意外と知られてない、すごく効果のある文章上達法


文章上達法について、「大量に書け」派と「大量に読め」派の人がいます。

「ひたすら大量に文章を書け。文章上達にはそれしかない」というのは書け派の典型。
「まずはラノベを千冊読め。話はそれからだ」というのは読め派の典型。

しかし、大量に文章を書いているのに文章の下手な人はたくさんいますし、
ラノベをたくさん読んだけど面白いラノベの書けない人もたくさんいます

これはスキル全般に言えることで、
たとえば、アメリカに二十年住んでいるのに英語がいまいちな人なんて、いくらでもいます

「量をこなせば自ずと質に転換する」のは、もともと才能のある人間だけです。
私のような凡才は、量をこなすだけでは効率よく上達しません。
質の高い修練を大量にやってはじめて、効率よく上達するのです。

では、質の高い修練とはどういうものでしょうか?

それは、次の2つです。

(1)優れた文章のどこがどう優れているかを、文章を書く人間の立場から精緻に言語化する。

(2)上記で言語化した「優れた文章の条件」を満たすように文章を書く。

たったこれだけです。
これらをひたすら大量にやると、驚くほど効率よく文章力が上がっていきます。

この(1)をやる注意点としては、評論家になってはいけないということ。
あくまで自分自身の文章を書くために、その文章に秘められたテクニックを学んで、活用するつもりでやらないといけません。
自分の文章に活用できそうにない点については、スルーします。分析のための分析をやっても意味がありません。

ただ、これだけでは具体的イメージがわかないと思いますので、浅田次郎『きんぴか』とヤマグチノボル『ゼロの使い魔』について、ここで(1)を実際にやってみます。
(この記事で例に挙げるのはフィクション作品ですが、実用書や論文でも要領は同じです。論文でやった方の例はこちら)


『きんぴか』は、冒頭の以下の文章。

阪口健太が刑期を満了して、いよいよ府中刑務所の鉄扉の前に立ったのは、真冬の朝のまだ暗いうちである。
ピストルの健太、略して"ピスケン"と言えば業界で知らぬ者はない。---というのは十三年 前の話で、今どきヤクザを十三年もやるオシャレな人間はいないから、実のところそんな名前は 誰も知らない。
寒い。それにしたって、寒い。
しかし寒がっていたのでは、扉の外に待つ何百人もの若い者ンにしめしがつくめえと、ピスケンは無理に体を反りかえらせた。

浅田次郎『きんぴか』第一巻の冒頭


『ゼロの使い魔』は、冒頭の以下の文章。

「あんた誰?」
抜けるような青空をバックに、才人の顔をまじまじと覗き込んでいる女の子が言った。才人と年はあまり変わらない。黒いマントの下に、白いブラウス、グレーのプリーツスカートを着た体をかがめ、呆れたように覗き込んでいる。

ヤマグチノボル『ゼロの使い魔』第一巻の冒頭


まずは『きんぴか』から。

阪口健太が刑期を満了して、いよいよ府中刑務所の鉄扉の前に立ったのは、真冬の朝のまだ暗いうちである。

●いきなり一人の人物が提示されたので、読者は、この人物が、この物語の主人公かな、と無意識のうちに漠然と思う。この主人公へ、読者が無意識のうちに感情移入を始める。
冒頭で人物を提示することで、それが主人公だと読者に認識させる手法は、わりとよく見られる。

●「刑期を満了して」は、主人公のやった行動・体験の描写。「行動・体験」を描写することで、主人公がどんな人物かを「説明」している。「行動・体験」の描写によって「説明」を行うのが、優れた「説明」。単なる説明だと、読者を退屈させてしまう。

