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✴︎ 陰陽・光闇のこと

「ヒーラーあゆみ、質問にお答えします」シリーズ10です。
十回目、もうこれまでのリンクは割愛させていただきます。
今回のテーマ、有り難いです。陰陽・光闇、まさに二極化のお話ですね。(前回参照)

16. 私はヴィーガンなのですが、畜産業を"否定"することは良くないことなのでしょうか。否定も肯定もしないことがベストなのでしょうか。自分が畜産に加担することはしたくない。誰も傷つけることをしたくないですが、この世は陰陽である以上どちらでも良い事なのでしょうか。

「畜産業を否定することは良くないことでしょうか」「良くないです」とするのはなんだか不思議な現象になりますね。否定しちゃだめと言っているそばから否定?

この世で起きていることはすべて合意の上で成り立っている、と聞くと抵抗を感じますでしょうか。

全肯定している状態、その感覚は、何も否定していない、排除していない、ということになります。なぜ肯定することが"良いこと"、否定することが"悪いこと"なのか。良いこと・悪いこと、すらもジャッジなのでしない方が良い・・・と、既に良い悪いを作ってしまっていますね。

私は、畜産業を否定することは、良くないことではないと思います。

ですが、同時に、畜産業があることの否定はしません。

私は、死刑制度を否定することは、良くないことではないと思います。

ですが、同時に、死刑制度があることの否定はしません。

何に置き換えてもらっても良いのですが、"否定"自体を私は肯定します。ですが、私自身は否定する立場を取りませんよ、ということをお伝えします。
なぜなら、それが存在しているということは存在する意義があり否定のしようがないからで、"否定"の定義が違うことをこれからお話しします。

そして、私自身もヴィーガン生活をしたことがあることもお伝えします。フランス人のヴィーガンの友人と過ごした時、卵・牛乳・魚のだしなどを使わない料理をして過ごしていました。その友人は思想としてヴィーガンを選んでいましたが、私はこれまでの海外生活で宗教上・思想上食べ物の制限を持つ方々との出会いはよくありました。

一つ前の記事で、結果や行動が同じでも、認識や意図が違うことがあるというお話をしたのですが、ここでも、認識を変えるだけで、放つエネルギーが少しでも変わるのではないかなと、捉え方のヒントになれば良いなぁというお話をします。

陰陽を考え始めると沼にはまります。一旦陰陽はおいておきましょう。
これは陰なのか?これは陽か?光か闇か?どっちか?などを考えることは時間の無駄になります。光も闇もあります。陰も陽もあります。でも、それ以外の色も世界には溢れていますよね?区分けする必要がある場面で区分けしたら良いのです。畜産業は陰でも闇でもないとしてみます。

生き物を、生きている間でさえも生き物として扱わず、ましてや食べられるためだけに産み殺す。病気になりやすい環境におく割に、病気になれば殺す。命とは。・・・と考えると、闇認定したくなる気持ちが出てくるのは自然です。否定したくなります。命の犠牲どころじゃない。

ただ、仰る考えによってヴィーガンの生き方を選択すると、この気持ち、否定・排除・抵抗・許せない・傷つけたくない、などの感情エネルギー、このエネルギーを24時間365日キープしていることができてしまいます。祓っても祓っても、食事の度に「否定」「抵抗」「心配」「社会への怒り」などをエネルギーとして抱く機会を作ることができるのです。

植物にも命があります。意思を持っています。植物の命は良いのでしょうか。何が良くて、何がダメなのか。なぜ、ダメなのか。見つめていくと、自分自身の観念に引っかかるものが出てくると思います。許せないものが何か、というのを見つめていくことも大切な時間になるかもしれません。

行動としては同じで、動物性食品をとらない選択をする、しかし、その裏にある心に「畜産業があること・人々が動物性食品を消費していることは受け入れるが、自分は加担しない。未来のために、畜産業の代替法の応援をしている」という感覚があり、我慢や怒りや抵抗から解き放たれている状態であれば、エネルギー的にもクリアにいられると思います。そして感情に揺れることなく、適切な行動で社会を変えていけると思います。

