見出し画像

症例 現代のゲージ7

 推論や意思決定に影響を与えると考えられる脳領域の一つに扁桃体がある。好き嫌い等の情動に大きくかかわっている領域である。両半球の扁桃体だけを損傷している患者はきわめてまれだが,ダマシオの同僚のところにそうした一人の女性患者がいた。個人的にも社会的にも不適切なパターンを持ち続けていた。

 彼女は,情動の範囲と適切さが損なわれており,自分が置かれている困難な状況にもほとんど関心を示していない点ではゲージや病徴不覚症の患者とよく似ていた。もちろん,彼女も教育の程度や知能に問題はなかった。扁桃体に障害を持つ彼女の特徴を捉えるため,ラルフ・アドルフスは独創的な実験を行い,情動の微妙な側面を識別する能力が著しく損なわれていることを示した。動物実験において,サルの両側の扁桃体を切除すると,「両側の扁桃体が破壊されたサルは、対象物の生物学的意味認知が障害され、食べられないものでも手当たり次第に口に運んだり(精神盲、口唇傾向)、同性に対しても交尾行為を仕掛けたり(性行動の亢進)、以前恐れていたヘビやヒトに平気で近づく(情動反応の低下)ようになる。 」といったことも知られている。てんかんの病巣を切除する際に同時に扁桃体を切除された患者が同様の行動変容を示すことが知られており,これをクリューバー・ビューシー症候群という。これも,扁桃体が恐怖を始めとする情動に深くかかわっていることを示している。

 推論・意思決定と情動・感情の神経学的状態に関するこれまでに記載したことを整理すると,次のようになる。

 第一に,人間の脳には前頭前・腹内側皮質という,そこを損傷すると推論・意思決定と情動・感情の双方の機能を,それも個人的,社会的な場面において弱めてしまう領域がある。比喩的には,理性と情動は前頭前・腹内側皮質で交差し,それらは扁桃体においても交差していると言える。

 第二に,体性感覚野という脳の領域を損傷すると,やはり,推論・意思決定と情動・感情の機能を低下させ,さらに基本的な身体信号のプロセスも阻害してしまう。

 第三に,腹内側部以外の前頭前皮質には,そこを損傷すると,やはり推論と意思決定の機能を低下させる領域がある。その際,パターンが二つある。一つ目は,障害がきわめて大規模で,個人的,社会的場面のみならず,広範な知的機能も低下させるパターン,二つ目は,障害がより選択的で,個人的・社会的場面の問題よりも言語,数,物,空間に関する作用をより低下させるパターンである。

 要約すると,人間の脳には「推論」という目的志向の思考プロセスと,「意思決定」という反応選択の双方に向けられた,個人的,社会的領域が強調されたシステムの集まりがある。この同じシステムの集まりが,情動や感情にも関わっており,部分的には身体信号の処理にも向けられている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?