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私が心がけていること

私は昔から美術・図工と国語・語学・英語が好きだった。多くのストーリーに興味を示していた。10歳前後では文学という捉え方ではなく、まるで友人や先輩の生き様を見るかのようにしてストーリーを追っていた。そして普通におとぎ話のヒロインとヒーローと悪役の図に疑問も持たず、プリンセスに憧れていた。

14歳の時。とても鮮明に覚えている。
自分の中にある性格の悪さ。
何かが起きた時、人のせいにしたいと思うところや人を恨むことでやり過ごしている、本当は誰も嫌いになりたくないし憎むことをしたくないのに、「私以外の何か・誰かが悪いんだ」と思えることで楽になるような満足するような感覚が芽生えていたことを自覚した。その感覚にとらわれていたタイミングで「少女ポリアンナ」の物語に出会った。どんなに過酷な中でもすべてをポジティブに捉える訓練を重ねている少女の物語だった。

衝撃が走り、「これだ!やってみよう!」と思った。
まずは1週間試してみた。どんなに苦しいことも、親に言われたことも、友達に傷つくようなことを言われても、クラスで嫌だなと思うことが起きても、「すべて、ポジティブに捉えていたらきっと大丈夫」と、自分の「嫌だな」の感覚を抑えて蓋をした。1週間続けてみたら、最後の日、帰り道のバスの中で、不思議な涙を流していた。その時には言葉にはできないし、その性格の悪さを改善したいということすら他の誰にも言えなかったので言葉にすることもなかったのだけれど。
その時どう表現していいか分からなかった感覚を、今ならば言葉にできる気がしている。ネガティブな感情を抑圧した・蓋をした・無視をした・ないものとした、ということ。その歪みで体から、いうなれば魂から悲しみが湧き出ていたこと。その時にはそういうことは理解していなかったのでただただ違和感として「なんか変な感じになるから、やめよう。やっぱり、イライラしても押さえつけずに普通にしていよう」とその前の感覚に戻したけれど、時を経て、その感情に寄り添って終わらせることができて、そして今言葉にできた気がして、報われたように感じる。

どんな人の中にも、善と悪とされるもの、いい気持ち、いやな気持ち、賞賛されるべく感情や考え、非難されるべく感情や考えを、抱いている。それが人間であると私は考えている。確かにたまに「天使かな?」と感じるような人もいる。けれどきっとそんな人の中にも時々は憎しみや苦しみを抱く時が訪れていたのかもしれない。それは分からない。性善説、性悪説、色々とあるけれど、一つの考え方に決めつけずに、時によって様々で、答えは一つではなくて、この一瞬にも多くの感情が入り混じっていて、次の瞬間にはまた別の感情たちが入り混じっている、だから、そのうちのどのかけらも否定されるものではない、と思っている。どんなに誰かを憎んでいようと、憎みたくなる気持ちが生まれたことを否定しなくてもいい、と、思っている。キャパシティは人それぞれで、敏感な人も鈍感な人も、その違いがあることが大切なことだと思う。否定せずに感じていると、自然とニュートラルに戻ることを実感したら、世界が変わる。

心がけているのは、決めつけないこと。いつだって陽子・中性子・電子レベルで全てが振動しているのだから、揺らぎがないはずがない。感情や考えという特に流動的なものならばなおさら、その次の瞬間には変わっているものとして捉えている方が自然である。一定期間特定の感情にとらわれることはいくらでも起きるけれど、それを、解放して、その先違う道に進んでいけることを常に信じている。

どんな人も、「こういう人だ」というカテゴライズされるものはないと思っている。どんな人にも、そういう瞬間・こういう瞬間・ああいう瞬間がある、こういう風に考える傾向がある、というだけのこと。

私はいつもどんな人に対しても、その瞬間のその人のその感覚、どんな感じかな?どんな楽しい化学反応を起こせるかな?という視点で関わっていくと決めている。(かといって、過去全てを忘れることはしない。私は分析が好きなので、過去の出来事、過去の体験はしっかりと記憶にとどめておいて、そしてそこからの変化を見つけることも大切にしている)

私は、結託を組む感じのこと、同調するような感じのこと、そういうこともしないと決めている。誰かが何かに対してどう思っていようと、私は私の感じていることを大切にしようとしている。(かといって、わざわざケンカを売るような、挑発するような、意見が真逆であっても対立をすることもしない)グループ、コミュニティ、それができることの素晴らしさと同時に、二人以上人が関わった時の危うさも、いつもよく見てきた。だから、意見が同じであっても「そうだよね!だよね!だよね!」というような、煽るようなこともしないと決めている。それが、親しい人にとってはきっとつまらないなと思わせてしまうこともあるかもしれないけれど。それでも私はいつも常に中立のような、どんな人とも一対一で、その人個人に対してできることを全うすることに集中していきたいと思っている。その延長線上に、ちゃん付けをしないこと、年齢や世代で決めないこと、相手の環境や経験でカテゴライズしないこと、他の誰かや自分と比べたりしないこと(どんなに言いたくなる時があっても「私もそうだったー!」を言わないようにしている。その瞬間から、相手と私という対比が始まってしまうから。あくまでも私は傍観者。相手の世界に並んで入り込んではいけない、と思っている)、あらゆる〇〇な人って〇〇だよねという方程式を無しにしてフラットな視点で関わることを心がけている。人間だから、できてないこともあるけれど。

その感覚が、いずれくる優しい世界に繋がっていると信じている。
もっとフラットに、もっとニュートラルに、在れるように自己研鑽をこれからも重ねていく。楽しみながら。

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