本当にあった 私の生きづらさ

かえるです。
今日も読みたいだけ読んでください〜

「生きづらさを感じて」この言葉は私が自分のことを話す場面でよく使う言葉です。
「なぜこの島に移住されたのですか?」などの質問をもらった時、よく使っています。
それは、生きづらさを深く噛み締めて言っていたわけではなく、この言葉が簡単で、私の状況に近いところが伝わりやすい気がして、便利だったからです。
一般的と呼ばれるような生き方とは違った暮らしをしているので、まぁ使っていいだろう…くらいに、安易に使っていました。

それが先日、「私って生きづらい特性を持った人だったんだ…」と実感した瞬間がありました。
それは、自分自身の持っている診断や癖に関係することです。

私はその実感した瞬間まで、自分の持っているこの感覚や癖が、「まあ、誰でもあるような普通のことだよね。」くらいにしか思っていませんでした。
自分の中の普通なので、これが生きづらさとも思っていなくて。変わったこととも思っていなくて。平気で知り合った人に話してきていました。

でも、その時気づかせてくれた友達が言うには、「こんなこと、だいたいの人は言わないし、もしそうだとしても、黙っているものだと思うんだ」とのことで、私はその友達の言葉にとても驚いていました。

その特性というのが、最近話している「自分を責める声が、聞こえてくる」や「その出来事を経験した自分が他人な気がしてしまう」だったり、「他者から聞いた言葉や感じた感情をトレースしてしまう」なんてことです。
これって、幻聴だったり、多重人格だったり、境界線の問題だったりするんだと思います。
今までそこに紐付かなかった自分の思考が面白すぎて、しばらく驚き続けていました。

そういえば私は統合失調症という病名をもらっていました。
その時期によって症状の種類は違ってくるのですが、幻聴・幻覚がある病気です。
診断をもらった時は「そこの醤油取っていた〜」くらいの声だったので、私の幻聴は害のないものと思っていたし、今聞こえる自分を責める声も、実際の音で聞こえてはいないので、幻聴である自覚がありませんでした。

病名はこれだけですが、今自分に起こっていることを俯瞰していくと、どれもが、もしかしたら人にはないものなのかもしれない…と思うようになりました。

私の中に普通に起こっていることが、他の人にはないとしたら…
私が困っているこの特性を持たない生き方があるとしたら…

きっと今の私よりはもっとシンプルな私がいて。
他者との関わりも、もっともっと素直でやりやすくなっているのではないかと。

なんだか今の自分が実はハードモードって思っていていいのかもしれないと。
ハードモードだったとしたら、私ってほんとよくがんばって生きてきているよなって。

なんだかホッとした気持ちになりました。
すごくがんばって生きてきていたんだと思う。

いつも問題ばかりで。自分で乗り越えないといけない課題も山積みで。
行き詰まってしまって、パニックになったり、自分を消したくなったり。
そこまでいくと、もう誰にも理解してはもらえなくて。
そもそも理解してもらおうなんて考えていた自分にもバツをつけて。

ほんとしんどかったんだよね。
しんどいのレベルが人とは比べられないから、私の中ではまだまだな気持ちだった。
それでがんばってこれたけど、今はがんばるのベクトルを少し変えていこうと思えている。

強引にやってきたんだな。
優しく関わってきたつもりだったけど、強引だった。

最近はライフログをつけようと、取り組んでいる。
続かないのも分かっているから、それを続けるための対策も考えつつある。
今のところ結構本気だ。

たしかに、私は生きづらい。
でも、それってみんながそうであるように、オリジナルだから。
まじで血肉にするんや。そして、その先に寄り添える未来を掴みたい。
自分を満たして、そのあふれた愛で、大切な人、欲張れば、必要としてくれる人に届けていきたい。包みたい。
まだまだ、ピヨピヨな過程のお話。

ここまで読んでくださってありがとうございます。
まったね〜

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