遺族的マイノリティ 2018/11 110枚 前編
夜中に、釜の肌を子細にながめるのが慰めのひとつになった。「子細にながめる」とは、また、なんとも矛盾した表現だが。一ヶ月ほど前に手に入れた、「宝暦年時代」の阿弥陀堂釜だ。とても複雑、繊細、豊かな肌をしていた。堂々としているが、口から肩への明瞭でふっくらとしたライン、繊細で優美な羽おちは女性的で、松園の「楊貴妃」を思わせるところがあった。光の加減や見る位置や角度でこれほど印象ばかりか、まるで違うもののように見える釜もはじめてだった。
床の花入れには、カサブランカが活けてあった。下からふたつの花が開き、最後の一輪はまだ閉じていた。あまい香りがお茶の部屋だけか、家中にただよった。残ったカサブランカと白菊を、沙彩が盛り花にして玄関に活けたせいもある。
気がつくと、もう、午前二時をすぎていた。そろそろやめないと、と思いながら、こんな時間になってしまう。私は釜から顔を遠ざけ、メガネをかけた。近視だったのが、数年前から老眼になって、近くはメガネなしの方がはっきり見えるし、メガネをかけての遠くは以前よりも彼方までくっきりと見えるようになった。
「沙彩、お風呂はいろ」
リビングのこたつの中で眠りこけている沙彩に声をかけた。
私は、また、メガネを額にあげて、釜肌をながめた。弱ったこころには、一見、なんでもないような、それでいて見れば見るほどおどろきや美がある、こんな釜肌が心にしみた。私はまたひきこまれ、しばらくしてから、やっと、ため息をつき、立ちあがった。からだが、はしばしまで、畳のうえに蹲る泥のように重い。
「沙彩、お風呂はいろ」
リビングに行き、今度は肩をかるくたたいた。
「う、うん、もうすこし……」
巻き貝のように身を縮めて、沙彩は曖昧な返事をした。
私は棚の市松人形を抱きあげた。
「いちま、もう、寝よな」
お茶の部屋の床がいちまの寝床だった。
リビングからお茶の部屋に連れていき、「たかいたかい、たかいたかい」をして、いちまを床に据える。「たかいたかい」と腕をあげるたびに、二の腕の肉がたれさがって畳に沈みこみ、ややもすると、私の肉のすべてが泥のようにとろけて、狎れ狎れしく土に融和していくような気がする。
カサブランカの強すぎる香りが、ざらざらとした香りが、泥に張り巡らされた毛細血管にまで染みこんできて、なんとかかたちを保っている私は、ようやくいちまを床にすえた。花生けのカサブランカとならんで、いちまはにっこりしている。背の高い花入れに大きなカサブランカの花は、身長五十センチのいちまよりもたっぷりとしたヴォリュームがある。
「何があっても、いちまはにっこりやな」
いちまの微笑みを、私は、ちからなく自分の顔に写しとってみた。いちまの微笑みに自然に微笑んでいたころがあったなどと、今の私には思えなかった。
リビングに戻り、また、沙彩の肩をかるく敲いた。
「ふろ、さきに入るしな」
「うん、うん もうすこし……」
隣が引っ越して静かなことも救いになった。葬儀の一週間前に突然引っ越していき、もう二週間になった。奇妙な中年夫婦で、夜中に女が奇声をあげたりした。風呂に入っていると、その奇声がまともに聞こえてきた。夏など、窓を開けっぱなしの二階の部屋で煌々と照りつける蛍光灯のもと、奇声をあげる女の姿がみうけられた。
「こういうのを心理的瑕疵物件、という」
などと、冗談めかして私はよく沙彩に話したものだった。
「もちろん、うちの家のことやけど。家や土地の物理的な瑕疵ではなく、こんなふうに、こんなイヤなことがあるってわかっていたら買わなかったよな、っていう物件」
奇声のほかにも、がさつな跫、乱暴にドアを閉める音、おおきな電話の呼び鈴、大きな話し声、早朝から庭で工作などをする物音、こちらに張り出している植栽の大量の落ち葉、路上駐車など、さまざまな迷惑をふりまく夫婦だった。
とても静かな夜。いつもならこうして風呂に入っていても、いつ、また奇声が聞こえてくるか、落ち着かなかった。夫婦が引っ越していってから二日三日、静かになってほっとしていいはずなのに、なぜか胸が抑えつけられて苦しかった。今から思えば、予感とはこういうものなのだろうか。その日、知り合いの御所人形師の個展をみているあいだも、胸苦しかった。
ドアが開いて、沙彩が入ってきた。白い肌がいつもにもまして、新鮮に見えた。
「眉間に皺寄せて、むにゅうって、なんでそんなくしゃくしゃな顔してるの?」
沙彩が言った。
「あぁ、眠いだけ」
湯舟のなかで歯を磨きながら、ものうげに、上目遣いに沙彩の顔を見て私はこたえた。湯舟のなかでは、泥のようなからだがすこしは楽になるような気がした。ただ肌からはゆらゆらとにじみ出した私が、かえって濡れた衣類のようにまとわりついて重かった。新鮮に見えるからといって、いまさら沙彩の裸にときめくことはなかった。沙彩はからだを洗い、タオルで脚のあいだをおさえて湯船につかった。更年期で生理が不順だと、最近薬を飲みはじめていた。結婚してから、一緒に風呂に入らなかったことは数えるほどしかなかった。四半世紀のあいだに、沙彩はすこしふとり、肌の艶やはりもいぜんほどではなくなった。私も似たようなものだったが。
歯を磨きはじめた沙彩の空いている左手を握り、指ズモウをはじめた。いつのころからか、こんなふうに相手のすきをついて指ズモウをするようになった。相手の親指を押さえて、十数える、というのがふつうのルールだが、「9、10」とだけ数えた。
私よりもちいさくて品のよい沙彩の手の握り心地は、わかい頃とあまりかわっていないような気もする。
「9、10、勝ったぁ」
「だめなのな、わたしはやってないから。だいたい、人が歯みがいてるときなんかにしかけてくるのは卑怯やで」
いつものことだった。
「そんなことあらへん、握った以上、はじまってる。それに、こっちも、歯みがいてるから、おあいこやし」
「だんなははじめてるかもしれんけど、わたしはしてへんのな。いくら勝った勝ったゆうても、無効やし」
寝るときも、指ズモウをした。私が沙彩の手をとり、このときは、手の甲と掌を人差し指と親指ではさんでおさえる。
「おやすみ、9、10、大勝利」と私。
「はいはい、もう、寝るのな」と沙彩。
保育園のころから六、七歳のころまで、妹ともよくこんなことをしたものだった。それから、やはり、手を握りあって眠った。
ちょうど四ヶ月前の今日、妹からメールが入った。
こんにちは。ご無沙汰しています。おかわりありませんか? この前の地震、大丈夫でしたか?
