見出し画像

フィネアス・ゲージの事例3

 ゲージの治療に当たっていたハーロウがゲージの死について知ったのは,ゲージの死後5年ほど経過した後だった。その頃は,脳の特定の部位が持つ機能についての研究が進められつつあった時代でもあり,ハーロウも,自分が関わった特異な患者についての研究結果を残したいと考え,ゲージの妹と連絡を取って,事件の記録としてゲージの頭蓋を取っておきたいので,墓を掘り起こしたいという突飛とも思える依頼をした。

 ゲージの頭蓋と,脇に添えられていた例の鉄棒は,ゲージの妹及びその夫であるD・D・シャタック,そしてクーン医師(当時のサンフランシスコ市長)の立会いの下,葬儀屋によって掘り出された。ハーロウはアメリカ東部のバーモント州に住んでいたので,その現場には立ち会っておらず,掘り出されたものが送り届けられて,ゲージとの再会を果たした。その後,ゲージの頭蓋と鉄棒は,ハーバード大学医学部ウォーレン・メディカル・ミュージアムに展示されている。ハーロウの研究の内容は詳らかでないが,その約120年後に,「生存する脳」の著者であるアントニオ・R・ダマシオと共に,ハナ・ダマシオが詳細な研究を行っている。ハーロウの尽力がここで生きてくることになる。

 ハナ・ダマシオは,鉄棒がゲージの脳のどの部位を破壊したかを精密に特定することから始めた。当時,まだ開発後間もないCTスキャナーを用いて頭部をスキャンし,データを統合すれば,三次元的に正確な頭蓋の画像をコンピュータ上に再現しできるようにはなっていた。しかし,ゲージの頭蓋を直接スキャンすることはできなかったので,彼女はハーバード大学医学部のアルバート・ギャラバーダの協力を求めた。ギャラバーダは,ウォーレン・メディカル・ミュージアムに出向いて,ゲージの頭蓋をさまざまな角度から撮影し,頭蓋の損傷領域と頭蓋の標準的な構造上の目印を付け,精度の高いデータを得た。この写真データをもとに,ハナは同僚の神経学者トマス・グラボウスキの協力を得て,コンピュータで三次元座標上にゲージの頭蓋を再構築し,その頭蓋に収まる脳の座標を割り出した。さらに,ゲージの鉄棒も,データをもとにしてコンピュータで再構築し,ゲージの脳に「突き刺し」たのである。これをもとにしたイラストが,「生存する脳」の表紙や裏表紙等に描かれている。

 ヒトの顔の目鼻の位置関係は人種や年齢を問わずほぼ同じであるが,精密に測定すれば,一人一人微妙に異なっている。脳も同じで,損傷部位の微妙な位置関係の違いによって,機能の損なわれ方が異なるため,ゲージの脳のどこがどれくらい損傷を受けたか正確に知ることは困難である。大まかなところで言えば,ゲージの脳の損傷は右半球よりも左半球がひどく,前頭領域全体としては後方よりも前方がひどい。事故のダメージで両半球の腹側と内側の前頭前皮質は傷んでいるが,前頭前皮質の外側部には及んでいない。ゲージが損傷した脳の部位と機能について見ると,前頭葉の外側面の皮質がダメージを受けると,注意力を調節したり,計算を行ったり,刺激から刺激へ適切に移行する機能が低下するが,そこは無傷だった。最もダメージの大きかった部位は,前頭前・腹内側領域であった。ここが損なわれると,将来の計画を立てること,それまでに学習したルールにしたがって行動すること,自分の生存にとって最も有利な行動を選択することが難しくなることが,現在の神経心理学的な知見から明らかになっている。前頭前・腹内側領域の機能を失ったことによって,ゲージは,これまでに記載したような社会生活に支障をきたすような行為を反復したと考えられる。

 最新のMRI等を活用すれば,生きたヒトの脳の損傷部位とそれによって失われた機能とを,より精密に知ることができる。ゲージと同じような事故事例は100年に一回もないが,脳血管障害等でその部位の機能を損なった患者を見つけることはできそうである。こうした患者であれば,現在,臨床心理の現場で活用されているWAIS等の心理検査を実施することも可能である。ダマシオはそのような事例を「生存する脳」の中で詳細に紹介している。「仮称」エリオットの事例である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?