●「刑務所に入る」という行動・体験は、このキャラを特徴づける。登場人物のほとんどは刑務所に入ったりしないからである。文章の高い割合が、「そのキャラだからする言動であって、ほとんどの登場人物はしない言動」になっていることで、キャラの立つ物語になる。その言動をしうる登場人物が多いほど、その言動は没個性的であり、没個性的な言動が多い文章は退屈になりがち。
ただし、これは必ずしも、他の主要登場人物がやらない行動ではない。このキャラ以外にも刑務所or拘置所に入る主要登場人物は出てくる。つまり、キャラを特徴づける言動には次の2つの種類がある。
(1)【個性言動】ほとんどの登場人物はやらない行動だが、他の主要登場人物もやる言動
(2)【純個性言動】ほとんどの登場人物だけでなく、他の主要登場人物のほとんどもやらない言動
「キャラを立てる」という目的では、【純個性言動】の文の割合が高いのが一番良いが、【個性言動】の文の割合を高めることでも、キャラを立てて、物語を面白くすることに、十分に貢献できる。
また、【個性言動】は【純個性言動】にはない機能を担っているので、【個性言動】の文が【純個性言動】の文に劣るというわけではない。【個性言動】の文は、登場人物同士の共通点を浮かび上がらせるという機能がある。登場人物同士の共通点を際立たせることも、それが物語上必要なものであれば、物語を面白くすることに貢献する。たとえば、ある集団の構成員に共通の特徴をもたせることで、その集団の個性を際立たせる。あるいは、ライバル関係にあるキャラ同士に共通の特徴を持たせることで、似た者同士の対立と衝突の物語を描くことができる。この【個性言動】文は、集団の特徴づけと、似た者同士のぶつかり合いという、両方の展開のための伏線になっている。
(ちなみに、【個性言動】や【純個性言動】のように、自分が見つけた分類方法や技法には、その都度ラベルを貼ると、見通しが良くなり、理解度が上がる)

●「府中刑務所の鉄扉の前に立った」は視覚的描写。視覚情報は五感情報の一種。文章の大きな割合が五感情報でなければ、文章が退屈に感じられがち。
また、これは行動の描写でもある。文章の大きな割合が「行動」でないと、文章が退屈に感じられがち。
これは「説明」にもなっている。文章の大きな割合が「説明」になっていないと、読者は物語を深く理解できず、物語の魅力が損なわれがち。
この文は、「五感」「行動」「説明」の3つを兼ねている。文章における、「五感」「行動」「説明」の割合全てを同時に増やす、優れた文である。
逆に、ダメな文の典型は、単なる「説明」にしかなっておらず、「五感」でも「行動」でもない文。
優れた文の典型の一つは、「兼ねる」文である。この文は3つを兼ねているので、優れている。

●「府中刑務所の鉄扉の前に立った」は、そのキャラがマイナスの状態に置かれていることを表す。これによって、読者がキャラに感情移入をする。

●「府中刑務所」は「刑期」よりも視覚的・具体的・詳細な情報。抽象的な情報と、それを敷衍した五感的・具体的・詳細な情報が組み合わされると、立体的なイメージが読者の脳内に形成される。

●「真冬」は「季節情報」。季節情報は、「時間」と「五感」の両方を兼ねる情報なので、情報密度が高い。
単なる「冬」よりも「真冬」の方が、限定性が高く、解像度が高い。
解像度が高いほど面白く感じられるが、解像度を上げるために長文を書いたら、退屈な文章になる。「真」というたった一文字を追加することで解像度を上げているので、読者の認知コストあたりの効果が大きな、コスパのいい表現。

●「朝のまだ暗いうち」は、「時間」と「五感(視覚)」の両方を兼ねる情報。単なる「朝」よりも解像度が高いので、情報の質が高い。


ピストルの健太、略して"ピスケン"と言えば業界で知らぬ者はない。---というのは十三年 前の話で、今どきヤクザを十三年もやるオシャレな人間はいないから、実のところそんな名前は 誰も知らない。

