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いろいろいろいろ、考えたり話したりする機会があって、

最終的に自分が「さみしいんだ」ということがあるんだ、と思って、
思ってるだけではどうにも足りなくて言葉にしてみた。
そうしていい場があったから。

でもちょっと自分でもびっくりした。

これまで「さみしい」なんて言葉出したことなかった気がするし、
そもそもわたしは「ひとりで仕事もテレビもあって楽しい」と言い続けていたし、それは本当。
自分がさみしいんだなんて、考えたことなかったかもしれない。

「さみしい」というならば、人のさみしさとわたしのさみしさ、それは比べられないから、大きいのか小さいのかはわからない。

いろいろ考えてたら
「さみしい」ということに無自覚に耐えられなくて、
だからお友達とか彼氏とかに求めすぎたり、そのなにかが得られなさそうな気がするならあらかじめ近寄らないように防御しすぎたり。

自分は最終的には相手に合わせられないのに
必要とされたいとか(そうすると相手は自分を捨てようとはしないはず)、無自覚にでもそういう気持ちで人と関わってきてしまったような気もする。
そういうのはたいがい破綻した。
それはずっとやってきた自分のパターン。

でもそういうのって、
お友達とか彼氏とかに求めるのはちがう、と突然気づいた。
お友達や彼氏ができれば、それでいい関係を作れるならそれはそれでいいこと。
だけど、自分の「さみしい」を埋めるものとは別なんだなと。

それだけ。
それだけでその「さみしい」は「さみしい」で、大きくしすぎたり小さくしすぎたりもしない。
それはそこまで。

いつかなにかで埋まるのか埋まらないかはわからないけど、
あると認めて、そっとおいておく。
少なくとも誰かでなんとかしようとしない。
そう自覚しただけでも、これは今の自分にとっていいことなのかもと思った。
いいことって、ゆがませないことかな。
自分と、自分と関わる人との関係性、およびもしかしたら現在と未来を。

そして言葉にすることで、わたし自身のなにか状況は変わらなくても、ひとつ解放されたのかも、とも。

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