親の世代に比べて爆上がりした読書生活の質
この30年で、読書生活は、想像をはるかに超えて豊かになった。
たとえば『謎の独立国家ソマリランド』を読んでいるとき。
「首都ハルゲイサからベルベラに向かった」とあるので、Google Earthで検索すると、そのあたりの地形がすぐに見れる。
親の世代でも紙の地図で調べることはできたが、手間がかかりすぎて、いちいち調べる気にならなかった。
紙の地図は、ズームアップもままならないし、衛星画像もしょぼいし、3Dであたりの地形を見渡すこともできない。しかも情報が古い。
タイパ悪すぎである。
これに対し、我々は、現地の街の雰囲気すら360映像をぐるぐる回しながら見ることができる。
たとえば、「ベルベラってどんな雰囲気の街なんだ?」と思って、Googleストリートビューで見れる。
たったこれだけで、めちゃめちゃ読書体験の質が上がる。
この読書体験の質の向上は、次の3つの要因によって起きた。
(1)地図の性能が爆上がりした。
(2)パソコンやタブレット端末で本を読めるようになった。
(3)本を表示するウィンドウと地図のウィンドウを並べて見れるほど、画面が広くなった。
これらが重なった結果、「地図を見ながら読書」のタイパが爆上がりしたのだ。
読書体験の質の劇的な向上は、その結果なのである。
あるいは、古代ローマが舞台の小説を読んでいるとき。
「アッピア街道をカプアに向けて進んだ」だの「フラミニア街道をローマに向けて進んだ」だのがちょくちょく出てくるが、土地勘がないので、どこの話をしているのか分からない。
でも、「アッピア街道」でGoogle画像検索すれば、すぐに、以下のような画像が出てくる。
右のウィンドウにこれを表示しながら左のウィンドウで小説を読むと、すごく話がリアルに分かって、読書体験の質が大きく上がる。
あるいは、江戸時代が舞台のSF小説『妖星伝』をKindleで読んでいるとき。
「下野壬生」ってどこだっけ?
と思って文字列を選択すると、ポップアップメニューが出る。
「ウェブを検索する」を選択すると、隣のウィンドウに検索結果が出る。
一番上に「壬生藩」があるのでクリックすると、すぐに壬生藩の概略が分かる。
当時、どんな街道が走っていて、その街道のどこに壬生があったのかも分かる。
読書体験の質の向上は、古めかしい言葉が多く登場する小説を読む場合に、特に大きくなる。
たとえば藤沢周平『用心棒日月抄』は、以下の文章で始まる。
もちろん、「しもた屋」「口入れ」という単語を知らなくても、内容を理解するのに支障がないようには書かれている。
しかし、それらの単語の意味が分かると分からないとでは、受け取れる内容の豊かさが、カラー動画とモノクロ動画ぐらい違う。
我々の親の世代は、いちいち紙の辞書を引かなければこれらの単語の意味がわからないので、めんどくさくて辞書など引かずに読んだ。
辞書を引きながら本を読むことのタイパが悪すぎた。
だから、モノクロ放送を受信するしかなかった。
しかし、我々は、単語をマウスで選択するだけでポップアップメニューが出てくるので「ウェブで検索」を選択すれば、瞬時に、隣のウィンドウに、語の意味が表示される。
あるいは、辞書に載っていそうな単語なら、「辞書」を選択すれば、その場に意味がポップアップ表示される。
これによって辞書引き読書のタイパが爆上がりし、気軽に辞書を引きながら、カラー放送を受信できるようになったのだ。
メモを取りながら本を読む場合も、影響は大きい。
我々の親の世代は、本の余白にメモを書いていたが、余白に書けるメモは限られている。
余白が限られていることのメリットは、証明を見つけてなくても「この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」と書いて見つけたふりができることぐらいだ。
また、重要なメモをあとから探すのが大変だった。
ノートにメモをとった場合、そのメモが本のどの部分に対応するのかがわからなくなってしまいがちだった。
さらに、手書きだったので、メモを書く速度が遅かった。
それらにより、メモしながら読書することのタイパが悪すぎて、メモをとらなくなってしまう人が多かった。
