不運に潰されず、幸運をつかむ方法

この記事は、ぼくのやらかした大失敗から得た教訓をまとめたものです。


麻雀では、配牌やツモが悪ければ、まず勝てません。
しかし、何千回も麻雀ゲームを繰り返すと、トータルでは、麻雀が強い人が勝ちます。
試行回数が十分に多いと、運よりも、「運以外の何か」によってトータルの勝敗が決まるのです。

しかし、人生は麻雀と違って、以前にやったゲームの結果が、その後のゲームの勝敗を大きく左右します。
たとえば、人生の初期に大きな成功を収めると、その後の人生は圧倒的に有利になります(金銭・人脈だけでなく、拙著に書いたような認知バイアス系の雪だるま効果が発生するため)。
また、逆にうつ病になって、それが治らなくなってしまったりすると、もう、何をやっても、どうにもならなくなったりします。

しかしながら、実際には、「人生の初期に大きな成功を収めた人」も「うつ病になって、それが治らなくなってしまった人」も、多数派ではなく、9割ぐらいの人は、「試行回数が十分に多いと、運よりも、「運以外の何か」によってトータルの勝敗が決まる」というゲームに近似できる部分が十分に大きくなります。
それで人生の運不運のすべてを説明できるわけではありませんが、この記事では、その部分にフォーカスを当ててみます。


では、人生において、この「運以外の何か」とは何でしょうか?

それは、主に、以下の3つです。

(1)不運に遭遇した時に、それから受けるダメージを最小化するスキル・準備・体制
(2)幸運に遭遇した時に、それから得られるものを最大化するスキル・準備・体制
(3)幸運を発掘するアクションに配分する時間の割合

実家が太い人が圧倒的に有利なのは、この(1)と(2)をもとからある程度持っているからです。
また、人生の初期において、偶然、大きく成功した人が圧倒的に有利なのは、この(1)と(2)が揃うからです。
うつ病になって治らなくなってしまった人がにっちもさっちもいかなくなるのは、(1)も(2)も(3)も備えようがなくなるからです。

では、「実家が太くなく、うつ病が治らないわけでもなく、人生の初期に大成功したわけでもない人」が、この3つを得るには、どうすればいいのでしょうか?

「僕は運が悪かった」と思ってた時期が、僕にはあったのですが、
今にして思うと、
実際には、運が悪かったのではなく、上記の(1)~(3)を持っていなかっただけでした。
配牌やツモが悪かったのではなく、「運以外の何か」が悪かったのです。

僕の何がダメだったかというと、

(1)幸運は手の届くところにあったのに、それを見過ごしてしまった。
(2)幸運を掘り当てるための、試し掘りの回数が少なすぎた。
(3)損切りが遅く、同じ所を漫然と掘り続けて時間を無駄にしたせいで、試し掘りの回数が少なくなってしまった。
(4)幸運が降ってきたきたのだけど、それをつかむための準備をしてなかったので、それをつかむことができなかった。
(5)不運が降ってきたのだけど、それに耐えたりはねのけたりするための準備をしていなかったので、大ダメージをくらって、しばらく、幸運をつかみにいくどころではなくなってしまった。
(6)幸運が降ってきたときに、そこから得られるものを最大化するアクションが足りなかった。
(7)不運が降ってきたときに、それによって受けるダメージを最小化するアクションが足りなかった。

というあたりです。

たとえば、まだWindows95も発売されてないころ、僕の友人が、めっちゃ楽しそうにWebというものを僕に見せてくれたとき、「へー、面白いな」と思っただけで、何のアクションも起こさなかったんです。
それはビジネスチャンスになるのでは?という疑問を持たなかったし、ろくに調べなかったんです。
あのとき、調べて、そのビジネス的な可能性を吟味して、試しにいろいろアクションを起こして試行錯誤いれば、僕の人生は、全然違ったものになっていた可能性がけっこうあったと思います。

そのときの僕は、めちゃくちゃ幸運に恵まれていました。
世の中のほとんどの人がインターネットという言葉すら知らない中、毎日、当たり前のようにインターネットを使って仕事をしていたし、毎日、仕事でプログラムを書きまくっていたし、起業するための貯金もあったのですから。

でも、その幸運を、全く活かすことなく、だんだん自分の人生が行き詰まって、
朝日が夕日に見えるようになったんです。
ああ、僕の人生は、もうダメだな。
こんな感じで、ずっと歳を取っていくだけだな、と。

