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悪霊誕生 (2019/04 400字76枚)  1/3 

 心停止したからといって、すぐに自由になれたわけではなかった。
 どこかで、人の泣きわめく声がする。頭から血の気がひいていくのがわかる……意識が朦朧としてくる……声がどんどん遠ざかっていく……真っ暗になり……とけていく……闇のなかに溶けていく……とけていく……きえていく……きえてしまう……。

 ぬるりとして、気がつくと、裂けた背中からたれさがっていた。ベッドを突き抜けて、たれ下がっていた。のけぞって。驚いて跳ねあがった。ガツン、と額はベッドの裏にぶつからず、ベッドを突き抜けていた。
 女が泣きじゃくっていた。なぜ、こんなに泣いているのだろう。
 おれはおれの突き出しているものがなんなのか、よくよく見てみるべきだった。ベッドに男が眠っていた。なんと、おれの上半身はその男の腹のあたりから、にょっきりと、突き出しているのだった。
 飛びあがらんばかりにびっくりした。いや、比喩じゃない、おれは、仰天して飛びあがっているのだった。なんとかろやかに。天上……、天井を突き抜けて……。今度は、天井に頭がめりこんだようだ。ん……、生きている。痛くもない。
 天上……、天井から難なく頭をひき抜くと、部屋が俯瞰できた。まん中にベッドがあり、男が眠っている。さっきの男だ。なんとも貧相なツラガマエで、顔色は土気色でこれ以上ないほど悪い。そう、葬式の棺桶のなかでよくお目にかかるあの手の顔。枕元には中年の女と、女の子と男。女の子は紺のブレザーに襞スカート。高校生だ。若い男は大学生くらいだろうか。壁際には、白衣の医者。若いナースもいる。まばゆかった。いままで経験したことがないほど、まばゆく、新鮮に感じた。この医者の愛人だろうか。気がつくとおれは、ナースの隣につっ立っていた。つややかな頬。美しいうなじ。メリハリのあるボディ。自然に手が出ていた。
 あれ?
 痴漢のような真似は、するものではない。ナースは突然おれに気づいて、こちらにふり返った。ふり返るや、おれをすり抜けていった。つづいて、医者までも。ありがたくなかった、こんな中年の医者に素通りされるのは。そもそも、おれはどっかの寺の柱の胎内くぐりじゃない。それに、たいていは、こういった腹の出っ張った男は穴にひっかかって右往左往するものだ、なのに……。すり抜ける? すり抜けた……? なんだこりゃ?
 おれは試しに、泣きじゃくっている女子高生の肩に手をおいてみた。
 んん?
 ……手なのか、これは? なにか、ぼんやりとした観念のようなものだった。存在しているといえば存在している、存在していないといえば存在しない……? そういえば、さっき天上……、天井に突っこんだのも、ほんとうにおれの頭だったのだろうか。怪しくなってきた。頭と思えば頭のようであり、手と思えば手のようでもあった。だが、手と思わなければ……。置いたと思った手のようなところは、女子高生の肩をすり抜けていた。女子高生の背中に手のようなところを突っこんだまま、おれは上下に掌らしきところをふってみた。おれが拳法の使い手なら、とっくに女子高生の心臓を掴みだしているところだった。
 「おとうさん、おとうさん……」
 泣きながら、体を震わせて女子高生が声を絞り出した。
 若い男は拳を握りしめて、ベッドの端をごつごつ、小突いている。
 中年の女はベッドの男の胸に突っ伏して、泣いている。
 こんなところに長居は無用と、おれはとっさに思いたった。そもそも、おれがなんでこんところにいるのか、こんなことに巻き込まれそうになっているのか、よくわからなかった。おれはまた、飛びあがれないかと思った。空の彼方、できれば、いっそのこと、満月のなかにでも。