お引っ越しをしましたので、住所と電話番号を連絡しますね。
よかったら遊びに来てくださいね(^-^)
沙彩さんにもよろしくお伝えください。
正直、あまりに突然のことでびっくりした。しかし、よくよく考えてみれば、引っ越し前にいちいち古い家族にしらせることもしないだろう。私と沙彩もそうだった。
どんなところだろう、と、グーグルマップで探してみた。古い航空写真で、そこはまだ空き地なのだった。百二、三〇平米ほどで、どうやら新築一戸建てらしい。
なぜこの時期に、こんなに急に、と私は思ったものだ。
「なんで引っ越ししたんやろうな、こんな時期に」と私は沙彩にも話した。
「長女のアカリちゃんが私大に進学して、次女のミクちゃんも高二やっけ? これからお金がいるっていうときに。それに、一戸建てなんて、台風だの大雨だの洪水だの災害が多いこのご時世に、多少手狭かもしれないけど、今のイエの方が安全、安心とちゃうかな?」
何度か、妹の共同住宅にいったことがあった。一度は、三人目の子どもができたときで、母が産むことに反対で妹を諭すよう私に泣きついてきた。いやな「仕事」だった。産むか産まないか、そんなことは妹夫婦が話しあうなりなんなりして決めればいいことだ。ただ、母のいう経済的に無理、というのもわからないではなかった。市営の共同住宅に住んでいて、はっきりとはうかがい知れなかったが、妹は仕事を辞め、夫は実家の印刷会社がつぶれてさしあたり鳶の仕事に就いたばかりで収入もおぼつかなそうで、将来的にも三人も子どもを育てるには経済的にどうかと思えたのだ。リビングダイニングとふたつの和室しかない、その和室の一室で、私は妹とむかいあって話しをした。頭を抱えこみたいのは私の方だった。産みたいと必死に言葉をついでくる妹の気持ちと、母親の心配というよりは私自身が目の当たりにしている妹夫婦の経済的危惧。その板挟みで、その場を一刻もはやく立ち去りたかった。できれば、妹の話だけを聞いて、このままほったらかしにして。さあ、具体的に私はどんな残酷な言葉を口にしたことか。結局、妹は三人目の子を堕ろすことにした。妹が自分たちの事情をなにもかも納得したうえで、気持ちのうえでも納得したうえでの同意とは感じられなかった。母親に言われるのはイヤだけど、お兄ちゃんに言われたらしょうがない、そんなところもあるような気がした。それがまた私を憂鬱にした。今まで妹から感じたことがない隔たりをおかれてしまったと、後味の悪さだけがのこった。
二度目は母親の葬儀のとき。めずらしい人が来たというので、ミクは興奮しまくりだった。三歳くらいだったのだろうか。壁をオタマでえぐるようにしては、手に持った小さな鉢に「はい」と、なにかを入れる。「うどん」がはいっているというのだ。「はい、おじちゃん、おうどん」。手わたされた私が食べるふうをして小鉢をかえすと、また、壁をえぐる仕草をし、「はい、おじちゃん、おかわり」。何杯食べても次から次に「おかわり」がくる。「もう、ミクちゃん、いい加減にしなさい。おじさん、お腹いっぱいだって」。妹がたしなめてもとまらない。そんなわけで、一晩中、私はミクの「うどん」をたべつづけなければならなかった。
あとは、母が亡くなったときや、父や母の何回忌かの法要で。公営住宅に住んでいた母が死んで、残った家財道具の処分などの一切を引き受けてくれたのも妹だった。墓のことも、家を離れていた私はすべて妹に任せきりだった。進学で親元を離れたというかたちにはなっているが、私にしてみればそれは「合法的家出」なのだった。父親や母親の顔など、二度と見たくもなかった。父が亡くなってから、「お母さんがさみしがってるから、たまには帰ってきたら」と妹から何度も手紙をもらったが、私は無視しつづけた。父や母の享年や命日さえ、私は憶えていないし、あらためて知りたいともおもわない。父の七回忌だったか、母の七回忌だったか、これが妹の以前の家に行った最後になったのだが、この時はアカリもミクも中学生で、バレイをやっているというので、ロパートキナの『白鳥の湖』のDVDと亀末廣の亀甲をお土産に持っていった。ミクはアカリのことを「お姉ちゃん」とは呼ばずに、「アカリちゃん」と呼び、アカリはミクのことを「ミクちゃん」と呼んでいた。妹のことは「ママ」。お父さんのことは「パパ」。妹がふたりのことを呼ぶときは、「アカリちゃん」、「ミクちゃん」。夫のことは「ケーちゃん」。夫が妹のことを呼ぶときは、「薫子」と名前を呼んでいた。
法要の前も、法要中も、法要が終わっても、ちょっとした暇さえあればケーちゃんはガタイのいい体をいかにももてあまして、スマホに貼りつきっぱなしだった。携帯ゲームに没頭しているのだ。鳶で何度も怪我をして、ついに妹が耐えられなくなり、宅配便の配達の仕事に転職させていた。娘ふたりもひとつスマホをのぞき込んで、ゲームに熱中していた。そんな家族たちを、いろいろと忙しく家事の片付けなどをしながら、薫子は、それでも満ち足りた嬉しそうな目で見守っていた。
「大丈夫かな、あの家族は」
帰りの列車のなかで、私は沙彩と話した。
「旦那と娘はスマホゲームばっかりで、妹だけがいろいろと家のことを」
母の葬儀の時ともかさなった。
「そうやね、たまたま、今回はそうなんかもしれんけど。でも、もうすこし、薫子さんが、なんかやるように、旦那さんやアカリちゃんやミクちゃんに言ってもいいのかもね」
「うん、まあ、人のうちのことやし、他人がいちいち口挟むことでもないけどな……」
子どもがいない私と沙彩には、計りかねることがいろいろとあるにちがいなかった。
私がすこしほっとしたのは、葬儀のあいだじゅう昏い顔をして、さもなければ泣いてばかりいたミクが、家に帰ってくると、私ににっこり微笑んだことだった。どうやら住み始めて四ヶ月たった新しい家は、彼女たちにとってそんな家になっているようだ。
ミクは、妹の家族のなかで、誰よりもながく一人柩にむかっていた。