客観的に見るとめちゃくちゃ幸運なのに、主観的にはめちゃくちゃ不運なわけです。

「何もしてないのに、偶然幸運が降ってくること」が「幸運」だと僕は思ってたんですね。
僕には幸運が降ってこない。だから、僕は運が悪い。と。

その後、いろいろあって、ようやく気がついたのは、目に飛び込んできた情報が「幸運なのかどうか?」をいちいち吟味したり、試してみたりすることで、幸運を捕まえられる確率は、飛躍的に上がるということです。
僕の友人が、仕事中にもかかわらず、仕事と関係ないWebを興奮気味に僕に見せびらかしたとき、僕は、なぜ、彼がそんなに興奮しているのか、なぜそれを人に見せたがるのか、問いたださなきゃいけなかった。
それが具体的にどのようなもので、どんな可能性があるものなのか、根掘り葉掘り聞かなければいけなかった。考えなければいけなかった。

なのに、なぜ、僕は何のアクションも起こさなかったのか?
それは、目の前の仕事や趣味をやり続けることを、優先してしまったためです。
そうすると、こなせる仕事量は増えるのですが、得られる幸運量は減るんです。だからトータルでは損なのですが、逃した幸運の量を自覚できてないので、トータルで得しているという錯覚に陥っていたのです。だからこんな行動をとったのです。

運が悪かったのではなく、優先順位と時間配分が悪かったのです。

いまやっている仕事や趣味が「幸運」につながっている可能性が高いと思うなら、いまやっていることを全力で続けた方がいいです。
しかし、そうでない場合は、幸運のハンティングに出かけることに、もっと多くの時間を割り当てないといけない。
朝日が夕日に見えるほどの自覚症状があるのに、幸運を探しに出かけないのは、どう見ても、運ではなく、「運以外の何か」が悪いのです。

僕が、そこまで追い詰められてしまった、もう一つの理由は、自分の中に埋まっていた「幸運」を探すことをしなかったからです。
そのときの僕は、自分にできるのは、プログラムを書くことぐらいだと思い込んでました。
企画、マーケティング、ディレクション、起業、翻訳、雑誌記事や書籍の執筆、マネジメントができるとは、全く思ってなかったのです。

それらが自分に出来ることに気がついたのは、試してみたからです。
試してみて初めて分かる、というものは、むちゃくちゃ多いのですが、生まれてから四半世紀以上、ろくに試さなかったのです。
だから、めちゃくちゃたくさんの幸運を逃してしまっていたんです。

なんで試さなかったのかというと、「試すこと」の重要性が分かっていなかったからです。
試しに数週間かけて徹底的にアートディレクションをしてみたら、その絵がすごく賞賛されるなんて、誰が想像できるでしょうか?
試しにブログを書いたら、何百万、何千万もの人に読まれるなんて、誰が想像できるでしょうか?
試しに起業したら、その会社が上場してしまうなんて、誰が想像できるでしょうか?
試しに本を書いたら、何千万円もの印税が入ってくるなんて、誰が想像できるでしょうか?

マンガとかだと、必ず、伏線として、最初から才能の片鱗みたいなものが見え隠れするものなんですが、
リアルの人生には、伏線はないんですよ。
そんな才能が自分の中に眠ってるなんて、毛ほども分かりません。
才能があるかないかなんて、やってみるまで、まっっっっっっっっっったく分からないのです。
それどころか、やり始めてずいぶん経ってもわからないことも多いです。
何年も後に振り返ったとき、ああ、自分にはそれなりの才能がもともとあったんだな、と後知恵で知覚するだけのことが多いのです。
多くの場合、才能は、後知恵の中にしか存在しないのです。

このように、自分の中にある幸運であれ、外にある幸運であれ、とにかく試すと、全く予想もしない「幸運」に遭遇することがよくあるのですが、
「自分は運が悪い」と思っていた頃の僕は、ろくに試していなかった。
試すことに割り当てる時間が、あまりにも少なかった。
だから、多くの幸運を逃してしまっていたんです。

「僕は何をやってもダメだな」と思っていたときの僕は、実際には、ろくに何もやってなかったんです。
「何をやってもダメ」なのではなく、「何もやらないからダメ」なだけだったんですけど、それに気がつかなかったんです。

これに対する解決策は、「意識的に試す時間の配分を増やす」ということです。
もちろん、闇雲に試すのは効率が悪いので、あくまで、幸運が埋まってそうなところを掘ります。
僕がプロテニスプレーヤーになれるのかどうかを試すのは、時間の無駄です。
そうして幸運の試掘をやり続けると、幸運が埋まってそうなところに対する嗅覚が鋭くなっていきます。
山菜採りを続けると、山菜が生えてそうな場所に対する勘が鋭くなっていくような感じです。
山菜採りが一種のスキルであるように、幸運堀りも一種のスキルなので、試行回数が多くなると、打率が上がっていくのです。
「運のいい人」だと僕が思っていた人の多くは、実は、単に「幸運を掘り当てるスキルが高い人」だったのです。
このことも、僕は、全然わかってなかった。

