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宮崎〜日本のひなた〜 vol.2

 みなさん、おはようございます。こんにちは。こんばんは。食トレンド研究センター研究員の、片岡です。

 新しく始まった“食文化探訪”。前回は弊社の故郷『宮崎県』について、地理・気候の側面から深掘りしていきました。今回は宮崎の歴史から食文化への理解を深めていきたいと思っていたのですが、ちょっと方向転換をして弊社に最も縁が深い、宮崎の地場産業『養鶏』はどんな要因で宮崎に根付いていったのかを深堀りしたいと思います。

日本での肉食の普及

 そもそも日本人は、いつ頃から家畜の肉を食べるようになったのでしょうか。日本史の教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代(明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。
 明治天皇は1872年に牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥でちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活も高度成長期(1954〜1973)にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。

『安愚楽鍋』より「牛鍋を食う書生」:仮名垣魯文

宮崎の養鶏

  令和4年現在、宮崎県内のブロイラーの飼養羽数は3,158万羽(※1)と全国の飼養羽数1億3923万羽(※2)のおよそ22.6%のシェアを占めます。宮崎が飼養頭羽数で全国で3位以内に入る肉用牛・豚・鶏の中で、養鶏のみが全国一番のシェアを誇っています。
 ここまで養鶏(特にブロイラー)の飼養羽数が増加したのには、3つの要因があるのではないかと思っています。

農作に向かない土地が畜産に適した

 宮崎県を含む、南九州は桜島の噴火の影響をモロに受けた火山噴出物からなるシラス地層が分布しています。宮崎県の約16%を占めるシラス地層は、主として火砕流で形成されています。その地質からシラス台地の上に降った雨は速やかに地中に浸透するため、台地上には川や湖沼などの水源がほとんどありません。その代わり周辺に湧水が多いことは前回、記した通りです。

 保水性が低いシラスでは、現代のように水源が確保される前までは稲作をはじめとする農業がなかなか行えませんでした。(江戸時代以降は伝来したサツマイモが作られるようになった)痩せた土地で、実らない農業をするわけにもいかず、ただ広大な土地があるために牧畜が進められていったのではないかと考えています。

県政が養鶏を推し進めた

 宮崎で本格的に鶏の飼養羽数の調査を実施し、その実態を把握したのは大正8年とされています。大正期・昭和期前半を経て、農家一戸あたりの飼養羽数は7羽〜11羽から10〜15羽ほどで大きな変化は見られませんでしたが、きたる昭和40年から平成元年までに、飼養羽数が急激に伸びました。昭和40年が、108万6千羽だったのが、昭和50年には、806万4千羽と約7倍にまで伸びています。平成元年には、2736万4千羽と、実に25倍にもなりました。(※3)

 この時期に宮崎県が進めたのが昭和35年に出された『防災営農進行計画』でした。

九州地方における農業生産は、最近その停滞が目立っているが、特に南九州における農業は、高温多雨の気象条件のもとで、畑作は、不良せき薄な土壌の上に行われ、 水田は老朽化し、加うるに台風、豪雨の常習的な被害地にあたっているため、その生産力は停滞し、農業所得は低く、農業経営は不安定である。 いわゆるこのような生産低位におかれている所謂暖地農業の現状を打破するために、生産基 盤を整備すると共に防災営農の形態を確立し、地域別に営農の目標を定め、これが達 成のため計画的な国の特別有利な長期低利資金の導入と農家の自主性の発現を根幹として南九州に適応する安定農家を急速に創出することを目的とする。

南九州防災営農

 これはつまり、農業を停滞させている諸要因(自然災害、経済的社会的立地条件の不利など)を排除し、農業生産の安定と発展をはかり、農家所得の増大と生活水準の向上をもたらすために構想、実施された計画でした。この10年後、昭和45年には『新農業振興10ヵ年計画』が出されています。

 これまで推進してきた防災営農計画の実績及び推進上の問題を分析し、わが国経済発展の長期的展望と変貌する 70 年代の農業の適確なる見通しのうえにたって、本県農業が当面する問題に積極的に対応しながら、食料供給基地としての農業振興の方向 を明らかにするために「新農業振興10か年計画」を策定しました。
 (中略)消費の伸びが期待される作目の振興を積極的に推進し、需要に見合った効率的 かつ安定的な生産をはかることとした。
 (中略)生産にあたっては、高品位安全生産をモットーに商品性の向上に努め、特に畜産、 野菜、果樹などを中心に、大きく伸ばすこととし、(中略)麦、甘しょ(澱粉用)は極力他作目への転換をすすめることとした。

歴史資料に見る宮崎No.2:庁議

 宮崎県はこの10ヵ年計画で養鶏についても以下のような高い目標を掲げています。この目標実現に向けて、生産拡大を図り、食糧の確保、食の供給基地づくりを目指して取り組んだ結果が、急激な生産の増加につながったのではないかと考えられています。

歴史資料に見る宮崎No.2

飼料が手に入りやすくなった

 昭和20年の終戦から昭和24~25年は戦後の食糧増産期と言われ、昭和22年の農地解放と自作農創設により農家の生産意欲が極めて高まりました。また、26年頃から統制経済から自由経済への移行が始まり、昭和27年には麦の統制が撤廃され、化学肥料の利用も増え始めたことに加えて、昭和29年にはMSA協定(日米相互防衛援助協定)が締結され、アメリカからの輸入穀物が家畜飼料に使用されるようになり、畜産が急速に普及する要因となりました。
 この輸入が本格化する以前でも、宮崎ではさつまいも(甘藷かんしょ里芋が多く栽培され、アメリカとの協定が結ばれ外国からの輸入飼料が安定的に供給されるまでの期間も、飼料の確保は他県よりは進めやすかったのではないでしょうか。

まとめ

 今回は弊社にとってもかなり縁の深い『養鶏』について、3つの観点」から考察してみました。

❶農作に向かない土地
 ▶︎農作に向かないシラス地層が畜産に利用された
❷県政の影響
 ▶︎昭和後期〜平成初期にかけて、県が農業を支援した
❸飼料の供給
 ▶︎同時期に輸入飼料が拡大

 宮崎の歴史から食文化を考える予定ではありましたが、養鶏というテーマをベースに県政や国内情勢も合わせて、宮崎の養鶏産業について考えることができました。次回は焼酎について深堀りしていく予定です。お楽しみに!

●参考統計資料●
※1 市町村別家畜飼養頭羽数(令和4年2月1日現在):宮崎県
※2 畜産統計調査 確報(令和4年度):農林水産省
※3 歴史資料に見る宮崎vol.2:宮崎県

あとがき

 今回さまざまな観点から、宮崎の養鶏について考える機会をもちましたが、皆さんに伝えられるように文章に落とし込むのにかなり苦労しました。力が及ばずでした・・・。
 内容に偽りはないですが、伝えたいことをうまく書ききれていないので、再度時間をかけてより精度の高い仮説を立てながら、統計や史実をもとに文化を読み解いていければと思います。頑張ります。


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