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「スピリチュアルが嫌い」な私の話

小学生の頃、星占いと妖精が好きだった。
中学生の時には、不思議ちゃんと呼ばれていた。
高校では占いや妖精とも離れた生活で、幽霊にビビりながら、霊感がある人のことを「何言ってるの?」という目で見ていた。
神なんていない、幻想だと思っていた。
大学時代の就活中、日中に金縛りに遭って身近な霊能者さんにお世話になって初めて「霊がいるんだ」と信じた。
社会に出てから迷いや心配が生まれ、手相や四柱推命に行くようになり、メンタルをやられて色々な趣味を持つきっかけでタロットを始めた。
タロットは論理的で、スピリチュアルじゃない、と言い回った。
私は「スピリチュアル」が嫌いだった。

私が最初に信頼した霊能者さんがお金を取らない人だったから、目に見えないことを、見えない人を相手に話してぼったくりしている(ように見えた)人たちが嫌いだった。目に見えなくとも感じていることについて、不安を煽るようなこと・「見えないものが見える自分はすごいでしょう」というマウンティングに聞こえたこと・幸せそうに見えなかったこと・Spiritualityは精神性の高さについても言えることなのに、見えないものをいかに見えるかで競い合って精神性は高く見えなかったこと・勝手に占ってきて傷つく言葉を放ってきたこと・単純に、バカじゃないの?と思ったこと(雲を撮って龍に見える等)・見えないものが見えてしまうのってかわいそうと思ったこと…

そんな理由から、嫌いだった。今はもうそんな風には思わないけど。
「パワーストーン」「パワースポット」という言葉も嫌いだった。アホみたいな名前で。名前は今もそんなに好きじゃない。(便宜上使うけど)
今でも「スピリチュアル」という言葉、カテゴライズ的に捉えられることが好きじゃない。数珠のパワーストーンを手首にしていると「あぁ、そっち系ね」と言われたり思われたりするのが好きじゃない。これは、私がカテゴライズされることが好きじゃない、という理由から。(私は帰国子女だけど、「帰国子女なのね、だったら〜〜でしょう」と言われるのが好きじゃない。勝手に個々人の帰国子女像を押し付けられることに違和感を覚えるだけなのだけど)&(だから、数珠っぽくなく普通のアクセサリーとして天然石のサポートを受けられるものを作り始めたのがきっかけでもある)

誤解されやすいカテゴリーだと思う。私もそうやって誤解してた。
精神性・スピリチュアリティというのは、生きている上で無視できないこと。例えば心、感情は目に見えない、だけど、感じられる。抱き合った時に感じる暖かさも切なさも拒絶も、目には見えない。声も見えない、だけど、聞くだけでイライラする声も、聞くだけで感動して涙が出てくる声もある。小さな八つ当たりをしてしまった時、その仕返しのような言葉がくるのか、許してくれて包み込んでくれるように茶化して笑ってくれるのか、そのようなことで精神性の高さは現れるし、それが、現実世界で生きていく上で大切なことでもある。その感覚。その、許せる感覚をいかに作っていけるのかがスピリチュアルに生きているということだと思う。でも、肉体的・物質的に在るとあってのこと。現実においてどうなのか、現実をどう変えていくのか、そのための目に見えない世界からの後押しであること。

今でもカテゴライズの意味での「スピリチュアル」は嫌い。(実際は結構言葉尻はどうでも良かったりするけど)なぜなら、カテゴライズっていうこともあるけど、宗教・オカルト・依存・執着・トンデモ・非常識、が、つきまとうから。一般的な視点がそうなのは拭えない。それに対して反対意見を啓蒙する気にもなれない。(それ自体が執着?認めて欲しいの現れだから)

しかしだね、なんのための、目に見えない世界を分かることなの?なんのため?どうしていたい?どんな感覚でいたい?
人より優っていると実感したい?特別感・選民意識で満たされていたい?人より劣っていることを振りかざして被害者意識満タンで同情求めて浸って生きていたい?人の気持ちが分かることを利用して人を騙したり陥れたり復讐したりしたい?
人の気持ちが分かるから寄り添って解決策を見出して、その人が幸せになることを見届けていきたい?見えない世界の存在の助けを理解して、そこに感謝しながら自分の役割を全うしたい?見える世界も見えない世界も全てを包括して「楽しいね」「幸せだね」って感覚を実感して、それを周りに伝染させたい?

「スピリチュアル」「アセンション」「周波数」「エネルギー」そのような言葉は一見トンデモだけれども、言葉の奥底にある概念を見定めていくと、抵抗を感じるようなことではないはずだと思っている。だけどいつも、トンデモなんだよなという客観的な視点をずっと忘れないでいたいと思う。誰のために何をしているのか。それを常に意識していく。

私は今、(カテゴライズと言えば)どっぷりスピリチュアルな仕事で生きている。ヒーリングという目に見えないエネルギーを浄化したり、花やクリスタル/天然石/パワーストーンを使って人々の潜在意識を動かしたり、霊視や浄霊、チャネリングもする。龍とも霊とも神とも話すし、前世も未来世も視る。でもそれは、分かることを認めてもらうためじゃない。私のためじゃない。求められていない時に勝手にやることもしない。安心立命。必要としている人が必要なタイミングで必要だとしてくれる時のために自己研鑽を重ねている。来てくれる人はいつもたまたまここを見つけてくれて、たまたま縁を信じて来てくれたから、できる限りで、その方が明るい未来にいるためにできるアプローチをする、だけ、のこと。

楽しい方向見つけようよ。それは人によって違うし、時期によっても違うよ。楽なこと、簡単なこと、それこそが、自分にとって最適なことかもしれないよ。だけど、苦労したり大変なことを体験したかったら、それでもいいよ。比較・優劣を感じたかったら、それもいいよ、それが楽しいことだよ。苦しいことを全うするのもいいよ。苦しいことから離れたかったら、どうしたらいいか、話し合おう。そんなスタンスです。

人間的な比較や優劣の世界を持ち込んだ"スピリチュアル"はやっぱり嫌い。それはスピリチュアルじゃない。周波数は競うものじゃない。と、思ってしまう。否定のない世界。この世はすべてパラドックス。嫌な感覚を抑えずに感じ続けていくと、"陰極まりて陽となる"、ちゃんとニュートラルにいきつける。そこまで感じるのがスピリチュアルなことだと思う。

ただの偏見のお話でした。

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