●たった二つの文で、どんでん返しをやっている。
●どんでん返しをやりさえすれば、なんでも面白くなるというものではない。どんでん返しの前と後ろのいずれか、もしくは両方が、感情移入できないものであれば、そのどんでん返しは、面白くならない。このどんでん返しは、どんでん返しの前と後の両方で、それぞれ別方向に読者を感情移入させているため、面白い。最初の文で凄い人物だと思わせて読者に感情移入させ、次の文で、それは昔の話で、今は時代に取り残された可哀想な人間だとして読者に感情移入させている。
●読者は、凄い人物が大好きだが、凄い人物が転落するのも大好き。多くの人が成功者と、そのスキャンダルの、両方が大好きな理由と同じ。どんでん返しの前で凄い人物だと持ち上げ、どんでん返しの後でそれを突き落とす。
●人物の説明だが、「男気がある」などの抽象的な説明ではなく、具体的な説明になっている。抽象的な説明が多いと退屈になる。説明は極力、具体的にする。
●この説明は、具体的なだけでなく、本質的。ピスケンという面白キャラを成り立たせるのに必要不可欠な説明となっている。「具体的」と「本質的」の両方を兼ね備えた文にしないといけない。具体的なだけで本質的でないと散漫で退屈な文章になる。本質的なだけで具体的でないと、実感のわかない退屈な文章になる。
●行動・視覚・温度・時間帯などの情報が出た後なので、説明的文章を入れても、退屈に感じられない。五感・行動情報にミルフィーユ状に挟み込む形で、「説明」を入れると、全体として魅力的な文章になる。
●「オシャレな」は字義通りの意味ではなく、むしろその反対。それによって、コミカルな感じを出している。読者は、ここで、こんな形容詞が来るとは予期していなかったから、不意打ち、どんでん返し効果もある。
●これも、ピスケンを特徴づける文。ほとんどの人間はピストルなど使わないし、それによって「業界で知らぬものはない」にならないから。「キャラを特徴づける文」の割合を高めることに貢献している文。


寒い。それにしたって、寒い。

●三人称視点から、いきなり一人称視点に切り替わっている。
●理屈の上では、「三人称視点で、主語が省略されているだけ」と解釈することも可能だが、読者は、直感的・心理的には、そうは受け取らない。読者の心理的には、一人称視点に切り替わったと知覚されている。
ただし、主語が省略されているだけ、とも少し感じられている。その中間に漂っている感じが、ちょうどよい。一人称視点と三人称視点の中間をふわふわ漂うことで、直感的に分かりやすい一人称視点の文章と、自在に魅力的な視覚的描写や全体を俯瞰する説明をやりやすい三人称視点の文章を、都合良く混ぜながら文章を作れる。
●これは五感情報。しかも、視覚ではない。目から知覚される情報の文は、一番書きやすい五感情報文だが、視覚ばかりだと単調で退屈になる。皮膚・耳・鼻・舌で知覚される五感情報もミックスしていくことで、より立体的で、リアルで、心地よい文になる。
●これは、このキャラを特徴づける文ではない。文章のすべてがキャラを特徴づける文だけでできている必要はないことが分かる。
こういう風に、キャラを特徴づけない言動は【無個性言動】と呼ぶことにする。


しかし寒がっていたのでは、扉の外に待つ何百人もの若い者ンにしめしがつくめえと、ピスケンは無理に体を反りかえらせた。

●「しかし寒がっていたのでは、扉の外に待つ何百人もの若い者ンにしめしがつくめえ」までは一人称視点なのに、「ピスケンは無理に体を反りかえらせた」は三人称視点になってる。一つの文の中で、「一人称視点→三人称視点」という切り替えをやるのは、ありだということ。
●「しかし寒がっていたのでは、扉の外に待つ何百人もの若い者ンにしめしがつくめえ」の部分は、カギカッコでくくってもいいが、くくらなくても、認知コストはそれほど高くならないので、くくっていない。くくらなくても、読むのに支障がない場合にまでくくると、くどくなる。だから、ここはくくっていない。
●「扉の外に待つ何百人もの若い者ン」というのは、ピスケンの勘違い妄想だが、ピスケンは本気でそう思っていている。こんなことを本気で思う人間は、通常、正常な思考と行動ができないので、そんな人物は、そもそも「業界で知らぬ者はない」人間になどならない。だから、この妄想は矛盾していて、リアリティがない。しかし、これによって読者が「リアリティなさ過ぎて、読む気なくなった」などとは思わない。むしろ、逆に、リアリティが上がる。キャラが起つからだ。現実にありそうな行動ばかりをキャラにさせると退屈な文章になりがち。読者の予想通りの行動になってしまうからだ。読者は、予想外の行動をするキャラを見るために娯楽小説を読んでいる。だから、現実にやりそうな行動ばかりを娯楽小説のキャラにやらせるのは、娯楽小説のていをなしていない。「現実にはやるはずのない行動だけども、キャラが立つような行動」をキャラにやらせることで、リアリティが作られる。読者は「現実にやりそうな行動」を予想して読んでいるため、「現実にはやらない行動」をやられると、不意打ちを食らう形になり、どんでん返し効果が生じる。そのため、面白いと感じる。リアルな行動を書くのではなく、「現実ではありえないファンタジー行動だけど、読者にはリアルに感じられる行動」を書くことで、魅力的なキャラができる。
●「しめしがつくめえと、ピスケンは無理に体を反りかえらせた」は「行動」とキャラの「説明」を兼ねている。ピスケンのキャラの本質的な特徴を表す、絶妙な表現である。視覚的でもある。
●これはピスケンというキャラを特徴づける文。キャラを特徴づける文の割合が高い文章であることが分かる。