また、残念なお話になるのですが、「誰も傷つけることをしたくない」を叶えることは厳密にいうとこの世界では難しいですよね。畜産業を否定した場合、今は、その産業を生業にしている人々の否定、差別が起きることもあります。("屠殺"も差別用語になるそうですし)今はまだ、何かを選ぶと何かを否定する、あまり優しくない世界です。環境問題もそうで、例えばいますぐ全世界からプラスチックの袋が消えること、今の時点ではまだ起き得ず、プラスチック製造に関わる大勢の人々の生活が成り立たなくなることや全世界の人々がプラ袋があることによって助かっているから存在している。今まさに減らしている最中ですから、なくなる可能性は高く、それに取って代わるビジネスが優勢になる時もくると思います。畜産業も、培養肉の研究が進むと衰退もあり得ますよね。安全にたっぷりとタンパク質を得られたら、高齢化はまたさらに進みますけどね。

今の世界で起きていることの否定をしないことから始まることもあると私は考えます。「それが起きている」ということを、見ないふりをしないということ。受け入れることというのは、従うことや全面的に信仰することではないのです。「そういうことがあるんだ」「それはそれなりの理由があり必要があって在るんだ」とただ認識していること、それだけで、受け入れているエネルギー状態になります。「それは違う!」「それはあってはならない!」この感情や感覚が否定や抵抗です。今までの世界だと、従うか拒否するかの二択だったと思いますが、そうではなく、あらゆる選択肢を認識した上で(否定をせず)一つを選択しているエネルギー状態を作れると、全員がそれをできた時には優しい世界になっていると私は信じています。

見たくないものを見させられているということが、実は、潜在意識から顕在意識へのメッセージでもあります。見なくて良いものであれば、その存在すら知らずに生きていることができたり、抵抗を感じずに生きていられたりします。(例えばですが、イスラム教には犠牲祭という家畜を捌いて親族で分かち合う儀式がありますが、もしご質問者さまの魂が、ここに生まれ毎年この光景を抵抗なく見ることを選んでいたとすると、その人生では動物の死と食をテーマにしなかった、と言えます)

何かを強烈に否定したい気持ち、抵抗する気持ち、それが魂からの「テーマだよ」というサインですので大切にされてくださいませ。

17. 光と闇の人間についてどう感じますか?元々光や闇の方という事か、今世で学ぶ事、変えてもらうなど

私自身は、光の人間・闇の人間という区分けをしません。何をもって闇・光とするのかが明確ではないからです。社会の闇というのであれば、ただ単に社会の闇の人間、というだけです。それ以上でも以下でもなく、その魂がその環境を選んだのだと認識します。社会の闇と言っても、組織自体が反社会的だとされ、存在するだけで犯罪だとしても、存在しているということはその意義があるのですよね。ちょっと突飛な例ですが、カジノをまとめているのがマフィアであれば、そのマフィアの影響力を知っている潜在犯罪者は犯罪ができないため、結果的に治安が守られることがあると言われます。しかしそのマフィアは何をしているのか、犯罪者たちが恐れるくらいのことをしている組織ですよね。私はそこに良いも悪いもつけません。そういうことがあるんだなぁ、です。

どんなことが起きていても、それは、合意があって起きています。
誰かにとって不可解でも、違う誰かは理解できているものです。

人、ひとりずつに様々な生い立ち・ストーリー・感情や考えなどがあります。何にしっくりきて、何に抵抗を感じるのか、人それぞれです。例え家族であっても干渉することはできません。

魂がやりたいことというのは、人間社会でよしとされていることとは別次元であることが多いです。原因と結果もあってないようなものです。「さ、今回はちょっとスリルを楽しんでみよう!」と犯罪に近いところに生まれることを決める魂が、あえて「反対されることも知りたい」としていたら、その魂を持った人が出会い恋人となる魂は「社会から外れることは許さない」というテーマを持って生まれ、引き合うようになる、ということが起きます。どちらもテーマを体現している。犯罪スレスレのギリギリ感を楽しみたい魂は、その後もスレスレギリギリの場面を潜り抜けていきますが、顕在意識では全く違うことを考えているかもしれません。でもなぜか、グレーの環境がしっくりくる。この感覚が、魂からの感覚であったりします。顕在意識で「もう犯罪ギリギリはいやだ!自分は潔白だ!真っ白だ!犯したことがないし、これからも犯さず、公務員になるぞ!」と決めて、その感覚を潜在意識に刷り込んでいくと、クリーンな環境にしっくりくる、という変化も起きることがあります。それはその人のテーマです。

