フィネアス・ゲージの事例2
事故後20年目に,ドクター・ハーロウがこの事故に関する報告をまとめた。詳細にわたる事実と,控えめな解釈が記されているものである。
ゲージは,触れること,聴くこと,見ることができ,手足や舌のしびれもなかった。左視力は失われていたが,右は完全だった。しっかりと歩き,両手を器用に使い,会話や言葉にもこれといった問題は見られなかった。
しかし,深刻な問題を抱えていた。変化は,脳損傷の急性的段階が過ぎるとすぐに明白になった。彼の知的能力と動物的傾向とのバランスが壊れてしまったのだ。ゲージは「気まぐれで,無礼で,以前はそんな習慣はなかったのに,ときおりひどくばち当たりな行為にふけり,同僚たちにほとんど敬意を払わず,自分の願望に反する束縛や忠告にいら立ち,ときおりどうしようもないほど頑固になったかと思うと,移り気で,優柔不断で,将来の行動をあれこれ考えはするが,段取りを取るとすぐにやめてしまう・・・・・ゲージの知的な能力と表現の中には子どもがいて,同時に彼には強い男の動物的感情がある。」
下品な言葉があまりにひどかったため,それを聞いて嫌な思いをすることがないように,女性たちはゲージのいるところに長くとどまらないよう忠告を受けていた。ハーロウは力を尽したが,ゲージを元に戻すことはできなかった。
かつてゲージは,バランスの取れた心を持ち,彼を知る者からは,計画した行動を非常に精力的に,しかも粘り強くこなす,敏腕で頭の切れる仕事人として尊敬されていた。しかし,事故後の彼は,知人や友人をして「ゲージはもはやゲージではない。」と言わしめるほど,著しい人格の変容をきたしていた。ゲージは,仕事に復帰しても,以前のように計画性をもって仕事をするなどして活躍できないばかりか,目先の欲望や感情に流れ,周囲との葛藤や軋轢をしばしば生じて,職場を去ることとなった。身体能力や仕事の技量は失われていなかったようだが,彼の新しい人格によって,そうした彼の能力が活かされることはなくなったのである。
鉄道工事の現場から去ったゲージは,養馬場での仕事に就いたが,長続きしなかった。その後も,自らの気まぐれで辞めたり,素行不良で解雇されたりして仕事を転々とした。サーカスには,見世物として入った。重大事故から奇跡的に復帰したことが報道されたこともあって,彼の頭の傷跡や,工事の時の鉄棒は,物珍しさから見物に来る人がおり,一時はニューヨークのバーナムズ・ミュージアムの呼び物になったが,これも長くは続かなかった。
なお,ハーロウの記したものによれば,ゲージは日ごろから,彼の頭部を突き抜けたあの鉄棒を持ち歩いていた。また,ゲージは事故後,常軌を逸するほど物や動物に強く執着するようになっていた。アントニオ・ダマシオは,これについて,自閉症に多くみられる「収集家の行動」は,ゲージのように脳に傷を負った患者においても見られる旨記載している。
事故から4年ほどたった頃に,もう一度,客寄せパンダのようにして注目を集めた後は,南米に移り,チリで養馬場や乗合馬車の御者をしたことと,1859年に健康状態を悪化させたこと以外は,どこでどうしていたか,ほとんど情報がない。
ゲージの母と妹は,彼の事故やその後の彼の不埒な行動に振り回されたことなどもあり,サンフランシスコに移り住んでいた。かろうじて家族との連絡は保たれていたようで,ゲージは1860年にアメリカに戻り,母と妹の住んでいる家で暮らすようになった。そこから農場や港湾に働きに出ていたこともあるようだが,堅実な生活が続くことはなく,酔っぱらっていかがわしい場所をうろつく日々が続いていたものと思われる。
残されている資料のよれば,ゲージはこの頃にはてんかんを起こすようになっていた。ある病気にかかったとき,一度ひどい痙攣を起こし,意識を失った。その後,間髪を入れず,何度も痙攣が繰り返された。痙攣が見られなくなったときには,意識も呼吸もなくなっており,そのまま息を引き取った。1861年5月21日。ゲージ38歳の時であった。死因は,てんかん重積状態だったと推測されている。
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