ミクはケーちゃんに似ていて、アカリは妹に似ていた。いつだったか、G駅まで迎えに来てもらったときには驚いたものだ。遠目に、妹がいかにも若い娘が着るはやりの服を着ているので、何であんな派手な服をと、まず呆れた。近くにきて、それがアカリだとわかって、あまりのそっくりさにびっくりした。背丈や体つき、歩き方までまるで妹だった。ただ、今では妹より背も高くなり、ほんのすこし猫背気味なところなどは似ているが、歩き方などは違っていた。妹が、父や母の葬儀でどんな喪服を着ていたのか、思い出せないせいかもしれない。普段着では妹に似ているアカリも、喪服ではどうなのか。「誰々ちゃんに、……」とアカリはミクに話していた。
「アカリが美形なのはママのおかげやな、って言われたけど、わたしもそう思う」
だが、顔は全体としてアカリもミクも妹にはあまり似ていなかった。アカリは輪郭やそのほかの部分は似ているが、目は細くてケーちゃんのもので、そのために妹とはまったく違った印象になった。ミクは、くるんとした大きな目は妹そっくりだが、そのほかの部分はケーちゃんに似ていた。そのくるんとした大きな目は、今の妹のものではなく、まさにミクと同じ年頃の妹の目なのだった。
そういえば、父親が大腿骨を折った手術のあと、膝の痛みを訴えても医師がとりあってくれないから話しをして欲しいと母に言われて、仕方なく、見舞いもかねて父親の入院している病院に行ったときのことだ。おなじ病室の老人から、しきりに愛人にならないか、と妹が誘われているという話しを母から聞いた。妹も冗談としか思っていないようなので、ほっておいたが。
今の妹は、父よりも、父の腹違いの姉によく似ていた。
三歳ころの写真だろうか。モノクロの写真で、石垣のまえでスモッグに黒い分厚いタイツ、鼻くそをほじっている写真があった。今と似ても似つかぬ丸顔で、おでこも丸く突き出ている。ほっぺたも丸く盛りあがっている。ちょろちょろっとした髪の毛が頭にはりついている。くるんとした黒い大きな瞳。私は鼻くそをほじっている、と妹をいじめたものだった。いや、実際にはただ人差し指を鼻のあたりにあてているにすぎなかったが。いじめが、やがてきょうだい喧嘩になり、中学に入るころにはあまり話しもしなくなったように思う。お互いのすることに干渉することもなく話すこともなかったが、相手の行動について、理由を聞かなくてもお互いによくわかりあっていた。理解しているというのでもなく、受け入れていたのだろう。親に対する連帯感に似たものもあった。ただ、そういうものはすべて無意識に繰りこまれてしまっていて、今になってあらためて思い返してみると、そんなものもあったのだと、そんな気がするのだ。
そろそろ葡萄の剪定をしないといけなかった。パーゴラに日よけもかねて葡萄を這わせてある。今年は長雨や猛暑、数も多かった台風のせいか、葉は茂ったが、まったく実がならなかった。花はたくさん咲いたが、そのあとがよくなかった。脚立のうえで、来年主になる枝を残し、刈りとっていく。葡萄の次は、モッコク。これも脚立にのぼらないと剪定できない。こうやって目の前のものに集中して体を動かしているうちはよかった。ただ、夜になると、疲労感と消耗感と、喪失感がおおきくなった。
戻りたくない、と思うのだった。あちら側に。つい、このあいだまでは身を置いていた、向こう側に。戻ったところでしかたがない。ケーちゃんやアカリやミクはそんなことは言っていられないだろうが。私の実生活になにか影響が出るようなことはなかった。アカリやミクは「これから」がある身だが、私といえば「これから」など知れている。せいぜい二十年といったところだ。その二十年をどう過ごすか。それを考えると、もうあちら側に、アカリやミクや、多くの人々がいる向こう側に、戻る気にはならなかった。
「あたらしい生き方」。「なにか別の生き方」。そんな考えがひらめいたまではよかった。だが、その「別の生き方」とはどんな生き方か。それは、サラリーマンが会社を辞めて田舎暮らしをする、といったようなものとは違っていた。それくらいでは私が今感じている「別の生き方」などではなかった。サラリーマンであることも、田舎暮らしをすることも、職業や仕事を持っていようがいまいが、すべておなじ。この世界のなかに身を置いているかぎり、どんな立場であろうと、職業であろうと、身分であろうと、状況であろうとすべておなじ。向こう側。ついこの間まで、そうとも気づかずに私が身を置いていた世界なのだ。
「出家でもするか?」と思ったところで、坊主には坊主としての生活がある。食べるものを食べて生きていかなければならない。それこそが「向こう側」の世界そのものだった。
ヒー、ヒー、と壊れた自転車のブレーキのような声が聞こえてくる。そろそろそんな季節がめぐりきていた。ジョウビタキが庭にやってくる。
ヤマボウシが紅葉しているのが窓の外に見える。カエデはあと一ヶ月くらいしてからだろう。
中学生になったころから、漫画ばかり読んでいた。母は、嫌っていた。「薫子は暇さえあれば漫画ばっかり読んで。それも、おんなじのを何度も何度も。前へ進むのならまだしも、おんなじものばっかり。いいかげんにしなさい」。そして付け足すのだった、「お兄ちゃんを見習いなさい」と。私は本ばかり読んでいた、つぎつぎと。新書とか、文庫本とか、手当たり次第。ただ、私を見習え、といわれるのはいやだった。私は好きでそうしていただけの話しだった。妹の繰り返しは、漫画に限らなかった。録画した映画やアニメも繰り返し見ていた。おなじ映画、おなじアニメを繰り返し、繰り返し。しかも同じものを間をおかず。なぜ、それほどすぐに繰り返し見ることができるのか、私にもわからなかった。私もおなじものを読んだり、見たりしないわけではなかったが、それなりに時間がたって、内容をとりあえず忘れてからでないと、「あ、次こうなる」となって、退屈になり、時間の無駄に思えてやめてしまう。ただ、音楽となると私も繰り返しきいた。特にオペラなど。毎日のように。しかし、それはバックミュージックのように流していたり、ややもするといつのまにかなにか別のことに思いをめぐらして聞き逃したり、音楽にあまり集中していないからでもあった。忘れたり、うっかり聞いていなかったり、そんなことがあって私は繰り返しができるが、どうも妹は違うらしい。妹は熱心に繰り返し読み、見ていた。そして、おなじシーンで同じような表情をうかべる。いや、次のシーンをほんのちょっとだけ先取りしたような表情をうかべることもすくなくなかった。なぜ、そんなふうに、おなじものを短期間で繰り返し見たり読んだりできるのか、聞いてみたりはしなかった。妹とはそういうヤツなのだと、それでよかった。それ以上でも以下でも、以外でもない。不思議とも思わない。そんなヤツなのだ。そして、母親のようにそのことを嫌悪したりもしない。かといって、好意も持たない。そんなヤツとして存在している、ただ、それだけ。
