症例 現代のゲージ1
「仮称」エリオットは,アントニオ・ダマシオの患者である。当時の年齢は30歳台であり,ダマシオによれば,「愛想の良い,好奇心をそそる,非常に魅力的な,しかし感情的には控えめな人物に見えた。優れた知恵と,世の愚行に対するかすかな優越感をにおわす皮肉な笑みを浮かべていたが,相手に敬意を払うようなそつのない落ち着きをのぞかせていた。クールで超然としており,照れくさい個人的な話にも一切動揺することはなかった。」といった印象であったようである。また,「言動は首尾一貫していて頭の回転が速かっただけでなく,彼はまわりの世界で起きていることをはっきりと認識していた。ニュースの年月日,人名,詳細を熟知していた。また彼は,しばしば的を射たユーモアを交えながら政治問題を論じたし,世の中の経済情勢も良く把握しているように見えた。かつて彼がたずさわっていたビジネスの世界の知識は依然として強く残っていたし,聞くところでは,彼の力量は少しも変わっていないということだった。」と,エリオットの能力が現在でも高い水準にあることを認めている。さらに,「良き夫,良き父であり,商社で働くエリオットは,ずっと後輩や同僚の鑑だった。すでにエリオットは,個人的にも,職業的にも,社会的にも,人がうらやむような地位にあった。」と付け加えている。しかし脳の手術の後は,ゲージと同様,「エリオットはもはやエリオットではない。」と言われるように,社会生活に支障をきたす問題を抱えるようになっていた。
人格変化の契機となったのは脳の疾病である。エリオットは,激しい頭痛に襲われ,やがて物事に集中することができなくなった。状態が悪化するにつれて責任感を喪失し,代行する同僚に負担がかかるようになった。ドクターは脳腫瘍を疑い,急速に成長しつつある髄膜腫が見つかった。それがエリオットの前頭葉を圧迫し,放置すれば致命的になるおそれがあったことから,腫瘍の摘出手術を行った。その際,腫瘍によってダメージを受けた前頭葉の一部も同時に除去しなければならなかった。手術は成功し,更なるダメージを回避することはできた。前頭葉の一部を除去しても,動き回ったり,言葉を使ったりする能力や,知性には何ら問題はなかった。しかし,術後の回復期に変化が見られるようになってきた。
家族は変化にすぐに気付いた。エリオットは,朝起きても,ぐずぐずしていて仕事に出る準備をしようとせず,家族から一つ一つ指示されて取り掛かる状態だった。仕事に行ってからも,時間管理ができず,ほかの人との約束も守れなくて,次第に信用を失っていった。状況を見て臨機応変に対応すべきときも,周りのことには目を向けようとせず,自分のやっていることを続けた。逆に,やっていることを突然中断して,その時気になったことに取り組んだ。また,クライアントから受け取った書類を読んでそれらを分類する作業を始めると,書類の内容を理解し,内容別に分類する方法も分かっているにもかかわらず,気まぐれに作業を放り出し,別の書類を読むことに没頭して,分類作業が進まなかった。分類する際に,日付を重視するか,書類の大きさか,問題の内容かといったことを考え始めて,いつまでも結論を出せないことも,作業が進まない要因の一つであった。彼のこだわった作業の内容は高度な専門性を要するものだったかもしれないが,それはクライアントに求められているものではなく,逆に本来優先して行うべきことがないがしろにされていたので,同僚か誰かのやり直しが必要だった。こうした仕事ぶりのために,残念ながら,エリオットは職場にとどまることができなかった。
商社で活躍していたエリオットだが,術後の変化のため,退職を余儀なくされた。その後は,ベンチャービジネスに関心を示し,家屋建設やら投資マネージメントやらに取り組んだが,失敗の連続だった。友人から再三警告されてもそれが奏功せず,時には評判の悪い人物と手を組んで損失を広げた。そしてすべての資産を失い,破産した。
妻子も友人らも,そうした彼の行動を理解できなかった。妻とは離婚し,新たに交際を始めた女性と再婚したが,周囲がこぞって反対するような相手であり,ほどなく離婚した。
エリオットは,髄膜腫の切除手術後に障害者給付を受けていたが,術後の経過自体は良好で,当時の医師らには,彼の変化が手術によるものであるとする定説もなかったことから,手術とその後の彼の行動との因果関係がないと結論付けたようで,給付金の支払いが打ち切りとなった。ただし,医師らも,彼が生活能力を失ったことと手術との関係があるかもしれないとの疑いを持っていたようで,専門医であるダマシオに意見を求めた。ダマシオは,手術によって前頭前野腹内側領域を失うと,判断力や意思決定能力が損なわれることを,フィネアス・ゲージの事例等を根拠として当局に説明し,エリオットの給付金の支払いが再開された。
ダマシオによれば,エリオットの変化は,もっぱら脳へのダメージによるものであり,病前性格に起因するものではなく,まして意図的にコントロールされているものではないとのことである。
社会から脱落し,自分や家族の生活の維持や向上につながるような形で推論を働かせ,決断することができず,もはや独立した一人の人間として成功する能力もエリオットにはなかった。フィネアス・ゲージと同じだ。ただし,ゲージと全く同じではない。彼はゲージほど感情が激しくなかったし,決して冒涜的な言葉を使うこともなかった。その違いが,脳の損傷個所のわずかの違いに起因するのか,それとも社会文化的背景,病前性格,あるいは年齢といったものに起因するのかについてダマシオは,「私はまだその答えを持っていない。」と述べている。
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