緑の湖

せめて指先くらい震えていたら、きみの5分は私のものになったかもしれないのに。十月のひまわりみたいに泣き崩れちゃって、黒茶色の○が二つ濡れちゃって、逢うたびに「好きじゃない」が芽吹いてく。本の帯を捲ればそこにはまだ褪せる前の色がいて、カバーを外せば初対面の少女が眠っていて、悔しくなって指で寝顔を弾いた。硬かった。起きなかった。嫌われるのこわい。鼻息で昇る煙が歪んでなぜかきみの顔まで歪んで見えたとき、そのときようやく雨を赦せた気がした。緑のワンピースに緑の長靴で、これでもかってくらい完璧な緑の少女になった夜、知らないアパートの204号室のベルを鳴らす。顔に酷い火傷痕を負った性別不明の18歳。すかさず私は腕に巻いていた包帯を18歳に差し出した。18歳は何も言わずに受け取った。やっぱり嫌われたくないんだよ。靴を揃えるとき、18歳に背を向けた数秒間、あの瞬間に走った体液の巡りがあまり心地よくて、この心地のまま、さっき渡した包帯で絞め殺してくれたらどんなに幸せだろうと考えた。立ち上がる。振り向く。18歳はたぶん笑ってた。火傷のせいで表情がわかりにくかったけど、たぶんやさしく笑ってた。「殺して」私の願望はあっけなく喉を過ぎ口から零れた。18歳から水が滴る。「殺して」もう一度、今度は音に輪郭をつけて言った。「……ちの……ふ」18歳からは水がとめどなく出続けている。下を見ると私たちの足元には小さな水溜りができていた。せっかくあげた包帯がぐしゃぐしゃに濡れだらしなく顔から垂れている。それでも彼女は笑っているような気がして。彼女に絶対嫌われたくないと思った。「こ…っ……せ……」水を溢れさせながら18歳はぼそぼそと唇を動かしている。気づくと床一面が湖になっていた。緑色の湖。苔とか植物とかの緑ではない、18歳と私から滲み出たふたりの緑色。「こっちのセリフ」18歳が言う。一瞬、何のことか分からなかったが、すぐに私の言った「殺して」の返答だとわかった。私は18歳に嫌われたくないと思っている。だから、「こっちのセリフ」を私が叶えれば好きになってくれると思った。「わかった」私は緑のワンピースを脱いで18歳の首に巻き付けた。ドアノブに18歳を繋げて私は204号室を出た。鍵穴に金属音をいっぱいに充満させ、回した。ガチャ。ドアの向こうからドスッと鈍い音がした。嫌いにならないでね。ちゃんと好きになってね。指先に目をやるとそれは小刻みに震えていた。あのとき、きみが見ている前で震えていたらどんなによかったか。アパートの錆びた階段を降りていく。緑のワンピースがなくなった下着姿の私は今なら嫌われてもいい、どうかこんな私嫌ってほしいと願った。誰も照らせない街灯がチカチカ点滅している。蛾が舞っている。家に帰ってはやく本を開きたい。表紙の奥で眠っている少女を緑色に塗りつぶしたい。そして灰にしたい。なりたい。ポケットのライターを強く握った。指先はもう何もなかったみたいにじっとしていた。私はこんなに震えているのに。きらい。色褪せたい。5分前に戻りたい。

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