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太宰治「津軽」を通してRAY津軽よされ節を解する

初めに

こんにちは。bedlam_revelerです。
前回、Meteor派なる謎noteを書いたのですが、
自分の好きなものについて文章を書くのはいいですね。
私の中の文学部卒としての残滓に響くものがあったので、
こうやってまた駄文を連ねることにしました。

ところで、換骨奪胎という言葉をみなさんご存知でしょうか?

他人の詩文の語句や構想をうまく利用し、その着想・形式をまねながら、自分の作としても(独自の)価値があるものに作ること。

Oxford Languages

比較文学というものを専攻していた私の指導教官がよく口にしていた言葉です。
今振り返ってみると、この言葉はオルタナ/シューゲイザーというものをアイドルの文脈の中で再構築してきたRAYにぴったりだなと思ったわけです。
そこでいつか比較文学的観点からRAYについて何か書けたらなあと思っていたところ、
津軽よされ節という格好のネタが見つかったのです。
伝統的な津軽よされ節をRAYはどのように自分たちの文脈に納めたのか、
それを津軽を代表する人物太宰治に触れつつ書いていこうと思います。

津軽よされ節の歌詞

まずはRAYよされ節と本家よされ節の歌詞を並べてみます。

アー津軽よいとこ おいらの国よ

春は桜の弘前に 盃片手に眺むれば

RAY 津軽よされ節

本家よされ節の歌詞を載せるのですが、
ちょっと驚いたのはよされ節の歌詞というのはほんとにバリエーション豊かなんですよね。
全部を取り上げるのは無理なので、RAYのよされ節に近しいものを取り上げます。

アー津軽よいとこ おいらの国よ

アー春は桜の弘前に 盃片手に眺むれば
霞に浮かぶ 津軽富士

夏はそよ風 波静か
大戸瀬深浦 浅虫や
中でもきわ立つ 十和田弧よ

右も左もよされ節
ヨサレ ソーラヨイヤ

青森県民謡

郷土津軽の景観を歌っています。桜の名所、弘前城に始まり、花見をしながら盃を片手に城越しに見る津軽富士こと岩木山。夏になると舞台は水辺に移り、日本海沿岸の大戸瀬深浦から青森市より東の浅虫、そして秋田との県境の十和田湖へと青森県の西半分をぐるっと一巡りします。こう見るとRAYのよされ節はだいぶ短くなっているのがわかりますね。ちなみに以下のサイトには多種多様なよされ節の歌詞が載っています。


では、なぜRAYのよされ節がこの切り取り方になったのかを考えていきましょう。割とエクスペリメンタルな本家よされ節はYouTubeで検索すると5分以上の動画もざらなので、3分のアイドルソングとしてまとめるためというのはまちがいではないでしょう。ただ、私はここでみなさんに太宰の津軽の一節を見ていただきたいのです。

だいぶ弘前の悪口を言つたが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であつた。謂はば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このやうに津軽の悪口を言ふのである。他国の人が、もし私のこのやうな悪口を聞いて、さうして安易に津軽を見くびつたら、私はやつぱり不愉快に思ふだらう。なんと言つても、私は津軽を愛してゐるのだから。

 弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられてゐる。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれてゐるさうだ。(中略)私はこの旧津軽藩の城下まちに、こだはりすぎてゐるのだ。ここは私たち津軽人の窮極の魂の拠りどころでなければならぬ筈なのに、どうも、それにしては、私のこれまでの説明だけでは、この城下まちの性格が、まだまだあいまいである。桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限つた事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれてゐるではないか。(中略)私は何とかして弘前市の肩を持つてやりたく、まつたく下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを描写する事はつひに出来なかつた。重ねて言ふ。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感してゐるのであるが、それが何であるか、形にあらはして、はつきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない。この、もどかしさ。

