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ふと思ったこと

昨日、2年ぶりくらいにあった先輩と近況報告みたいな他愛もない話をしていて、あんまり自分から自分のことを話す行為に前向きでなかったけれど、話の流れで家を建てたことを伝えた。
その先輩は産休育休明けで、きっと待望のこどもで、毎日が充実しているんだろうな、と思う。(ほんとうのところはわからないけれど。その人にしかわからないことを想像で埋めるのは至極無駄なことだし、失礼なことでもあると思っているから。だけど、きっとそうなんだろうな、という気持ちになってしまった。)
当然のように、「○○、子ども部屋は作ったん?」「これからどうしていくん?」と聞かれ、その場の間をもたせるように笑うことしかできなかった。

自分はどうしたいんだろう。
自分はどんな自分になりたいんだろう。
一瞬でとても深いところを突かれたような気がして、絞り出した笑顔はきっとちゃんとできていないんだろうな、と俯瞰的な場所にいた自分が自分のことをそう思っている気がした。

私はねえ、もてることならこどもをもちたいし、神社にお参りに行くたびに願っているんだよ。
誰にも言わないけど。
誰にも言いたくないけど。

なんか、キツイんですよ。
この手の話。
多分図星だから。
(私は心からその先輩のこと、尊敬している部分もあるし、嫌いじゃない。助けてもらったこともたくさんあるし、守ってもらったこともある。何か意図してそういう言葉を投げかけられた訳じゃないってこともちゃんと理解している。つもり。)

いつからか友人の喜ばしい報告に自分が100パーセント喜べてなくて、若干のうっすらとした、色で例えるならほんとうにうすーーーーいグレーのようなもんやりしたものを感じるようになった。
私はわたし。
私には大好きな人がいて、仕事もあって、家もある。
家族にも恵まれて、不自由なく趣味を楽しんで日々を過ごしている。
ただ、自分に授からないことが、自分が授かれないことが、時折ただただ哀しくなる。
自分自身の価値(?)みたいなものがないように感じる。

不思議だねえ。
そんなこと、生きていく上でなんでもないことなのに。
自分で自分のアイデンティティのようなものを決めつけて、図って、まるで、「可哀想な人」になりたいみたいじゃない。

無駄なのよ。そんな時間が。
自分を落とす時間って無駄なのよ。
そう思える日もある一方で、ひたすらに落ちて落ちて堕ちる日もある。
周りの人全員が妬ましくて、自分に何も無いと決めつけて、身体も心もわざと傷つけて、「可哀想な自分」になる日もある。


ふぅ。
なんでこんなことを急に書き出したかっていうとね。
それくらい昨日の会話のダメージがあったんですわ。笑

今日の私にちょっとでも余力があるなら、夜会える家族に、私が選んで、選んでもらった家族に、あなたといることが私のなりたい自分って言えたらいいな。

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