあと、椅子に腰を下ろし乱れた心を落ち着かせたのであった。

「さて、霧野が持ち込んだ案件を片付けるとしますか。その為には……」
 平静を取り戻したところで、厳一郎は椅子から立ち上がり、仕事部屋を出て自室へと向かい、文机へに置き忘れていたスマホを手に取った。電話帳一欄から郷田幹夫ごうだみきおの名前を選び、通話ボタンを押した。
「はい、郷田です」
 低く野太い声が鼓膜を震わせる。
「厳一郎です。今お時間よろしいですか?」
「今日は公休だから構わんぞ。それで、俺に何のようだ?」
「お休みのところ申し訳ありません。実はちょっと厄介な事件が僕のところに持ち込まれまして」
「うん? 厄介な事件? 内容は?」
「内容は次の通りです……」
 厳一郎は自分の推測を交えながら、霧野から聞いた話を郷田に伝えた。郷田は時折り唸り声を上げながら、話に聞き入った。
「なるほどな。何があったかは把握した。それで、俺達に何をしてほしいんだ」
「さすが郷田さん、話が早い」
「先生とは長い付き合いだからな。何を考えているかぐらいはわかるよ」
 冗談か皮肉か……決して本心を見せない刑事らしい口調であった。
「それは良かった。では、これから調べてほしい事についてお話します。一つ目は時田真奈の交友関係についてです。特に学生時代の友人の中で、七年前に『役所勤めだった者』と『土木会社の社長だった者』について調べてください。僕の読みが当たっていれば、必ずいる筈です。二つ目は、時田真奈のインターネットの使用履歴についてです。その中でも『ネットショッピングの履歴』を重点的にお願いします。ただ、こちらは捜査関係事項照会書だけでは無理かも知れません。そうなると裁判所から令状を発行してもらう事になりますが、現状何一つ証拠はありません。そこで──郷田さんの昔馴染みの力をお借りしたいのですが……可能ですか?」
「つまり元公安の力を借りるってことか? うーん……」
 郷田は口を閉ざし考え込んでしまった。厳一郎は逡巡している郷田の邪魔をしないよう静黙して返答を待った。
 暫くして、電話口の向こうからパチンっというポールベンの頭を戻す音が聞こえてきた。
「今、公安時代の仲間を思い出せる限り書き出してみたんだが、まあ、どうにかなるだろう。よし、わかった。昔のツテを頼って、裁判所から令状を発行してもらうとしよう。だがなあ先生、わかってると思うが、本来は御法度だからな。何度も使える技じゃねえぞ」
 郷田の張りのある声で釘を刺されてしまった。厳一郎は頭をペコペコと下げながら、
「それは重々承知しております。では、よろしくお願いします」
「まったくしょうがねぇな。まあ、何かわかったら連絡するからよ。それまでは大人しくしておくんだぞ」
「了解です。では、失礼します」
「ああ、じゃあな」
 通話を終えた厳一郎は、郷田の顔を思い浮かべながらスマホ越しに深々と頭を下げた。はあ、取り敢えずやるべき事はやったか……あとは連絡を待つだけだな。厳一郎は手に持っていたスマホを机の上に置き、無音が支配する仕事部屋で思慮に傾倒したのであった。

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