ただし、あまりにも熱心な没頭は、私にはここからの逃避にも見えた。この生活からの逃避。親から押しつけられた、公営住宅での貧乏暮らし。父親は吹けば飛ぶような微小企業の印刷工、「腐っても鯛」と庄屋だった家柄を誇りにしてはいるが愚痴や不満ばかりの母親。そんな生活からの逃避。もっとも、それは私も変わらなかった。本を読むことは私にとっても、現在からの逃走なのだった。
銀行に勤めはじめても、妹の繰り返しへの情熱はやまなかった。
ちょうど一年ほど前、私はまた妹に会う機会があった。
父方の叔母にあたる人の遺産のことで何度か関係者でミーティングがあり、その最後の会合だった。叔母は年をとっても一人暮らしをしていたが、突然亡くなり、兄にあたる父にもその遺産が配分されることになり、父の相続人である私と妹に話しがきた。「皮肉なもんだな」と、私は内心思ったものだ。叔母は、おそらく、私たちのことは好きではなかったろう。父の兄弟は、うえに姉がふたり、下に妹が一人の四人。一番上の姉はマツエ、二番目の姉のタケヨと父、一番下の妹のスエミとがそれぞれ腹違いだった。遺産は一番下のスエミからで、若い頃から愛人をしていた。ときどき家に遊びに来たが、母ときたら、その場ではいい顔をするが本人が帰ると必ず陰口をたたいた。叔母の方もいかにもうわべは母と仲がよいといったふうだが、愛人でなにひとつ生活に困っていないということを貧乏な公営住宅暮らしの母にあからさまに自慢したり、みせびらかしたりするようなところがあった。そのためにわざわざうちに来ているのかもしれなかった。そのうえ、この叔母が母のことを陰でなんといっているのか、腹違いの伯母たちから伝わってきたりもした。私の進学先の大学が関西のある私立大学だということを知るや、叔母は、「その大学はお金持ちの子がいく大学で、お義姉さんのうちのような子が行くところではない」ということを言ったと、母は怒りにふるえながら何度も私に繰りかえした。「合法的家出」を目論んでいた私にしてみれば「金持ち」の子女が行く大学だろうと、貧乏人しか行けない大学だろうとどうでもよかった。一般入試もせずにすむ「推薦」が目の前にぶら下がっていて、それにひっかかれるだけの成績があったので、ただ利用したまでのことだった。学費のことなんて知ったこっちゃない。産んだ以上、親が責任とれ。ただ、叔母をイヤだと思ったのは、「入学祝い」だといって贈ってきたモンブランの万年筆。使い古しの、壊れた万年筆を贈ってくるような人だった。「あなたたち貧乏人にはこのくらいの持ち物がふさわしい」とでも言いたかったのだろうか。すぐに捨ててしまった。そして、進学してからアルバイトした金で新品のモンブランの万年筆を買いなおした。
概して、私は、父方のオバたちにたいして好い感情を持っていなかった。ひとつは母の影響もあった。オバたちによく言われていなかった母は、彼女たちの前ではともかく、陰ではオバたちのことをよく言うことはなかった。ただ、母の気持ちもわからないでもなかった。腹違いのせいなのか、オバたちは親戚が集まると、かならずいがみあい、見栄の張りあいのようなことになった。父の葬儀でも、焼香の順序や席の序列で、喪主の母をさしおいて、「私たちが先だ」などということを平気で主張しあい、そうならないことについて文句ばかり言っていた。母は参っていたので実質私と妹が取り仕切っていたが、あまりにも醜いと思った。私にしてみれば、焼香の順序や席順など、どうでもよかった。あなたたちの弟や兄が死んだのに、兄弟が死んだのに、そんなことしか言うことがないのか? 葬儀のあとの初七日、ときの席での喪主の挨拶のとき、母にかわって、よっぽど私はこいつらをぼこぼこにしてやりたかった。父が亡くなったことを理由に、私はこのオバたちに年賀状も出さなくなった。ただ、父の実の姉のタケヨからは、これからもつきあいをしていきたい、という手紙が来た。が、私は無視した。ならばなぜ、父の葬儀の時、そういう態度にでられなかったのか。
「腹違いの兄弟って、あんなもんなんかな。あんなんだったら、いない方がよっぽどましだよな」などと、私はおりにふれて沙彩に話したりした。父の葬儀には沙彩もいたのだ。
遺産のミーティングが終わり、私と妹は、弁護士の事務所からG駅まで一緒に歩いた。妹は早めにパートを切り上げてきたその帰りだと言って、自転車を曳いていた。会社の名前まで聞かなかったが、この近所に工場はあり、プラスチック製品の組み立てラインでパートをしているというのだった。高校を卒業して地銀に就職し、そのあと消費者金融にいき、結婚して辞め、ふたりの娘ができて、いまはすっかり母親になってしまっていた。妹が話すことといったら、来年アカリが名古屋の私大に進学することが推薦で決まったことやバスケットボール部でのミクのことなど、娘たちのことばかりだった。おもしろいのは、話している内容は母親としてふたりの娘のことなのに、口調は子どものころのまま。顔は父方の腹違いの伯母に似通っていて子どものころの面影はもうなかったが、話し方や態度はあのころのまま。そして、私も、いつのまにか関西の言葉ではなく、そこの言葉に戻っていた。私と薫子は、結局、いつまでたっても兄と妹のままだった。離れて暮らし、家族を持って、そのなかでそれぞれの立場になっても、かわらない。私はほとんど自分のことはなにも話す間もなく、ずっと母親としての妹の話を聞きつづけた。妹は、はきはきと、息せき切って、夢中で、娘たちのことを話しつづけた。こんなに生き生きとした、幸せそうな妹を見るのははじめてだった。
