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貨幣と資本(第1回):はじめに マクロ経済理論におけるパラダイムシフト

はじめに

パラダイム・シフトとは、本来、科学史及び科学哲学上の概念であるが、噛み砕いていえば、その時代や学問分野において暗黙の前提、または当たり前の常識として考えられていた人々の認識や思想などが劇的に変化することを意味する。

経済学における旧来のパラダイム

マーシャル(Marshall A.)の著書『経済学原理』(”Principles of Economics,” 1890)以降、現在まで1世紀以上にわたり、経済学の分野で最も基礎的なモデルとされてきたのは、需要・供給曲線の交点で均衡価格と均衡数量(取引量)が決定されるというものである。

ミクロ経済学は価格理論とも呼ばれる。従って、上記の需要・供給モデルこそミクロ経済学の暗黙の仮定(tacit postulate)、すなわちパラダイムと考えられるが、1929年以降の大恐慌期にケインズ(Keynes J. M.)が著した『一般理論』(”The General Theory of Employment, Interest and Money,” 1936)を嚆矢とするマクロ経済学の分野においても、経済学者の多くは従来の需要・供給モデルのパラダイムの枠内で思考してきたといえる。

なぜなら、マクロ経済学でも、消費・貯蓄・投資・国民所得・失業率・インフレ率等のマクロ経済変数の変動と決定プロセスを分析する上で、①生産物(財・サービス)市場、②貨幣(資本・債券)市場、そして③労働市場という3つの市場における需要・供給モデルを基盤としているからである。これを数学的に見れば、『需要価格=供給価格』及び『需要数量=供給数量』という、価格と数量(取引量)の均衡を示す需給均衡条件式(方程式)の両辺を掛け合わせた『総需要(Agregated Demand)=総供給(Agregated Supply)』の均衡または不均衡がマクロ経済分析の主眼とされてきたともいえる。

ケインジアン

例えば、1937年にヒックス(Hicks J. R.)が著した論文『Mr. Keynes and the Classics: A Suggested Interpretation』において、①生産物(財・サービス)市場及び②貨幣(資本・債券)市場における同時均衡を満たす国民所得と利子率を決定するIS-LMモデルが示されている。

まず、①生産物(財・サービス)市場においては、将来に対する不確実性を伴う長期期待から導かれる期待利潤率(資本の限界効率)と利子率の関係から決定される投資と貯蓄の均衡によって現実の生産水準(国民総生産、国民所得)が決定されると解釈したヒックスは、これを単純化することにより、利子率の関数である投資I(Investment)と国民所得の関数である貯蓄S(Saving)との均衡によって描かれるIS曲線を導いた。

次に、②貨幣(資本・債券)市場においても、貨幣の需要量(流動性選好)と貨幣の供給量の均衡点において、均衡「価格」としての利子率が決定されると解釈したヒックスは、これを単純化することにより、貨幣の需要量L(Liquidity preference)と貨幣の供給量M(Money supply)の均衡によって描かれるLM曲線を導いた。

このようにIS-LMモデルは、上記IS曲線(生産物[財・サービス]市場)とLM曲線(貨幣[資本・債券]市場)の交点において、国民所得と利子率が同時均衡的に決定されることを示した理論といえる。

新しい古典派による実物的景気循環(RBC)モデル

新しい古典派(New classical economics)とは、新古典派経済学に基づくマクロ経済学として、1970年代以降に発展した学派である。ケインジアンのマクロ経済学に対抗して、新しい古典派は、ミクロ的基礎付け(micro-foundation)を強調することを通じて、新古典派のパラダイムである需要・供給モデルの上に構築されている。なお、ミクロ的基礎付けとは、ミクロ経済学でモデル化された代表的個人(representative agent)の行動を基礎として、マクロ経済学のモデルを構築することである。現在、新しい古典派の経済モデルとして最も広く活用されているのが、実物的景気循環モデル(Real Business Cycle Model、以下「RBCモデル」とする)である。[1]

RBCモデルにおいては、合理的期待を形成する1人の代表的個人(representative agent)の存在を仮定し、彼は「異時点間で動学的に効用最大化」する経済行動を行うと考える。そして、彼の経済行動は社会の構成員全員、さらには経済全体を代表するという暗黙の仮定(tacit postulate)が置かれている。また、代表的個人の合理的期待から導かれるもう一つの暗黙の仮定が貨幣の中立性であり、これにより、景気循環の要因は生産技術や財政政策等の実質変数(実物的要因)に限定されることとなる。

