滑らないで、色

つめたい道だった。うすい紫色の道。ひとがひとり通れるだけの――ひととひとがすれ違うことはとてもできそうにないくらい頼りない――道があった。私はスケート靴を履いていた。つー、つー、とおぼつかない足どりでその上を滑っていた。いくら進んでも、進んでも、目の前はいつまでもうすい紫色だった。心細くてたまらなかった。泣いてしまいたかった。でも、私以外に誰もいない。私は、泣きたいから泣くというよりも、泣いたときに誰かがやさしくしてくれること、私にとっての泣く意味はそれだけだった。だから、ひとりっきりの今、この空間で泣くのはとてもばからしいと思って、泣くことをあきらめた。代わりに、心の中でちいさく鼻をすすった。音は、私のなかをいつまでも揺らした。

風鈴の音が鼓膜をやさしくノックする。汗で前髪をぺったんこにした私はのっそりと、「よいしょ」とひと言、おばあさんのように呟きながら起き上がった。金魚鉢になみなみ注いだソーダ水をみる。生き物がいない代わりに炭酸の小さな泡がいくつも上へ上へ、のぼっては弾け、のぼっては弾けていた。生きたり死んだりが、たった数秒の間に、数えきれないほど繰り返されている。私はそれをみていた。色の抜けた紫陽花と、その紫陽花の色をした水がペットボトルいっぱいに入っている。花は咲くまでは大切に育てられるのに、咲いて、すこしの間みられて、そして枯れるとすぐき捨てられてしまう。かわいそうな生き物だと思う。だから、ほんとうにすこしだけど延命治療をしようと思った。花びらの先がちょっとだけ茶色くなっていた紫陽花をひとつまるごと切り落とした。花びらを一枚一枚ていねいに取って、近くにあったカルピスを一気に飲み干して、そこに詰め込んで、水を蓋のすれすれまで入れた。一週間以上が経って今、そのことを思い出した。うすい紫色のきれいな色水ができていた。太陽に透かしてみようと思った。もっときれいにみえると思った。手が滑った。てのひらをすっと通り抜けたペットボトルはあっけなく地面に落ち、色水は散った。かなしいの隙間がないくらい一瞬のできごとだった。泣きたかった。けどやっぱり泣かなかった。

蝉の羽根を何匹もの蟻が一生懸命に運んでいる。四六時中歩き回っていて足は疲れないのだろうか、水分はちゃんと摂っているのだろうか。心配しながらも私は色水を殺してしまったことで頭がいっぱいになりそうだった。今日は特別あついから、夜にはこの色水もなかったことになっているはず。せめて私以外にも、この色水がほんとうに存在していたことを知っていてほしかった。

そこに一匹の蟻がやって来た。うすい紫のそれをちゅうちゅう吸っている。もう一匹、蟻がやって来た。もう一匹のほうはうすい紫の上をつー、つー、と滑っている。お腹がいっぱいになったほうの蟻は、おしりのあたりがすこしうすい紫色になっていた。おしりをぷちっと潰したら、私がさっき散らした色水みたいになるんだろうか。知らない。知りたくない。そんなことより、かなしくてたまらない。私は泣いた。蟻が目の前にいるから。ひとりっきりじゃないと思ったから、泣いた。

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