太宰治 津軽

どのような過程を経てRAYのよされ節の歌詞が作られたのかはわからないものの、この太宰を一節を読めばいみじくもRAYが津軽の魂の本質だけを取り出していることが伝わるのではないでしょうか。もちろん大戸瀬深浦も浅虫も十和田湖も素晴らしいところです。ただ、地理的には太宰のような生粋の津軽人からすると少し離れた場所になります。一方、岩木山は弘前城と並ぶ津軽のシンボルです。そんな岩木山をも排してRAYは津軽の本質に一直線に迫りました。歌詞だけに注目すると、RAYのよされ節はもともとの歌詞をおさまりの悪いところで切っているように感じられます。「霞に浮かぶ津軽富士」の部分がないと日本語として不完全です。あえて省略しているのですが、省略することで岩木山の不在をより感じさせているかというと、そうではありませんね。そのような効果を発揮するためには、受け手である我々が続く歌詞と岩木山の情景を知っていなければなりません。ですから、よされ節において彼女たちは春、それも津軽の中でも弘前城というピンポイントにフォーカスを絞りに絞って表現していることがわかります。すべてを網羅するのではなく、視野を狭めることで津軽の本質を捉えたのです。その徹底ぶりは視線が上を向いているCDジャケットでさえも岩木山を排し、弘前城と桜のみを描いていることからも伝わってきます。

弘前城の桜。東北出身の私は子どものころGWに見に行きました。

なぜよされ節が選ばれたのかという謎

北東北出身の私にとって津軽は身近な土地柄で、その文化については子どものころから聞いた覚えがあります。津軽民謡についても耳にした記憶がうっすらあるのですが、そのとき聞いたのは津軽じょんから節だったと思うのです。津軽じょんから節、津軽よされ節、津軽小原節で津軽三大民謡と呼ばれていますが、その中で一番有名なじょんから節ではなく、なぜよされ節が選ばれたのか。それはメロン氏が語らない限り明らかにはならないと思いますが、よされ節だからこそ持つ意味というものをここから書いてみます。

「よされ」の意味

こちらのページによると「よされ」には3つの意味があります。
①「夜去り」説
今夜を意味する古語「夜去り」を語源とする説。古語では去るには「来る」という意味があり、夜が来ることを意味する。
②「世去れ」説
貧しい暮らしに苦しむ庶民が、苦しい世の中が早く過ぎ去ってほしいという思いを込めた「世去れ」を語源とする説。
③「よしなさい」説
特に南部よされ節において提唱されている説。

ちなみに以下のサイトではまったく別の説も載っていて、上記の三つの説を否定しています。

このように「よされ」の本当の意味というのは断定できません。しかし、断定できないからこそ解釈の余地というものが生まれるのであり、ここでもう一度太宰の津軽に戻ってみます。

 その夜はまた、お互ひ一仕事すんだのだから、などと言ひわけして二人でビールを飲み、郷土の凶作の事に就いて話し合つた。(中略)
「何せ、こんなだからなあ。」と言つてN君は或る本をひらいて私に見せたが、そのペエジには次のやうな、津軽凶作の年表とでもいふべき不吉な一覧表が載つてゐた。