上記の通り、新しい古典派自体、ミクロ的基礎付けとの形でミクロ経済学の需要・供給モデルというパラダイムの枠内にあって、その上に個別の経済主体の行動を基礎とするマクロ経済学のモデルであるRBCモデルが構築されている。更に言えば、RBCモデルにおいては、ケインジアンのIS-LMモデルにおける①生産物(財・サービス)市場の均衡にのみ焦点が当てられる一方、②貨幣(資本・債券)市場の存在自体、完全に無視されている。

マクロ経済学における新しいパラダイム

マクロ経済変数は、国連の定める国民経済計算体系(SNA: System of National Accounts)に基づき、複式簿記で記録される。従って、以下では、複式簿記の仕訳のロジック、すなわち会計恒等式(Accounting Identity)を用いて、SNA上の勘定連絡を恒等式(identity)の束として表す。需要・供給の均衡という観点ではなく、SNA上の勘定連絡そのものを恒等式(identity)の束として捉える観点こそが、マクロ経済学における新しいパラダイムであると考える。

複式簿記の仕訳では、ある一つの取引または会計事象が発生する場合、これを会計学的に「認識(recognition)」、「測定(measurement)」した上で、①右側にある貸方(Credit)は資金の調達源泉(Source of funds)、②左側にある借方(Debit)は資金の運用形態(Use of funds)という2つの異なる視点から、貸方と借方の金額が一致する状態で同時に記帳するという「貸借一致」のロジックが常に必ず貫徹されている。これを数学としてみれば、左辺の数式と右辺の数式に投入される変数がどのような値のときも、左右の両辺が常に必ず等号(≡)で結ばれる恒等式(identity)と全く同じ構造を有している。従って、SNAの勘定体系上、勘定科目間の相互関係を示す勘定連絡は、全て恒等式(identity)として表すことができるのである。

複式簿記のロジック=恒等式の束を基礎とするマクロ経済モデルにおいては、一国経済全体の全ての取引・会計事象を網羅して、漏れなくダブりなく、全てを完全な形で恒等式の束という形でモデル化している。そして、複式簿記に基づく会計恒等式においては、常に左辺(借方)残高と右辺(貸方)残高を均衡させるGDP、国民所得、貯蓄、貯蓄投資差額、そして資本(国富)といった残高調整項目(Balancing Items) と呼ばれる勘定科目が存在する。一つひとつの取引または会計事象が発生する都度、フロー(国内総生産を構成する消費や投資等)の取引額や一国経済全体のストック(資産・負債)の残高であるマクロ経済変数が変動し、それと同時に、国民所得Y、貯蓄S(=資本蓄積ΔK)、貯蓄投資差額(=資金過不足)、資本K(国富)等、SNA上の残高調整項目(balancing items)も借方(左側)と貸方(右側)の金額を常に必ず一致させつつ変動し、会計恒等式が常に必ず成立する複式仕訳が発生するのである。

旧来のマクロ経済学は一般均衡と称しながらも、SNAの勘定体系でいえば、総需要と総供給の均衡状態を記録・表示する国内総生産勘定(粗利を測定する損益勘定)のみを主な研究対象としてきたのではないだろうか。逆に言えば、SNAの資本勘定、とりわけ金融勘定はほとんど眼中になかったといえる。

資本勘定では、「投資≡貯蓄」という恒等式が存在するにもかかわらず、数学的に「投資≡貯蓄」が成立しない需給均衡条件式(方程式)のモデルが主流だった。金融勘定においても、マネー需要とマネー供給の均衡価格としての金利がパラダイムの中心にあり、「銀行の金融資産(投融資)≡銀行の負債(マネーストック)」という恒等式の存在や、金利が損益取引ではなく資本取引(所得の移転)であることは認識されていなかった。