「なんか、きょうだいっていいなぁ、て、そう思ったよ」
と、私は家に帰ってから沙彩に話した。
「なにが、どうしていいのか、よくわからないけど、なんか、ね。妹の話を聞いていて、しみじみそう感じたよ」
「遺産は半分になっちゃうわけだけど、それはまあいいか、って。いや、それだけの価値があるよな、って」
すとる沙彩が言った。
「遺産は半分になっちゃうわけだけど、云々は必要ないでしょう?」
「そう?」
私と沙彩は笑った。
父の腹違いの姉の娘は一人っ子で、伯母に配分されたすべてを相続することになったが、そんなふうでなくてよかったと、私は思った。
葬儀の四日前の土曜日、ケーちゃんから突然電話があった。私と沙彩は、ちょうど、知りあいの御所人形師の個展の会場にいた。静かな会場でけたたましくケータイが鳴り、私は慌てて電話に出た。声もひそひそ声になる。妹が緊急入院した、というのだった。ただ、話しが要領を得ない。おなじことを繰りかえしたり、それを話さなければなにのことかこちらに伝わらない言葉を飛ばしたり、言わなかったりした。相手を落ち着かせながら、念を押し押し、確認もしながら、ようやく私は電話の内容を理解した。
今朝、ミクの部活の試合の付き添いをしていると薫子から電話があり、突然しんどくなったので病院へ連れていってくれ、と。慌てて帰ると、顔色もひどくわるく、衰弱した様子で、病院へ連れていったものの、駐車場から病棟まで歩けなくなってひどく動揺した。いまは点滴などして回復して、検査中で結果は夕方頃にでる、といこと。
「それじゃ、今は顔色などもよくなって、検査中で、その結果が出るのが、夕方頃、なんですね?」
私はしつこく念を押した。
「ぁーと、うん、はい、たしか、そうです、夕方ごろか……とにかく検査が終わってから」
「はい。だから、検査が終わるのが夕方ごろで、結果が出るのは当然のこととしてそれ以降ですね」
「あ、はい、そうです、たしか、夕方ごろ。検査はもうしています、それがどれくらいかかるかわからなくて、たしか、夕方ごろまで……」
「はい、わかりました。連絡、ありがとう。実は、今、外出中なんですよ。帰るの、夕方以降になると思いますので、帰ってから、こっちから電話しますね」
帰りの列車のなかで、私と沙彩はこのことについて話した。
「なんであんな電話してきたんやろな。あんなこと知らされても、こっちはなんにもできへんのにな」
「さあ、たぶん、よっぽど、心細かったんとちがうかな」
反射的に沙彩が言った。
通夜で、ケーちゃんはこんなことを言った。
「あのときは、薫子がもう、顔は真っ青で、汗もだらだら、ひどい状態になってて……それで、心細くなって、お義兄さんに電話してしまいました……。検査が終わって、薫子にそのこと話したら、『ケーちゃんの気持ちもわかるけど、お兄ちゃんに電話するのは検査の結果が出てからでよかったのに』って」
私は思ったものだ、やっぱり、あいつは僕のことをよくわかっている、と。
「それにしても……」と私は葬儀を終えてかなり経ってから、ちょっと滑稽感さえ禁じ得ず、沙彩に言った。
「沙彩の言った通りやったな」
沙彩があんなふうになんの考えもなしに言い放ったとおりだった、というのが私には物足りなくも頼りなくもあった。
「そんなもんでしょう」
「それもそうかもな。あの家は妹が仕切ってて、それで回っていたから。仕切ってる人間があんなことになったら、そら、心細いわな」
「けど、まあ、あんなふうに頼られても、おれは何にもできないしな」と私はつづけた。
妹はそのことをよく知っている、というのが嬉しかった。
「もーあかん。これは、もう、かわいすぎる」
個展に出品されていた御殿犬を見たとたん、私は声をあげていた。ちょっとおやじ顔で、どこか達観したような目でこちらを見ている。
「おい、家につれて帰らんかい」
その御殿犬はしきりに私の耳元に囁いた。会場を何度も見てまわり、三時間ほど迷って、とうとう連れて帰ることにした。その間に、ケーちゃんからの電話があった。妹について、イヤな予感や不安が芽生えた。その不安でこころが弱くなって、あんなおやじ顔のを連れて帰りたくなった、というのはいやだった。
「けど、あの電話があるまえに、会場に入ったとたん、『もーあかん、かわいい』って言ってたから、それは関係ないよ」と沙彩。
「そうやな、あの電話のまえにそう言ってたもんな」
もし、妹のことの不安で弱ったこころがかわいいと思ったなら、そのことが片付けば、もう、かわいくなくなってしまうかもしれない。逆に疎ましく思うかもしれない。それがいやなのだ。でも、弱ったこころがかわいいと感じたのではない、ということを私はこころのうちに何度もしつこく自問し、確かめた。
「お届けは、紙箱になりますので、会期終了後一週間ほど、今月中にはできると思います」
デパートの担当者がうけあった。
帰宅してお茶をしてから、ケーちゃんに電話をした。
「イヤな言い方やな」と電話のあと、沙彩に話した。
「そうやね、胃とつながりがあるのか、また検査するって」
病院に運ばれたときはケーちゃんが心細くなるほどの状態だった妹は、今は、集中治療室で顔色も回復し、酸素マスクをしているが話もできるほどになったと、ケーちゃんは一安心しているようだった。
「胃癌のステージⅣね」
私と沙彩はそれぞれのパソコンやタブレットで検索した。
経緯はこうだった。先月の初めころから腰が痛いと妹は整形外科に通いはじめた。座骨神経痛らしいということで薬をのみ、痛みは治まっていた。今月に入り、今度は胸が苦しくなり、食べ物が食べづらくなったり、呑みこみづらくなったりで食べないときもあり、痛みを感じたりするので、かかりつけの町医者に行き、レントゲンなどの検査をした。町医者は、胸骨に空洞があるようだが自分ではよくわからないので、と大学病院を紹介してくれた。ちょうど私の誕生日に大学病院で検査を受けた。至急精密検査を要する、ということで、翌週の月曜日に予定していたのが、今日の土曜にこんなことになり、繰りあげて検査をしたのだった。
胃癌ステージⅣ 五年生存率 7%
私は目を疑った。ステージⅢが47%なのに、いきなり……。なにか、間違ってないか?