元和一年    大凶
元和二年    大凶
寛永十七年   大凶
寛永十八年   大凶
寛永十九年    凶
明暦二年     凶
寛文六年     凶
寛文十一年    凶
延宝二年     凶
延宝三年     凶
延宝七年     凶
天和一年    大凶
貞享一年     凶
元禄五年    大凶
元禄七年    大凶
元禄八年    大凶
元禄九年     凶
元禄十五年   半凶
宝永二年     凶
宝永三年     凶
宝永四年    大凶
享保一年     凶
享保五年     凶
元文二年     凶
元文五年     凶
延享二年    大凶
延享四年     凶
寛延二年    大凶
宝暦五年    大凶
明和四年     凶
安永五年    半凶
天明二年    大凶
天明三年    大凶
天明六年    大凶
天明七年    半凶
寛政一年     凶
寛政五年     凶
寛政十一年    凶
文化十年     凶
天保三年    半凶
天保四年    大凶
天保六年    大凶
天保七年    大凶
天保八年     凶
天保九年    大凶
天保十年     凶
慶応二年     凶
明治二年     凶
明治六年     凶
明治二十二年   凶
明治二十四年   凶
明治三十年    凶
明治三十五年  大凶
明治三十八年  大凶
大正二年     凶
昭和六年     凶
昭和九年     凶
昭和十年     凶
昭和十五年   半凶
 津軽の人でなくても、この年表に接しては溜息をつかざるを得ないだらう。大阪夏の陣、豊臣氏滅亡の元和元年より現在まで約三百三十年の間に、約六十回の凶作があつたのである。まづ五年に一度づつ凶作に見舞はれてゐるといふ勘定になるのである。さらにまた、N君はべつな本をひらいて私に見せたが、それには、「翌天保四年に到りては、立春吉祥の其日より東風頻に吹荒み、三月上巳の節句に到れども積雪消えず農家にて雪舟用ゐたり。五月に到り苗の生長僅かに一束なれども時節の階級避くべからざるが故に竟に其儘植附けに着手したり。然れども連日の東風弥々吹き募り、六月土用に入りても密雲冪々として天候朦々晴天白日を見る事殆ど稀なり(中略)毎日朝夕の冷気強く六月土用中に綿入を着用せり、夜は殊に冷にして七月佞武多ねぶた(中略)の頃に到りても道路にては蚊の声を聞かず、家屋の内に於ては聊か之を聞く事あれども蚊帳を用うるを要せず蝉声の如きも甚だ稀なり、七月六日頃より暑気出で盆前単衣物を着用す、同十三日頃より早稲大いに出穂ありし為人気頗る宜しく盆踊りも頗る賑かなりしが、同十五日、十六日の日光白色を帯び恰も夜中の鏡に似たり、同十七日夜半、踊児も散り、来往の者も稀疎にして追々暁方に及べる時、図らざりき厚霜を降らし出穂の首傾きたり、往来老若之を見る者涕泣充満たり。」といふ、あはれと言ふより他には全く言ひやうのない有様が記されてあつて、私たちの幼い頃にも、老人たちからケガヅ(津軽では、凶作の事をケガヅと言ふ。飢渇きかつの訛りかも知れない。)の酸鼻戦懐の状を聞き、幼いながらも暗憺たる気持になつて泣きべそをかいてしまつたものだが、久し振りで故郷に帰り、このやうな記録をあからさまに見せつけられ、哀愁を通り越して何か、わけのわからぬ憤怒さへ感ぜられて、
「これは、いかん。」と言つた。「科学の世の中とか何とか偉さうな事を言つてたつて、こんな凶作を防ぐ法を百姓たちに教へてやる事も出来ないなんて、だらしがねえ。」

太宰治 津軽

「よされ」の意味・語源は断定できないものの、この津軽の人々が耐え抜いてきた圧倒的な悲惨さを前にすると「世去れ」説をとりたくなるのが人情というものではないでしょうか。語源としては「世去れ」ではなかったとしても、よされ節が津軽に根付いていく間に「世去れ」という願いが込められるようになったと推測することはできます。

RAYのライブにおけるよされ節

私はにわかRAYオタなのでライブにはまだ8回しか行ったことがないのですが、幸運なことにそのうちの3回でよされ節を見られました。昨年の内山バースデーと2月の大阪遠征の2,3日目に見たのですが、二回目以降からはよされ節の三味線が鳴った瞬間にオタクの「おめでとうございまーす!!」という謎のコールが入るようになったんですよねw
コールの是非という厄介な問題はここでは無視しますが(個人的にはオレはやらんけどみんなはやりたきゃやればいいんじゃね派)、この「おめでとうございまーす!!」は悔しいことによされ節の特徴を捉えているかと思います。それはよされ節の持つ独特の祝祭感です。三味線とよされ節の独特なリズムは日本の伝統的なお祭りを感じさせます。また、ライブという非日常的な場は我々オタクにとってのお祭りですよね。曲の持つ特徴と非日常的な場の雰囲気が合わさって、思わず「おめでとうございまーす!!」と叫び出したくなるのは理解できるなと感じました。
ここからは恣意的な解釈になってしまうのですが、やはりRAYのよされ節にも「世去れ」要素はあると思うのです。我々オタクはそれぞれが日々どんな生活を送っているかは知りません。ある者は実社会で成功を収めているかもしれませんが、一方で実生活では忸怩たる思いを強いられている者もいるでしょう。特に後者のパターンの人が、普段の辛く苦しい日々を忘れたい、いっそのことそんな世は去ってくれたらいいのにという思いを抱えてRAYのライブに来ることはままあるでしょう。
つまり、津軽の人々が自然的要因で生まれた日々の暮らしの苦しみを忘れ去るために歌ったよされ節は、現代社会に生きる我々オタクがRAYのライブという祭りに集まり、日々のストレスを忘れ去るための曲に変容したと言えるかもしれません。その象徴となるのが「おめでとうございまーす!!」の謎のコールなのです。