 気がつくと、青い月が頭上にまるまるとしていた。月にしては青すぎる。青い月には白い渦もあった。それにしても……サハラ砂漠にでも来たのだろうか。いや、砂漠にしては、地面は砂埃のようで白かった。それに、夜というには明るいし、昼というには暗かった。街灯などもまったくない。遠くにも人の灯りらしきものもまったくない。ぽつんと旗が立っていた。アメリカ合衆国の国旗だった。地面をよくよく見てみると、小判型の足跡までついている。映画のセットだろうか。人類初、月に着陸したアポロの映画……。青い月と見えたのは、書き割りの地球にちがいなかった。それにしては、人が誰もいなかった。おれはしばらく待ってみることにした。スタッフ全員で昼飯でも食いにいっているのかもしれない。……
 眠っていた……目が覚めると……いや、覚めているのだろうか。覚めているともいないとも……覚めていると思えば覚めている、覚めていないと思えば覚めていない……こんなのも悪くないと思った。朦朧とした意識、朦朧とした世界……眠っているのでもなく、覚めているのでもなく……。とてもここちよかった。……もうすこし、もうすこし……。それにしても、おれは、どこにいるのだろう……この心地よさは……ああ、電車のなかか……ゆれる、ゆれる、ここちよく、列車が揺れている……それとも……このここちよさは源初のここちよさとでもいうのか……鼓動……母の胎内の……ここちよさ……。
 とつぜん、おれは締めつけられるような痛みとも圧迫感ともつかない感覚におそわれた。まるですし詰めの電車のなか。人々のざわめきのなかに放り出され、しめつけられていく。頭から……
 あっ、あっ、でるでるでるでるでるでる、いく、いくいくいくいくいくいくーーーーーーーーーーーっっ。
 びっくりしておれは上半身で飛びあがった。一瞬、複雑な体位でセックスをしているのかと思った。いや、セックスどころではなかった。おれは、二本の白い太もものあいだからぬくっと上半身を突き出していた。真正面には、腹のふくれた女の顔があった。髪を振り乱し、般若よりもひどい形相だ。さっきの叫び声は、この女の声で、いまだに「でるでる」「いくいく」をしつこく繰りかえしている。そして、おれとしたことが、その女の股間から突き出しているのだった。おれの下には、血まみれの丸いものが出たり、入ったり……。いや、おれ自身が、その出たり入ったりしている丸いものから生えだしている……。仰天して、またしてもおれは飛びあがっていた。飛びあがるや、その血まみれの丸いものがすぽんっと女の股間から飛び出した。
 またしてもおれは天上……天井から俯瞰していた。生まれたのだった、あたらしい命が。血まみれの、叫び声とともに。あたらしい命? ……血まみれの肉の塊は、うん、とも、すん、ともいわなかった。肉の塊を抱きあげた白衣の女が、びたびたと肉塊を掌で打った。肉塊は、石のように黙りこくっていた。紫色の肉塊はみるみるうちに土気色に変わっていった。肉塊を抱き抱えた女がまわりのものに指示を出し、人の動きが慌ただしくなった。おれは無性にイライラして、腹が立ってきた。なぜおれがこんなところにいなければならないのか。こんなところにいて、こんなことに巻き込まれなければならないのか。ここはおれの長居をする場所ではない、海にでも……。
 ただよっていた……八畳敷きはありそうなべったりとしたなにかのうえに……おれはぼんやりと腰をおろし……気がつくと、降りそそぐ夏の日射が静かな水面にきらきらと散乱するのを眺めていた。海だった。見わたすかぎり。小舟一艘見えない。地球が丸い、というのが実感できる眺め……。それにしても、不可思議だった。満月にでも、と思えば満月に、海と念じれば、海に。ただ、今度は、映画のセットのようではなかった。あらためて見わたしてみたが、四方八方どこまでも海原がつづき、その果ては水平ではなく丸くなっている。
 よくみると、その八畳敷きには、くるんとした目玉がある。鰭もある。ときおり、そいつはその胸びれを水面からつきだして、ぱたぱたとはためかせる。そのたびに、水滴がきらきらと夏の日射しに散乱して、美しかった。
 
                        つづく


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