マクロ経済変数を恒等式の束として分析する新しいパラダイムの下では、一国経済全体の全ての勘定体系(貸借対照表、国内総生産勘定、所得支出勘定、資本勘定、金融勘定及び調整勘定)を網羅した統一的マクロ経済モデルが構築できる。そこでは、例えば、財政・金融政策が一国経済全体に及ぼす効果の精緻なシミュレーションだけでなく、金融危機や通貨危機による実体経済への波及効果やその会計的な処理方法、更には資産バブルの発生と崩壊といった「国富(資本)」の大幅な変動の波及効果やその会計的な処理方法等、様々な分析と財政・金融政策の提案が可能となる。

①     生産物(財・サービス)市場における恒等式

古くはケインズの「一般理論」において、以下の等式で貯蓄と投資との均衡が示されている(Keynes, 1936, p.38)。

Income = value of output = consumption + investment.
Saving = income − consumption.
Therefore saving = investment.

ここで各項目を日本語と対応する記号に置き換えると、以下の通りである。

国民所得(Y)=消費(C)+投資(I)
貯蓄(S)=国民所得(Y)-消費(C)
よって、貯蓄(S)=投資(I)

旧来のマクロ経済学のパラダイムの枠内では、①生産物(財・サービス)市場において、将来に対する不確実性を伴う長期期待から導かれる期待利潤率(資本の限界効率)と利子率から決定される投資と貯蓄の均衡によって、現実の生産水準(国民総生産、国民所得)が決定されるものと解釈されてきた。

しかし、SNAの勘定体系上、『貯蓄(S)≡投資(I)』は常に成立する恒等式(identity)であるから、期待利潤率(資本の限界効率)または利子率とは、一切無関係である。従って、IS-LMモデルにおけるIS曲線自体、現実にはその存在すらあり得ないものである。

②     貨幣(資本・債券)市場における恒等式

日本銀行は、毎月10億円単位でマネーストック(通貨供給量)を公表している。日本銀行がどうやってマネーストック(通貨供給量)を計算しているかというと、ざっくりといえば、日本銀行と他の預金取扱機関(要は銀行)の貸借対照表(バランスシート)上、負債(貸方)側に計上される日本銀行券(要はお札)と預金通貨(普通預金と定期預金)の残高を合計しているのである。

それでは、マネーストック(通貨供給量)はどのようにして増えたり減ったりするのか。ミクロ経済学のパラダイムでは、財・サービスの需要量が高まり均衡「価格」が上昇すれば、財・サービスの供給量も増加するとされる。しかし、本来、マネーストック(通貨供給量)の増減量は、マネーに対する需要(資金需要)とは全く無関係である。

前述のように、マネーストック(通貨供給量)とは、日本銀行と他の預金取扱機関(要は銀行)の貸借対照表(バランスシート)上、負債(貸方)側に計上される日本銀行券(要はお札)と預金通貨(普通預金と定期預金)の残高を合計したものである。

ということは、複式簿記における貸借一致の原則、すなわちSNA上の恒等式に基づき、日本銀行と他の預金取扱機関(要は銀行)の貸借対照表(バランスシート)上、負債(貸方)側のマネーストック(通貨供給量)が、必ず資産(借方)側の貸出金(投融資)の増減(新規貸出または回収)と同額で増減するのは、論理的かつ数学的必然である。

具体的には、日本銀行と他の預金取扱機関(要は銀行)の連結貸借対照表(バランスシート)において、以下の恒等式が常に必ず成立する。

銀行の金融資産(投融資)の増減額≡銀行の負債(マネーストック)の増減額

従って、日本銀行と他の預金取扱機関(要は銀行)の貸借対照表(バランスシート)上、負債(貸方)側のマネーストック(通貨供給量)の増減量は、マネーに対する需要(資金需要)ではなく、資産(借方)側の貸出金(投融資)の増減(新規貸出または回収)と同額で増減するのである。その意味では、金利とは、資金需給の均衡「価格」ではなく、借手から貸手に対するリスクに応じた「資本」移転と解すべきである。

旧来のマクロ経済学のパラダイムの枠内では、②貨幣(資本・債券)市場において、貨幣の需要量(流動性選好)と貨幣の供給量の均衡点において、均衡「価格」としての利子率が決定されるものと解釈されてきた。

しかし、SNAの勘定体系上、日本銀行と他の預金取扱機関(要は銀行)の連結貸借対照表(バランスシート)において、『銀行の金融資産(投融資)の増減額≡銀行の負債(マネーストック)の増減額』は常に成立する恒等式(identity)であるから、均衡「価格」としての利子率とは、一切無関係である。従って、IS-LMモデルにおけるLM曲線自体、現実にはその存在すらあり得ないものである。