「ステージⅣの生存率って……」
ほかのサイトで数字を見つけた沙彩もおなじ数字を口にした。要するに、癌が胃壁の深部にまで浸透して、というか胃の外にまで染み出てしまい、また、とおいところにも転移が見られる、という状態なのだ。嚥下困難や全身衰弱なども典型的な症状とあった。
義弟の言葉が、また、頭をよぎった。
「先生からは、もう、手術は無理なので、癌専門の病院に入院して、そこでどういう治療をするか、検討することになるって、言われました……」
私の見ていたサイトにも、ステージⅣは治療のための手術はしない、とあった。
「あ。そういえば、今年のノーベル医学賞って、癌の治療法云々、って言ってたよね」
と、沙彩が言った。そう、たしか、免疫システムの抑制を外して、癌を攻撃、治療する、っていう、そういう薬のことだった。
「まさにそれやな」と私。
「たぶん、そんな治療になるんやろうね。あと、放射線とか……」
「うん……。ただ、7%は、かなり、きついな」
「まあ、でも、今は、顔色も戻って、回復してきた、ということやし……」
私と沙彩は今後私たちがどうするか、いろいろ話しをした。とりあえずは、今行ってもどたばたしてそうだし、その癌専門の病院とやらに入院して落ち着いてから妹に会いに行くことにした。まだ自分の状態についてほとんどなにも知らされていない妹に会うのがいやだからとは、沙彩には言わなかった。
翌日の日曜日、一体何をして過ごしたのか、よく思い出せない。いつものように、植栽の手入れをして、そのあとお茶、一週間分の食料品などの買いだし、晩のおかずの作り置き、などをしたにちがいなかった。ただ、胃癌について、胃癌のステージⅣについて、とくにステージⅣの生存者について、ネットで検索できるだけ検索した。欲しいのは、病院や医者の書いたものではなく、たとえば、生存者のブログとか。なかなかヒットしなかった。なかにひとつ、「半年前に胃癌ステージⅣとわかり、薬や放射線で治療、いまは完治しました」というのがあった。もっと詳しく知りたくて記事を追ったが、それ以上にはなにも書いていなかった。しかも、その記事は三年ほどまえの記事で、しばらく更新されたあと、ほぼ二年、今でもブログは更新されていなかった。
月曜日、出勤するために朝食をすませ、着替えを終えた沙彩が受話器を持って寝室へきた。
私は一階からかすかに聞こえてくる電話のベルで目が覚めていた。
「アカリちゃんから。容態が急変したから、これから病院へ行くって……」
受話器を受け取り、「もしもし」というと、「ママが……」とだけアカリの低い声がきこえてきた。
「うん、わかった。気をつけて」
アカリからの電話を切ると、沙彩が言った。
「私はどうしよう? 会社、休んだ方がいい?」
「さあ、べつに、普通に行ったらいいよ。急変したって言っても、どうなるかわからないし」
今から支度していっても妹の病院までは早くても四時間以上はかかる。
「うん、わかった。じゃ、会社、いくね」
沙彩は慌てて家を出ていった。
私は着替えをし、リビングのこたつにもぐり込んだ。いつもなら、まだ、寝ている時間だった。なにか連絡があれば、と待っていた。すぐに、ケータイが鳴った。よく、映画やドラマなどで見るシーン。近親者の死を、電話で身内の者に知らせる、あのシーン。ほんとに、そっくりだった。
「あの、お義兄さん、いま、……薫子が……、薫子が」とケーちゃんは妹の名前を二度言うといきなり泣き崩れ、「亡くなりました」と涙でぼこぼこにされながら声を絞った。あまりにも、映画やドラマのシーンにそっくりで想像していたとおりすぎて、かえって私は狐につままれたような気分になっていて、それでいてみょうに冴えかえってきた頭で言った。
「うん、わかりました。今から行った方がいいのかな?」
ひととおり泣くと、案外ケーちゃんもけろっとした口調でこたえた。
「あの、急変した原因を調べたいって、これから検査があります」
どうやら解剖するということらしい。
「あ、そうか。じゃ、通夜とかは、今夜は無理かな」
「はい……」
ちょっと曖昧な感じがした。
「うん、わかりました。それじゃ、また、はっきりしたら……。知らせてくれて、ありがとう」
「はい……」
私は電話を切った。まあ、仕方ない。とりあえず朝食を食べ終えて、行く用意をしないといけない。ふと、時計を見ると、アカリの電話から、二時間以上も経っていた。
朝食のあいだ、通夜や葬儀の手配などちゃんとできるだろうかと気がかりになった。十八歳まで暮らしていたとはいえ、数年に一度帰省するたびに街のかわりように驚き、別の街かと感じる、そんなところに今更私が出張ってもなにかできるわけでもない。何も言わない方がケーちゃんも気が楽だろう。三時間ほどしてから、ただ、やはりすこし気になって電話を入れてみた。
「まだ、検査は終わっていなくて……」
「うん、そう。……ところで、葬式の方は……」
「はい、さっき友だちの紹介で。いま、手配しています」
さっきの電話とは打って変わって、自信ありげな口調。
「うん、ならよかった。はっきりしたら、また、連絡して」
「はい」
私はふかいため息をつき、沙彩に経過のメールを打った。
妹の、通夜、葬儀。……考えただけで、気分が重くなる。
しかたなく、喪服の準備をした。何がいるだろう……ジャケット、ズボン、ワイシャツ……いくらさがしても黒いネクタイが見つからない。「会社の帰りに適当に見立ててほしい」と沙彩にメールした。喪服を着ていくか、着替えるか。そんなことも考えないといけなかった。めんどくさいな。憂鬱だな……。ハンカチも黒いのがいいよな……。靴下はどれにしよう? ああ、それにしてもこのワイシャツ、二着とも襟が黄ばんでる……。普段着ないから、いつ、クリーニングに出したものなのか……。やっと、綺麗なのを見つけ出した。数珠、数珠……。用意をするあいだ、ちょっと手を動かしたり、ちょっと姿勢がかわるたびに、ため息ばかりついていた。
「……あのな……、葬式や通夜なんかに、行きたくないんだよな、おれは……。いまさら、お前の死に顔なんか見てどうなる?」
私は心のなかで繰りかえし呟いていた。ときどき、声になって出る。
「いまさら、お前の死に顔なんか見て、どうなる?」
