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症例 現代のゲージ5

 情動も感情も消えたとき,人間の決断・行動はどうなるのか・・・これが「生存する脳」第四章のサブタイトルである。エリオット以外の脳に障害のある患者について,意思決定と感情との関係を見ていく。

 まずは,エリオットと同様の,前頭前野に傷を持つ12人の患者については,どの患者にも「意思決定障害と平坦な情動と感情」という組み合わせがあることが確認された。基本的な注意,記憶,知性,言語などの障害は見られなかった。

 この後は,前頭前野以外の損傷によって,エリオットと同じようなことが起きることがあるかどうか,歴史的事例と言われる事例を取り上げて検討する。

>>>患者A-脳腫瘍による前頭前皮質切除

 コロンビア大学のブリックナーによって1932年に研究された事例である。39歳,ニューヨークの株仲買人で,個人的にも仕事の上でもうまくやっていたが,脳腫瘍のため,前頭葉の多くの部分を摘出した後に変化が見られた。手術はうまくいった。患者Aの知覚は正常だった。人,場所,時間に関する定位力も正常。記憶は,長期,短期とも異常はなかった。言語と運動にも支障はなかった。計算や,チェスに似たゲームも普通にできた。

 しかし,仕事には復帰できなかった。復職の計画も練ったが,簡単なことさえ実行に移さなかった。ゲージやエリオットと同じだ。人格も変わっていた。かつての上品さはなく,礼儀正しさや思いやりも失われた。妻や周囲の人に対しても思いやりに欠けた発言が目立ち,すでに仕事もスポーツもセックスもしていなかったにもかかわらず,そうしたことについての自慢話を繰り返した。暴力こそ振るわなかったが,欲求不満になると口汚くののしることもあった。

 情動面は総じて衰えているようだった。怒りを爆発させることはあっても,まれであった。悲惨なことがあっても,当惑したり,悲しんだり,怒ったりした様子はない。感情は概して「浅い」という印象である。

 主体性は乏しく,受動的,依存的であった。家族に支えられて,印刷機の操作を覚え,名刺を作るのが彼の唯一の仕事だった。

 ゲージやエリオットとは,それぞれ若干の差異があるが,中核となる問題は共通であると考えられる。

>>>ヘッブとペンフィールドの患者-事故による頭蓋骨骨折

 1940年代の事例である。患者は,16歳の時に重大事故に遭った。成長期の損傷であることがこの事例の特徴である。

 この患者は,両半球の前頭皮質を圧迫,損傷していた。かつては普通の少年であり,事故直前においても社会生活上の問題はなかったが,脳損傷の後は社会的発達が止まり,素行に問題が見られるようになった。

>>>アカリーとベントンの患者-出産時の脳損傷

 1948年に記録された事例である。患者は,出産時に前頭葉に損傷を受け,人格形成に必要と思われる脳の組織が十分にできてないところをベースとして発達過程に入っている。彼の行動は常に異常だった。どんな仕事に就いても長続きしなかった。従順にやっているように見えても,ほどなく自分のやっていることへの興味を失い,ついには盗みをしたり感情まかせに粗暴な言動に及んだりした。一方で飲食店のボーイのような礼儀正しさを持ち合わせていながら,他方では型にはまったことから少しでもそれるとすぐにいら立ちを見せ,時には感情を爆発させることもあった。性的な関心は薄く,いかなる相手とも情緒的なかかわりを持つことはなかった。

 行動は紋切り型で想像力や創造力に乏しく,職業的技術や趣味を身に付けることもなかった。また,報酬や罰が行動に影響を及ぼすことはなかった。勉強すれば成果が得られそうなことができない一方で,自動車の種類等についての知識等,あまり重要と思われないことができる面がある。彼は,楽しいことも悲しいこともないかのようであったし,喜びや苦しみなどはその時限りであった。

>>>エガス・モニスの前頭前白質切断(ロボトミー)

 ロボトミーは,統合失調症や鬱病の興奮や不安を抑えることを目的として,1936年にポルトガルの神経学者であるエガス・モニスが始めた外科的手術である。彼の考えていたことは,精神病等の興奮や不安は,前頭葉から別の部位へ投射している経路が,異常に反復的になる回路を形成してしまっていることが原因であるから,その回路を外科的に切断すれば興奮等が治まり,しかもその回路のみの切断であれば,知的機能に障害は起こらず,患者の苦しみが癒され,通常の生活に復帰できるはずであるということである。

 手術を実施した結果,患者の不安と興奮は消え,言語や通常の記憶などの機能はほとんど影響を受けなかった。彼の思惑どおりだったかに見えたこの手術だが,想定外の問題が顕在化してきた。患者の居ても立ってもいられないような不安や興奮,迫りくる衝動や妄想を生み出していた異常な脳の働きはすっかり姿を消したが,自らの意思で動こうとする自発性や意欲までもが同時に失われていたのだ。

 前頭葉の眼窩領域と内側に近いところを走る白質へのダメージは,知覚,記憶,言語,運動等の基本的な機能には影響を与えないものの,情動と感情とを劇的に変化させ,創造性や決断力を失わせることが明らかとなった。

 ここまでの歴史的事例から暫定的な結論を整理する。

①損傷部に腹側部が含まれるなら,両半球の前頭前皮質の損傷は,常に推論・意思決定及び情動・感情の障害と関連している。

②推論・意思決定及び情動・感情の障害が,ほとんど影響を受けないその他の神経心理学的特徴と比較して顕著であるなら,損傷は腹内側部でもっとも大きい。さらに,この障害により個人的・社会的領域がもっとも影響を受ける。

③前頭前野に損傷がある場合,背側部と外側部の損傷の程度が,腹内側部以上ではないにしてもそれと同程度であるときは,推論・意思決定の障害はもはや個人的・社会的領域にとどまらない。またそうした障害は,情動・感情の障害同様,物や言葉や数を使った検査によって認められる注意や作動記憶の欠陥を伴う。

 ゲージやエリオットと同じような行動面・意思決定面での問題を持つ患者の中に,脳の別の領域に損傷がある事例があるかどうかを検討する必要がある。結論から言えば,それはある。その事例についての検討が次の課題である。

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