噂話のように誰かのことを「光だ」「闇だ」というのは、「波動が高い」「波動が低い」というジャッジと同じで、基準が曖昧です。他者に対するジャッジでもなく、他者と自分の比較でもなく、ただただ、自分の中にある「あぁ、この感覚は闇だ、手放そう」「この感覚は光の感覚だ。もっと引き出していこう」や「ムカムカしちゃったから今すこし波動が落ちた。調整して上げよう」「とてもやさしい人に出会えた。心が洗われて波動が上がった気がする」というような、自分の内側に向かう時の基準として持つ方が平和的だと思います。

一瞬でも「あの人はこちらにこんなことをしてきた。自分よりも波動が低いんだ」と思うと、その思いは優劣のエネルギーを放ち、結果的に自分の波動を下げます。誰かに嫌なことをされるできごとが起きたら、その感情を感じきってテーマを終える方が早くその状況から脱していけます。それと同じことですが「自分は光だけど、相手は闇だ。闇から光へ導いてあげよう」というのも、魂としては大きなお世話になります。相手はそれを心から望んでいるのでしょうか。言葉を伴って望んでいる場合には、それに答えたら良いと思います。ですが、求められていない時に勝手にジャッジをして勝手に救うための行動をする行為は、相手は魂レベルで逃げたくなると思います。

人一人の中にも光と闇、波動の高い部分と低い部分があります。だから、基準はないようなものです。対極の例を出すのはいかがなものかとは思いますが、心がとても綺麗で真っ直ぐで、人への思いやりに溢れている反社会勢力の一員もいるでしょうし、警察官や教師でも婦女暴行や盗撮をする人もいます。職業や肩書きなどでも一括りにはできないです。お年寄りに席を譲り、見ず知らずの大人しい子どもに因縁をつける人は、優しいと言えるのでしょうか。全員の中に光も闇もあります。外からは判断できませんし、人の心の中を覗くことはできません。それぞれのテーマで生きています。

だから、ジャッジの世界から抜け出して、自分自身のテーマをクリアしていくことにフォーカスしていけたら、より心穏やかにいられると思い、光や闇の区分けを採用しません。

あっ。ただ、男女の関係において。人っていろんな側面や要素でできていますが、この面ではこの人はとてもクリアで真っ直ぐで自分の心の醜さが目立つわ、という部分や、一方この面ではすごくずる賢いことを言うのね、その面においては私は単純だわ、ということが起きて"自分の真逆を持っているんだなぁ" "陰陽なんだなぁ"と感じることがあれば、それは楽しんだら良いのではないかなと思います。ただそこから相手の闇がダメー、自分の闇がダメー、となってくるとバランスは崩れてしまうかもしれませんね。相手の中で許せないものがあったらダメーとしてしまわずに、自分がどう動いたら、相手はどう変わるのかな・変わらないか、と自分の向き合うテーマにしていく方が、結果として変化が早いかもしれません。

個人的には、エネルギー的な観点では、たまたまかもしれませんが、闇を持たない人間も、光を持たない人間も、見たことがありません。どちらかだけになるならば、人間ではなくなるのだと感じています。(きっと生きながら光だけになるのがアセンデッドマスターや解脱なんでしょうね)

テーマのクリア・浄化を重ねて、優しい世界にいられますように♡

次は、「18. 自分の周波数や波動が上がるのはどんな時ですか?」「19. 次元が変わって別の相手と出会った場合、以前の彼や仲のよかった人達とのエネルギーの絡みとか縁の絡みはどうなるんでしょうか?」です!今回のお話を踏まえて、ご覧いただくといいかもしれません。

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