「会って話しもできないのに、葬式なんか……。あー。メンドクサ」
悲しい、ということはなかった。それもそうだろう、十八歳で家を出てから、会って話すといっても数年に一度くらい。すでに妹は私のなかでは薄く、疎くなっている。癌のステージⅣと知ったとき、電話で死んだと知らされたとき、自分でもちょっと涙がこぼれそうになったのはわかったが、すぐにひいた。我慢したわけでもなく、一瞬、涙は盛りあがったが、すぐに自然に消えてなくなった。ただ、体が重かった。腕のあげさげさえ、カッたるい。のろのろと、やっとのこと、喪服セットをそろえて、私はお茶の準備にかかった。三十歳のころからほぼ毎日欠かすことなく、二十五年以上してきたのに、道具を仕込むのに、これほどもっさりとしてからだが動かないことはなかった。
……知らぬ間に、……釜肌をながめていた。「宝暦年時代」のあの阿弥陀堂釜。……鳴りが目の高さで響き、釜の口からはさかんに湯気が立ちのぼっている。もう少し釜肌をよく見ようと、雪崩れてしまいそうなからだを芋虫のようにいざって釜にちかづき、ため息をつき、目を閉じた。二十五年ほぼ毎日お茶をしてきて、こんなことは今までになかった。客の席でお茶を飲むことは珍しくなかった。ただ、こんなふうに、体を横たえたことはどんなに疲れていようと、熱があろうと、一度もなかった。体がどうしようもなく重く、点前をするのもやっとで、客の席で茶を飲むと、体がいやおうなく横になってしまった。そして、ぼんやりと釜の肌をながめている……。
「なにやってんねん」
気がつくと、繰りかえし、心のなかで呟いている。
「なにやってんねん、ほんま」
ときどき、口から言葉がこぼれ落ちることもあった。
そして、ため息をついている。
目を開けると、あいかわらず鳴りがひびき、柄杓ののった釜の口からは湯気がたちのぼっている。四肢はぐったりとした時間にとけこみ、からだはどんよりと重い無窮にまぎれこんで、ただ「なにやってんねん」という言葉だけが、だまし絵の永久機関のようにどこまでも巡っていた。
「なにやってんねん、ほんまに」
「ごめん、ごめん」
浮島のようにただよっている左肩に、なにか気配がした。
「ごめん、お兄ちゃん」
「おまえな……」
私は言葉に詰まって、また目を閉じた。
「おまえな……」
「ごめん、お兄ちゃん」
「この、兄不孝者……」
「てへ、兄不孝者にされちゃった」
「あのな……」
私は目を開けた。まだ、左肩のあたりに気配がまとわりついていた。私はまた、ため息をついて目を閉じた。
「行きたくないんだよな、おまえの葬式なんて。今さらお前の死に顔なんか見て、なんになる?」
「うん……」
「話もできないのに、会って何になる?」
「うん……。ごめん、お兄ちゃん」
「あのな……」
私はため息をついて、また、目を開けた。
「行きたくない、お前の葬式なんか」
「うん、ごめん」
「なにやってんねん、ほんま……」
「ごめん、お兄ちゃん」
「行きたくないな」
それでも、妹が私の心のなかで「来て、来て」と言っているのがわかった。
「なにやってんねん、ほんま」
「ごめん、ごめん」
ミクの部活の友だちが妹の柩のまわりにむらがって泣いていた。最前列の柩に一番近い席のひとつに私は座っていた。黒いスーツをまとった係の男から、その席に座わるように言われたのだった。式場につづいて洋間の控えの間があり、そこにもミクの部活の友だちがあふれかえってすすり泣いていた。一緒に泣いている母親もいた。ケーちゃんや、アカリやミクも、挨拶をしたり、焼香をしたりするたびに涙がとまらないようだった。すでに両親もいない妹側の親類は私と、妹とは血のつながっていない沙彩だけだった。背後からもすすり泣く声がうねりのように迫ってきた。私だけがすっぽりとこの悲しみの怒濤から抜け落ちている気がした。
「なにやってんねん、ほんま」
こんなにたくさんの人を悲しませて、という気分をこめて私は呟いた。
「ごめーん、お兄ちゃん」
案外妹はケロリとしたもので、ちょっとしたいたずらをやらかしたのをとがめられて、「てへへ」という感じで謝るときのような口調なのだった。
「おまえな、アカリちゃんやミクちゃんは、どうなんや、心配やないんか。ケーちゃんも……」
「ああ、うん、まあね。けど、大丈夫でょう、アカリもミクも。わたしの、っていうか、ケーちゃんとわたしの娘なんだから。まあ、ケーちゃんも、それなりだから」
「そんなもんかね」
「そんなもんだよ。だって、いまさら、わたしがこっちからヤキモキしてもどうしようもなんもん。あの子たちなら、大丈夫」
妹の柩のなかには、ページを丸めて菊水の菊花のようにした何冊かの文庫本と、十何枚もの家族の写真が入っていた。妹と娘たち、妹と娘たちとケーちゃん、妹とアカリ、妹とミク、家族の幸せにみちた写真に、妹は埋もれていた。そんな写真や妹を見て、涙を誘われない者はいないだろう。ことに、十六、七のわかすぎる女の子やその母親はいうまでもない。通夜が終わり、ケーちゃんや娘たちも二階の遺族控え室で寝てしまい、がらんとした式場に沙彩と妹と、三人だけになった私も、一枚一枚写真を見て、妹も幸せだったんだな、と思わされないではいられず、思わず、すこし、涙がにじんでくるのがわかった。
「あの写真は、葬儀屋さんが用意するように、って遺族に言ったみたいだね」
家に帰ってきてから、沙彩が言った。
「え、どうしてわかるの?」
「うん、式場に葬儀の手順を案内するパンフレットがあたんよ。そのなかの『ご家族が用意するもの』っていうのに、『思い出の写真』って」
「『思い出の写真』? ふうん……」と私はちょっとうつむき、
「やっぱり、そうなんや。なんか、ちょっと、過剰演出やったような気もするよな。いかにも、お涙ちょうだい、みたいな感じで」
「文庫本はべつにいいんやけどな、妹が好きで何度も読んでたものらしいし。けど、あの写真は……」
何度も写真を見返して妹の幸せを確かめているうちに、私はなにか落ち着かなくなっていた。写真は、どれも、ケーちゃんとアカリちゃんとミクちゃん、その誰かか、全員かと妹が一緒のものばかりなのだった。
あれ? 妹ってこれだけやったかな? 結婚するまえの妹はいないのかな? 父や母や兄との「思い出」は妹にはないってことなのか?
