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生きる意味について考える

ひとりになることが、自分のためになると気づいた。彼女と暮らしていると、毎日がパステルカラーの幸福色に彩られ、孤独の中にポツンと生じる試みや悩みを思い出す余裕なんて無くなってしまう。

元来、むっつりと考えるのが好きだ。小学生の頃のテーマは人間の生きる意味とはなんぞやということで、そんなことをむっつり考えていたから虐められたのだろうし、虐められたからこそ、むっつりと考える土壌が育ったのかもしれない。この方法はふかふかに育った土の中に埋まったままいじめっ子に地面を固められて一生出てこられない可能性があるので、オススメはしない。

だが、リスクを取った人間だけが前に進めるとも考えられる。一か八か、そもそもどう転ぶかなんてわからない人生で、死ぬことを気にしていては微々たる前進しか生めないだろう。死んでしまったら意思も何もかもなくなるのであれば、死ぬことは死ぬ一瞬への苦痛でしかなく、微分すれば限りなく0だ。だから、生きるか死ぬかをかけて人生を生きねばならぬ、と思う。

果たして、最近の私は死ぬ覚悟で生きているだろうか。それなりにやりがいのある仕事、それなりに貰える給料、それなりに幸せな同棲生活。それなりの範囲の中で進捗を生んだとして、待っているのはそれなりの人生だろう。
妥当な範囲で収まってはならない。合理的に物事を考えてはならない。
なぜ生まれたかはわからないが、地球のリソースを喰って生きていくのであれば、せめてエベレストの登山道で凍死したい。

と、強迫観念を持って生きることは、マニュアル化された今の時代では、誰かの想像の中身かもしれないし、少なくとも私自身の想像の範疇は出られていない。

無我になろう。答えはそこにある。かもしれない。

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