アイドルの持つ津軽人的性質

ではなぜ我々オタクがそれほどまでにRAYのライブに思いを託せるのかというと、それはアイドルがもともと持つ津軽人的性質から説明することができるかもしれません。これはRAYだけでなく、あるゆるアイドルに当てはまることです。もう一度太宰を引用します。

Sさんのお家へ行つて、その津軽人の本性を暴露した熱狂的な接待振りには、同じ津軽人の私でさへ少しめんくらつた。(中略)
私は決して誇張法を用みて描写してゐるのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。(中略)
その日のSさんの接待こそ、津軽人の愛情の表現なのである。しかも、生粋の津軽人のそれである。これは私に於いても、Sさんと全く同様な事がしばしばあるので、遠慮なく言ふ事が出来るのであるが、友あり遠方より来た場合には、どうしたらいいかわからなくなつてしまふのである。ただ胸がわくわくして意味も無く右往左往し、さうして電燈に頭をぶつけて電燈の笠を割つたりなどした経験さへ私にはある。食事中に珍客があらはれた場合に、私はすぐに箸を投げ出し、口をもぐもぐさせながら玄関に出るので、かへつてお客に顔をしかめられる事がある。お客を待たせて、心静かに食事をつづけるなどといふ芸当は私には出来ないのである。さうしてSさんの如く、実質に於いては、到れりつくせりの心づかひをして、さうして何やらかやら、家中のもの一切合切持ち出して饗応しても、ただ、お客に閉口させるだけの結果になつて、かへつて後でそのお客に自分の非礼をお詫びしなければならぬなどといふ事になるのである。ちぎつては投げ、むしつては投げ、取つて投げ、果ては自分の命までも、といふ愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかへつて無礼な暴力的なもののやうに思はれ、つひには敬遠といふ事になるのではあるまいか、と私はSさんに依つて私自身の宿命を知らされたやうな気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかつた。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。

太宰治 津軽

このくだりを読んで、我々オタクは身に覚えのある感覚にならないでしょうか?この熱狂的な歓迎ぶりは我々がチェキを撮りにいったときにそれぞれの推しから受けるものに近しいと言えると思います。もちろんこれはRAYに限らず他のアイドルにも言えることなのですが、RAYでは私は特に内山さんと琴山さんの歓待ぶりに驚かされますね。この二人は本当に微に入り細に入りというところまでオタクのことを覚えています。琴山さんなんて私はチェキを3回しか撮っていないのにTwitterのアカまで覚えてくれていて驚愕しました。太宰の言うところの関東・関西の人にはむしろ敬遠されるかもしれないというのは、非アイドルオタクには敬遠されるかもしれないと言い換えることができるかもしれません。しかし、このアイドルがもともと持っていた、津軽人と共通する熱烈な歓待があってこそ我々オタクは津軽よされ節に祝祭感を覚えることができると思うのです。

最後に

ここまでのおさらいです。私は太宰の津軽を用いることで、RAYのよされ節について以下のことを述べたかったのです。
①RAY津軽よされ節は弘前城とその桜のみにフォーカスすることによって津軽人の本質に迫った
②かつて津軽人の「世去れ」の思いがこめられたこの曲は、今RAYのオタクたちの「世去れ」という思いが込められたものになりつつある
③我々オタクがRAYに熱狂するのは、彼女たちがよされ節以前から持っていた津軽人的熱烈なもてなしによるところが大きい

こんなところでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。
まだまだ書きたい事が、あれこれとあったのですが、RAYと津軽よされ節の雰囲気は、以上でだいたい語り尽したようにも思はれます。
私は虚飾を行わなかったはず。
読者をだましはしなかったはず。
さらば読者よ、命あらばまた他日。
元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

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