しかし、テクノロジーによる環境変化により、メモしながら読書することのタイパが劇上がりした。
今や、メモしながら読書することは、かなりお得になった。
たとえば、Kindleで文字列を選択すると出てくるポップアップメニューで、
「メモを追加」を選択すると、右側の「メモとハイライト」というペインに選択した文字列が追加され、その下にメモをテキストで入力できるようになっている。
以下は、私が『ソードアート・オンライン』という小説を読んでいるときに作ったメモだ。
さらに、パソコンで本を読んでいるときは、テキストファイルやワードファイルも開いているので、本を読んでいるときに得た着想を書き出しながら本を読める。
そのまま思考を書き出しながら、自問自答を繰り返して思考を整理しつつ読めば、本の読みが飛躍的に深くなる。
親の世代では、これは、机の上に本とノートを広げることでやっていたが、紙のノートの最大の問題は、切り貼り・修正・編集の効率が悪いことだ。
消しゴムで消すのに手間がかかるし、線を引いて消したり、文字列を挿入するたびにメモは汚くて読みづらくなっていく。
テキストエディターなら、カットアンドペーストと修正をいくらやっても、メモは読みづらくならない。いくらでも思考を深めていける。
この読書メモは、とくに図解ものやマンガを読むときに威力を発揮する。
たとえば、チェンソーマンの第一巻を読み直していたら、以下のデンジの表情の変化によって、いくつもの決定的に重要な情報が読者に伝えられていることに気が付いた。
「こりゃすごい!」と思って、気が付いたことを整理しようと思った。
「Win+Shift+Sキー」で、すぐに切り抜きスクショをする。
あとは、既に開いてある隣のウィンドウのワードファイルに画像をペーストして、気づいたことを箇条書きに書き出しながら、自問自答して、考えを深めていけばいい。
我々の親の世代が同じことをやろうとすると、手間がかかりすぎて話にならない。
紙のコピーをとって、コピーからコマをハサミで切り抜いて、それをノートにテープで貼り付けて、その下に鉛筆で分析メモを書いていかなければならないのだから。
タイパが悪すぎて、そんなことをやる人は、ほとんどいなかった。
これが割に合うようになったのは、デジタル革命と「Win+Shift+Sキー」の結果だ。
我々が当たり前のように使っている「Win+Shift+Sキー」は、画像メモ読書のタイパを爆上げすることで、すごい読書革命を成し遂げていたのだ。
ちなみに、私は、「Win+Shift+Sキー」を多ボタンマウスのボタンの1つに割り当ててあるので、とても効率よく切り抜きスクショができる。
また、我々の親の世代に比べ、読書に費やせる時間も大幅に増えた。
理由は5つある。
第一に、文字サイズを自在に変えられるようになったからだ。
40代以降、老眼のせいで小さい文字が読みにくくなり、読書への集中力が低下してくる人が増えてくる。
このため、我々の親の世代では、中高年になると読書量が減りがちだった。
しかしこれは、紙というメディアの問題に過ぎない。
我々は、スマホ・タブレット端末・パソコンで、文字サイズを大きくして読むことができるので、老眼が進んでも、それほど苦労せずに本を読むことができる。
これにより、生涯の読書可能時間の総量が大きく増えた。
第二に、週休1日だったのが週休2日になったからだ。
これにより、労働時間が大きく減り、読書に費やせる時間が大きく増えた。
第三に、家事労働の生産性が大きく上がったからだ。
洗濯乾燥機の普及で、洗濯物を干したり取り込んだりする手間がなくなった。
電子レンジの普及はもとより、カット済野菜、冷凍野菜、冷凍パラパラミンチ、冷凍食品、お惣菜コーナー、レトルト食品の普及で、食事の用意にかかる時間が大幅に減った。
それらにより、読書に費やせる時間が大きく増えた。
第四に、スマホで本が読めるようになったからだ。
親の世代は、文庫本をカバンに入れていて、それを読んでいた。
しかし、小説を読みたい気分のときもあれば、技術書を読みたい気分のときもある。マーケティングの本の気分のときも、哲学書の気分のときもある。
電車に乗っているとき、そのときに読みたい本がカバンに入っていないと、本を読む気になれなかった。
