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映画『Barbie』が見せてくれる「弱い夢」

文責: HAL

すでにpodcastの方で話をしているため蛇足にもなるかもしれないが、話し忘れていたような気がすることをメモ程度に書いておく。

マテル社公式サイトは、 バービー人形のキャッチコピーとして「You Can Be Anything(「あなたは何にだってなれる」)」を掲げている。このコピーが示すように、バービー人形は1960年代からずっと、少女たちの将来の幅広さ、多様さを提示する、モデルロールであった。少年たちは野球選手や医者といった多岐にわたる職業を夢見ることが許された一方で、少女たちにはごっこ遊びの段階から赤ちゃん型の人形を渡され、「母親」になるというレールが暗に敷かれていた時代、あなたたちは物理学者にも宇宙飛行士にも大統領にだってなれるのだ、ということを示したのがバービーなのだ(※1)。

つまりバービー人形は、時代の不自然な部分──「男の子は将来に夢見るのに、なぜ女の子は将来を夢見てはいけないの?」に対して真っ向から「それは違う」と声を上げ、これまで「母親になるための訓練」として行われていた人形遊びを、「自分自身の可能性への空想の時間」に変えたのである。

映画『Barbie』もまた多様な女性たちを描いていた。様々な職に就き、生き生きと生活する彼女たちは、未だ家父長制が跋扈する現代社会が目指す女性の理想であったといえよう。しかしそのようなキラキラしたピンク色の理想の中でも私の目を引いたのが、廃盤になったバービー人形たちの存在、とりわけ(バービーではないがその仲間として登場する)ミッジの存在である。

ミッジは、現在遊ばれているバービー人形が掬い取りきれなかった女の子の夢「お母さんになりたい」だったのだと思う。

1960年代にアメリカで発売され、廃盤になったミッジに関して日本語で調べることができる情報は少ない。彼女はどうやら10代で妊娠した女性の姿を模った人形だったようである。映画では彼女が廃盤になった理由は「やりすぎであった」ためであると紹介されていた。想像ではあるが、バービー人形を買い与える母親の感情としてミッジの持つストーリーはどうなのだ、と物議を醸したのであろう。あと単純に、お腹に入っている赤ちゃんの人形がちょっと不気味で、人形としての人気は出なさそうだなという印象は受ける。
パンフレットによると本作では、ミッジがカメラに映ると、カメラはミッジを避ける、というお決まりのジョークがあったようだ。その演出の意図するところもまた想像の範疇を越えないが、何らかの欠陥によって廃盤になった人形を「完璧なバービーランド」の画面に映すことから生じる気まずさから、その存在をないものとして扱おうとするものだったのだろう。

個人的な話であるが、私は昔から、世の中の女性がどのタイミングで「お母さんになりたくなる」のか常に不思議であった(もちろん、母親となった全員がそう願ってそうなったわけではないということは理解している)。
私自身、小さい頃は確かに「お母さん」に憧れていた時期があった。それはメルちゃん人形のような赤ちゃん型の人形を抱いた時だったかもしれないし、リカちゃん人形で遊んでいた時だったかもしれない。しかし、中学、高校、大学を経て就職し、言うなれば「(そう華やかなものではないけれど)バービーが示したモデルロール」に乗っかっていく中で、いつしか無意識のうちに「お母さんになりたい」という夢が消えていた。私はこの時代、世の中に出てバリバリ働くことが正しくて、一方で「お母さん」になることはなんか違うこととして捉えるようになっていたようだ。「お母さん」になりたいと思っていたことは、現代社会で求められる強く自立した女として生きていく時に邪魔であるかのように感じられていた(もしくは刷り込まれていた)ようである。

こうやって「お母さんになりたい」という夢を忘れ、そう思っていたことを隠そうとしていくのは、ミッジを映すことから逃げようとするカメラのようでもある。現実世界で彼女が様々な理由で廃盤になったことを考えると、バービーシリーズによって示される「何にでもなれる」の中から「お母さん」という選択肢は失われたのかもしれない。そしてこの「お母さんになりたい」という少女の夢は、今、バービー人形が多様な職業に進出し、さらには現代の社会ですべての人々の平等による幸福が叫ばれる中で埋もれて、都合の悪いものととして扱われそうになっているのではないだろうか。

これに対して映画終盤、グロリアは「新しいバービーの案」をマテル社の重役に語る。彼女が語るバービー人形は「普通でもいい」「母親になりたいと思ってもいい」とはっきりと言葉にするものであった。これは、1959年から連綿と続くバービー人形自身のあり方「You Can Be Anything」に対して今度は一石を投じるものだったのではないか。「お母さん」という存在はもはや、「多様な職業に就けない時代の女の子の将来」ではない。女の子が憧れ、選択する将来の一つなのだ。昔の私がそうであったように、物理学者や大統領になりたい女の子の陰に隠れて「お母さん」になりたい女の子たちだって確かにいるのだ。そのような少女の存在は、女性が社会進出することこそが人々が平等な社会を作る道の一つであるという方向に考え方が傾きがちになってしまっていた今の私にとってはつい忘れてしまう存在であった。

「私は将来お母さんにならなければならないのかな」に対して疑問を呈し、「強い」夢を抱けることを示したのがマテル社のバービー人形であったなら、「私は将来お母さんになりたいけれど、それは夢としてダメなのかな?」に対して「それは違う」と声を上げるのが、『Barbie』であった。『Barbie』には、「強い夢」ばかりが称揚され、現代社会においていつしか手放しに歓迎されなくなっていた女の子の「弱い」夢さえも掬い取り、肯定するという側面もあったのかもしれない。

ということで、本作は現代社会の理想から漏れてしまう所謂「弱い女性、弱い男性」まで肯定しようとする作品だったのかもしれないな、と思っている。ただ、男性側のことについて現状あんまり考えていないのでとりあえず女性側のことだけメモしておこうと思う。

※1 もちろん、バービー人形は職業のみならず、その外見や内面が多様なものとなっていることも忘れてはならない。今回の感想では触れないため軽くまとめておくと、2010年代以降に販売されているバービーたちは、肌の色、髪の色、体型、障がいといった、現代の少女たちを取り巻くありとあらゆる状況を余すことなく反映しようとしてデザインされている。金髪で白人、ステレオタイプで「特徴のない」なアメリカ女性モデルだけが生産される時代はとうの昔に終了し、「近年では、もはやどんな子どもも自分に似た人形を見つけられる」(ジュリー・レネット、NPDグループ玩具部長副社長)状況にまで変化している。

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