通夜のあいだも、葬儀のあいだも、どうも場違いな気がして落ち着かなかったのは、ただ、あの悲しみの怒濤に呑みこまれなかったからとか、参列者がケーちゃんの親族やアカリやミクの友だちやその親族という理由だけではないようだった。結婚前の薫子は、なかったもおなじ、なのだった。この柩のなかでは。私は過去の遺物で、妹の思い出ですらなく、この葬儀の場では、いわば、消えてしまった、忘れらてしまった、妹の過去からあらわれたゾンビというわけか。
「あは、お兄ちゃん、おっかない」
「あのな……」
左肩にまとわりついている気配が、くすくす笑っていた。
全身衰弱と聞いていたので、顴骨はひいでて、目は落ちくぼみ、よほどひどい顔をしているかと思った。そんな妹の顔を見るのはなおさらいやだった。列車が一駅一駅ちかづいていくにつれて、憂鬱さがますます募っていった。どうしたらいいか、どういう振る舞いに出るか、わからなかった。このままなにもなかったことにして、G駅をやり過ごしてしまえたら……。皺が多かった。シミもいっぱいあった。死に顔は、衰弱を感じさせはしなかったが、いやに老けて見えた。兄と妹が逆転したとさえ感じた。去年の輝きにみちたあの妹の顔がこころを横切った。子どもたちのことを話しているあの顔。いきいきとして、はきはきとして、輝いていた、あの顔。この死に顔は別人の顔にさえ思えた。いや、別人にちがいなかった。ただの骸だ。こころの抜け去った、抜け殻、なきがらにすぎない。ただ、ほんのりと微笑みがただよっているのが、救いだった。
「イヤに老けたな……」
通夜の深夜、ふたりだけになって、私は死に顔を見ながら話しかけた。
「皺やシミ、こんなにあったっけ? 苦労したのかな……」
生活の苦労を重ねると皺が増えるというのはほんとうだろうか? 私にはそんな実感はなかった。単に、衰えていく肉体と肌の生理的現象としか思えない。
どうしようか、ずっとためらっていたが、ついに、曲げた人指し指の背で、額の生え際をひと撫でした。ひどく冷たかった。死体の冷たさというより、柩の底に敷き詰められているドライアイスの冷たさだった。そう、妹はもう、こんなふうにドライアイスの冷たさをそのまま伝えるだけの、そんな体になってしまっていた。もし、ここで、妹が突然、目をかっと見開いたら。そして、私の腕にすがりついてきたら……。そんな考えがふと頭をよぎった。それは、恐ろしかった。
「ちょっと、ちょっと、やめてよね、お兄ちゃん。そういう、死者を冒涜するような想像は」
「いや、ごめん、ごめん」
今度は私が謝っていた。
「けど、おまえならやりかねんよな」
「お兄ちゃん、それはこっちのセリフ」
「遺影、どうですか。アカリとミクが選んだんです」
着替えをすませて式場に行くと、待っていたケーちゃんが話しかけてきた。
「ああ、これが、アカリちゃんとミクちゃんの、薫子のイメージなんですね」
聞こえたのか、聞こえなかったのか、ケーちゃんはすこしむっとした様子で、その場を立ち去った。たしかに、通夜のあとで妹と二人きりになったとき、柩にあふれている「思い出の写真」のなかにおなじ顔の妹がいた。満面に笑みをたたえている。ミクの中学入学式の時の家族写真だった。
「これが、あの家族の、妹のイメージ……」
私は苦々しく思った。妹の笑顔は、父のあの腹違いの姉の顔にそっくりに見えた。伯母のふくらはぎに浮かびあがっていたうねうねとした醜い動脈瘤が思い浮かんだ。父もふくらはぎのおなじところに、おなじ動脈瘤があった。伯母には一人娘がいた。先祖代々の町家に伯母たちが暮らし、私たち一家は公営住宅に暮らしていた。お盆などには、先祖代々の墓にお参りに行き、すぐ近くにあるその家に立ち寄った。古い町家だった。引き戸を開けると土間が裏庭へと通り抜けになっていて、土間の横に和室が三部屋つづいていた。まん中の部屋に大きな仏壇があった。裏庭は案外広く、庭の隅に甕の便所があり、無花果の木があった。老朽化した、お世辞にも綺麗だとはいえないぼろ家にはちがいなかったが、父や母にはひとつの希望だった。伯母母子には住むところもなく、これといった定収入もないので今は仮住まいをさせているが、やがては父がひきつぎ、新しい家に建てなおす、そんな夢があった。
私が中学に入学した春、知らない弁護士事務所から一通の封書が届いた。勤めからかえった父に母がその手紙を見せると、父は青ざめ、表情が暗くなった。十年間地代を払っていなかったので出て行って欲しい、との地主からの通告だった。先祖代々の家といってもそこは寺からの借地だった。父は父の叔父にあたる人に相談して奔走したが、結局、雀の涙ほどの立ち退き料で先祖代々の土地と家を手放さなければならなかった。もし、地代を払っていれば、おなじ立ち退くにしても数十倍の立ち退き料をとれたものを。父は当然伯母を責めた。「なぜ、地代を払っていなかったのか。住んでいるのだから払うのがあたりまえだろう。それに、払えないならいつでもいってくれればこちらが払ったのだ」。伯母の言い分はこうだ、「あなたの名義なのだから、こっちが言う言わないにかかわらず、あなたが払うのが当然でしょう」、いけしゃあしゃあと。さらには、あなたが地代を払っていなかったために住むところを失ったのだから、立ち退き料をよこせ、と。さすがにこの言い分は大叔父の逆鱗に触れた。雀の涙ほどの立ち退き料は父のものにはなった。それから、家の雰囲気ががらりと変わった。なにかを喪失した空虚にみたされ、暗くなった。父は酒に逃避して、なにかというと私と妹にあたるようになった。母もいらいら、かりかりして、がみがみいうようになった。父と母の諍い、けんかが絶えなくなった。私と妹もあまり話をしなくなった。ただ、心のなかでは連帯して両親からの理不尽にたえて、内心でかばいあっていた。叔母からの遺産相続の時には、この伯母はすでになくなっていて、いとこでもあるあの一人娘が引き継いだ。伯母は一応今の苗字を名乗っているけど、実際は父親が誰かわからない子、と母が言っていた。伯母は金にも、男にもだらしない女だった、ということか。
その伯母を思いおこさせる、妹の遺影。アカリやミクにとっては、この笑顔は、自分たちをしあわせにしてくれた最高の笑顔にちがいなかった。ケーちゃんにとっても、すてきな妻としての思い出の笑顔にちがいなかった。妹にこんな伯母がいたことは、ケーちゃんもアカリもミクも、きっと知らないだろう。救いは、妹の死に顔は、伯母にはあまり似ていないことくらい。葬儀をとおして、私は妹の遺影をこころからはじき出しつづけた。祭壇を見ても遺影を見ず、遺影を持ったミクを見ても遺影は見ず、妹の家に行ってちいさな祭壇の妹に手をあわせるときも、遺影は見なかった。
「似ちゃうもんなんだね、親が腹違いなのに」と妹。
「ああ。けど、性格や人柄や行いまでが似てたわけやないやろ?」と私。
「それは、たぶん、そうだけど……」
「なら、ええやんか。ただ、おれは、あの遺影は……見たくないけどな」
「うん、ごめん」
「なんで? お前が謝ることないやろ。似たくて似たわけでもないし、選んでほしくて選ばれたわけでもないし」
「うん……」
「それに……」と私はつけ足した。
お前の写真、といえば、あの、モノクロの写真。覚えてるか? おまえが、三四歳くらいかな、公営住宅に引っ越ししたすぐに、石垣のまえで撮った、あの写真。スモッグに厚手のタイツはいて……鼻くそ、ほじってるみたいな、あれ。でこっぱちで、うすいふさふさの髪、頬もふっくら、くりんとした黒い目をして……。あの写真が、忘れられないから、……あれが、おまえの遺影だと言ったら、やっぱり、おまえは怒るよな……。
つづく
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