しかし、スマホなら、あらゆるジャンルの本を入れておけるので、本を読む気になる確率が高く、結果的に読書時間が増える。
第五に、立ったまま本が読めるようになったからだ。
VRゲームなどの運動をやって汗びっしょりのときとか、風呂上がりは、拭いても拭いても汗が出てくるので、座るわけにはいかず、身体から汗が引くまで立っていなければならない。
スタンディングデスクに載せたディスプレイで本を読めば、立ったまま快適に本が読めるため、汗が引くまでの間も、本を読み続けることができる。
パソコンが無かった時代に、書見台を使って紙の本で同じことをやろうとしたけど、本が濡れないようにするのがめんどくさくて、結局、やってらんなかった。
第六に、食事しながら本が読みやすくなったからだ。
紙の本だと、本を開いた状態で固定する必要があるので、食事中に読むのが不便だ。
しかし、タブレット端末やPCで読む場合、ページを捲るとき以外は、普通に食器と箸を持ったまま、食事をすることができる。
私の場合、あぐらをかいて、脚の上にiPad Proをのせ、左手に皿、右手に箸を持って、iPad Proで読書しながら食事をしている。
さらに、本のコンテンツ自体の質も、大きく上がった。
たとえば、私が今までに読んだ本の半分くらいは、30年前には存在しなかった。
最近は、道徳の起源を、生物学・脳科学・人類学・古人類学・進化人類学・進化心理学・神経心理学・統計データを総合的に駆使して追求する本を読み漁っているのだが、道徳の生物学的起源に関する重要な発見・知見・考察・議論に関する本の多くは、ここ10年ぐらいに書かれたものだ。
たとえば『善と悪のパラドックス』の日本語版は2020年、『暴力の人類史』の日本語版は2015年、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の日本語版は2014年、『暴力の解剖学』の日本語版は2015年の出版である。
これらの本を読まずに道徳の生物学的な起源に迫ろうとしても、見当外れの方向へ進んでしまうだろう。
これは科学に関する本だけじゃない。
たとえばエイドリアン・ゴールズワーシーの『カエサル』の日本語版は2012年に出版されたが、この本からは、それまでのカエサル本では得られなかった貴重な情報や知見が得られる。
考古学資料も新たに発見され、整理され、吟味し直され、歴史学自体が発展し続けているからだ。
もちろん、本の質の平均は、むしろ下がったかもしれない。
質の低い本と質の高い本の両方が増えたためだ。
しかし、同時に、「自分にとって質の高い本」を選び出す手段が、飛躍的に強力になったため、「自分が実際に読むことができる本」の質は大きく上がった。
たとえば、僕が子供の頃は、週に一回、音楽を鳴らしながら訪れるマイクロバスを改造した移動図書館と、小学校の付属図書館にある本しか選択肢はなかった。
本を紹介してくれる人は、学校の先生と同級生だけだったが、どちらの紹介も書評も、質も量も低いものでしかなかった。
それに比べると、Amazonの書評、SNSに流れる簡単な感想や書評、そして専門の書評サイトや書評ブログは、質でも量でも圧倒的に豊かだ。
これによって、自分の読む本の質が大きく上がった。
世の中の本の質の平均など、どうでもいい。重要なのは、自分の読む本の質が上がることなのだ。
まとめると、親の世代に比べて、我々の読書生活は、読書体験の質、可処分読書時間、コンテンツの質の3つの軸において、はるかに豊かになった。
このことの意味は、人によって全く異なる。
私の場合、観光旅行にでかけたり、豪華な食事を食べたり、良い車に乗ったり、豪奢な邸宅に住むことよりも、読書生活が豊かなことのほうが、はるかに価値が高い。
だから、昭和の若者の所得が、令和の若者の所得より高かったとしても、令和の若者の生活の方が、はるかに豊かに感じられるのだ。
もちろん、あまり読書が好きではない方々や、本を読む時間がないほどの長時間労働を強いられている方々には関係のない話だが、
ある程度の可処分時間のある、読書好きの人間の生活は、この30年で、飛躍的に豊かになったと言えるのではないだろうか。
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