マクロ経済学におけるパラダイム・シフト

このようなパラダイム・シフトを経て見えてくるマクロ経済学の新たな地平は、SNAの勘定連絡図における恒等式の束として示される。加えて、内閣府から公表されている1994年から2018年に至る25年間のSNAのデータを複式簿記化した。

本稿では、SNAの勘定連絡図における恒等式の束に基づき、以下のような重要な命題が数学的かつ論理的に導かれる。

①マネーストック増殖ΔMのメカニズム(恒等式)
銀行の資産(投融資)の増減額≡銀行の負債(マネーストック)の増減額ΔM

② 「貨幣は重要である(Money matters.)の経路
実物的(リアル)なマクロ経済変数に貨幣(マネーストック)が影響を及ぼす経路は、以下の通りである。
銀行借入によるマネーストック増加ΔM→投資支出ΔIまたは消費支出ΔC→総需要、GDP、国民所得増加ΔY。他方、金利は、資本または所得の移転に過ぎず、総需要、GDP、国民所得Yには影響を与えない。

③ 金利とは、総需要、GDP、国民所得Yに影響を与える損益取引ではなく、資本または所得の移転としての資本取引である。具体的には、SNA上、所得支出勘定(第1次所得の配分勘定)における「財産所得」として記録される。

④一般物価は、総需要と総供給の均衡点で決まる。従って、金利は総需要、GDP、国民所得Y、更には総供給にも影響を与えない以上、金融(金利)政策によって一般物価をコントロールすることは不可能である。ましてや雇用に影響を与えることもできない。

⑤資産価格(地価・株価等)の理論値は、将来キャッシュ・インフローと金利(割引率)で決まる。従って、金融(金利)政策の重要な機能は、資産価格(地価・株価等)に影響を及ぼす点にある。

⑥資産(土地・生産資産、株式等)の売買取引では、資産(土地・生産資産、株式等)の所有権が売手から買手に移転するのみである。従って、売手に譲渡損益が発生する場合でも、SNA(国内総生産勘定及び所得支出勘定)上は総需要、GDP、国民所得Yには影響を与えず、調整勘定で資産の再評価差額として記録・表示されるのみである。

⑦銀行借入による投資の貯蓄創造プロセス
銀行借入→マネーストック増加ΔM→投資支出ΔI→総需要、GDP、国民所得ΔY→貯蓄ΔS(消費Cは不変)というプロセスを経て、マネーストック増加ΔMが実物的(リアル)な貯蓄ΔSの増加、すなわち資本蓄積(ΔK)を生み出す。他方、貯蓄ΔSを増やそうとして仮に消費ΔCを削減したとしても、恒等式Y−ΔC≡C−ΔC+I、そしてY−ΔC≡C−ΔC+Sが成立し、貯蓄Sは不変である。

⑧経常収支≡貯蓄投資差額(純貸付(+)/純借入(-))-資本移転等収支である。日本の場合、長期間継続した経常黒字は、円建の国内投資の不足を意味すると同時に、外貨建の対外純資産の蓄積、すなわち巨額の資本流出を招いた。1994年から2018年にかけての四半世紀の間、円建のGDP、国民所得Yがほとんど伸びなかった最大の原因は、資産価格(地価・株価等)バブルの崩壊と相まって、円建の資本蓄積ΔKがほとんどなされなかった点にある。

以下、本稿では、SNAの勘定連絡図における恒等式の束という新しいパラダイムに基づき、マクロ経済学を再構築していく。


[1] 1990年代中盤以降、新古典派的な価格の完全伸縮性を前提とするRBCモデルでは、現実の経済の動きを十分には説明できないとの批判に対応し、RBCモデルに不完全競争等の市場の不完全性を加味することより、短期的な価格の硬直性を考慮するニューケインジアン的な概念を取り入れた動学的確率的一般均衡(DSGE: Dynamic Stochastic General Equilibrium)モデルが登場した。近年、各国政府機関、中央銀行並びに国際機関等の経済政策の現場では、ミクロ的基礎付けに基づくDSGE型のマクロ計量モデルの開発が急速に進展している。

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