また、もう一つの後悔として、幸運をつかんだとき、そこから得られるものを最大化するアクションをろくにしなかったことです。
幸運をつかんだときに、全力の全力で行っていれば、もっとずっと多くの実りを得られたのに、そうしなかったことがあまりにも多かったです。
後年、それに気がついてからは、幸運から得られるものが、劇的に多くなりました。
幸運を掘り当てられるかどうかは運ですが、幸運に対してどういうアクションをとるかは、自分の選択です。
僕は運が悪かったのではなく、選択が悪かったのです。


また、僕が不運に見舞われたとき、大ダメージを食らってしまったのは、不運に備えていなかったからです。
人生なんて、上手く行くこともあれば、上手く行かないこともあるのに、上手く行かない場合の備えを、ろくにやっていなかった。

僕の友人知人たちは、何千万、何億もの貯金ができても、安い家賃の不便な家に住んでいました。「いざというとき」に備えるためです。
しかし、僕は、もっと便利なところに住んだ方が生産性もあがるだろうと、会社に徒歩で行けるような、家賃のクソ高いところに住みました。
これは、本当に大失敗でした。

会社でも、個人でも、不運は、ほぼ確実にやってきます。サイコロを振り続ければ、いつかは1が出るのがほぼ確実なのと同じです。
だから、不運に備えるために、できるだけたくさんのキャッシュを、蓄えておく必要があるのです。

さらに言えば、もっと多くの人脈を作っておかなかったのも、大失敗でした。
思い返せば、もっともっと多くの人脈を作るチャンスはいくらでもあったのに、人脈を作らなかったのです。
不運が起きたときに、そこから脱出することができたのは、結局、人脈のおかげでした。
もっと充実した人脈があれば、もっと楽に、多くの不運から脱出することができたと思います。

企業にしろ、個人にしろ、キャッシュを貯め込むと、「お金を貯め込むな」「そんな金があったら、従業員の賃金を上げろ」「もっと経済を回せ」と言う人がよくいますが、その人たちは責任をとってくれません
そのキャッシュは、「不運引当金」なのです。
必要経費なのです。
それを使い込んだら、不運に見舞われたとき、甚大なダメージをくらうことになります。

世の中の不確実性は、どんどん高まっています。
この先、どうなるか、ますますわからなくなっています。
そして、不確実性が高くなればなるほど、「不運引当金」は多く積み上げなければなりません。
不確実性の高い時代には、誰に何と言われようと、「不運引当金」を積み上げた者が生き残るのです。

もちろん、幸運を試掘し続けることにも投資しなければならないので、「幸運試掘投資」と「不運引当金」のバランスが大切です。
若いほど、そして、守るものがないほど、「不運引当金」は少なくて済みますが、年齢が上がるほど、守るものが増えるほど、それは大きくする必要があります。
さらに、今を楽しまないと結局何も楽しまないまま人生が終わってしまうので、「今を楽しむための出費」とのバランスも大切で、全てを「不運引当金」の積み上げに投じるのは、ナンセンスです。
重要なのは、「不運引当金」は想像以上に多く必要なことが多いので、そこへの配分を見誤ってはいけないということです。


結局の所、ほとんどのことは「不運」と「幸運」によってものすごく大きく左右されるのだから、常に、「不運」には備えなきゃいけないし、「幸運」を試掘し続けることも、「幸運」からの収穫を最大化することも、やり続けないといけないのです。
「不運」と「幸運」は、運任せにしてはいけないのです。
運ではなく、「運以外の何か」によって、「不運」のダメージを最小限にし、「幸運」からの収穫量を最大化し、新しい「幸運」の鉱脈を試掘し続けなければいけないのです。
そうすると、周囲の人々から「あの人は運がいい」と思われるようになります。
それをやらないと、「あの人は運が悪い」と思われるようになります。

僕がこれを理解したのは、中年になってからでした。
その意味で、僕は、運が悪かったです。

この記事を、あなたが若いうちに読めたのなら、あなたは、とても運がいいです。
まったく、うらやましい限りです。


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※この記事は、文章力クラブのみなさんにレビューしていただき、ご指摘・改良案・アイデア等を取り込んで書かれたものです。


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