次に、『ゼロの使い魔』。

「あんた誰?」
抜けるような青空をバックに、才人(さいと)の顔をまじまじと覗き込んでいる女の子が言った。才人と年はあまり変わらない。黒いマントの下に、白いブラウス、グレーのプリーツスカートを着た体をかがめ、呆れたように覗き込んでいる。

●現実には、ほとんどの人間は、初対面の相手に「あんた誰?」などと言わない。特に日本人は言わない。
その次の行で「~女の子が言った」とあるし、服装の描写が表紙絵の少女と一致するので、これで、アスカ/ハルヒ的なキャラ類型の少女であることは、読者に伝わる。
表紙絵の少女は美少女である。面識のない美少女に、いきなり「あんた誰?」と言われたら、うれしいと感じる少年と元少年は多いが、現実には、そんなことは起きない。現実には起きないけど起きて欲しいことを起こしてやる、そんな、多くの男性の夢を叶えるシーンである。それが、冒頭いきなり始まって、多くの少年と元少年の心をつかむ。
これによって、読者は、「この小説は面白いだろう」と予想する。これが確証バイアスを作り出す。この確証バイアスによって、あばたもえくぼになるので、以降、文章に多少瑕疵があっても、そのあばたはえくぼとして知覚されるので、読者の多くは離脱せずに読み続ける。

●ルイズのセリフと、そのセリフを言ったルイズの視覚的描写から始まっている。
この物語の魅力の6~7割くらいはルイズの魅力である。
ルイズの魅力を伝えることが、この物語のメインミッション。ストーリーもよくできているが、そこまですごいものではない。ストーリーはルイズの魅力を表現するためのメディア(媒体)としての役割がメイン。
このため、いきなりルイズの魅力を伝える文章から始まっている。寄り道せずに、最短距離で、まっすぐ来ている。
とくに美少女キャラのリアリティと手触り感を醸し出すには、服装の情報が非常に重要。この文では、それをやってる。

●「抜けるような青空をバックに」は、「五感情報(視覚)」と「場所の説明」を「兼ねて」いる。兼ねると情報密度が高くなるので、兼ねれば兼ねるほど良い文になる。

●「女の子が才人の顔を覗き込んでいる」という表現からは、女の子と才人の二人がフレームに収まるような映像がイメージされるが、その映像だと「抜けるような青空をバックに」という映像にはならない。「抜けるような青空をバックに」という映像は、才人の視点から見た景色だ。
これにより、三人称視点カメラと一人称視点カメラの二台のカメラの映像が、同時に読者の脳内に映し出される文になっている。
少ない認知コストの消費で、豊かなイメージを読者の脳に送り込んでいる。コスパのいい文である。
もしこれが「抜けるような青空をバックに、女の子が俺の顔を覗き込んでいる」という一人称視点の表現だと、カメラは一台になってしまい、イメージが貧しくなってしまう。
どうして、魔法のように二台のカメラが現れたのかというと、「抜けるような青空をバックに、俺の顔を覗き込んでいる」という一人称視点の文と、「才人(さいと)の顔を覗き込んでいる」という三人称視点の文を融合させたからだ。
「一つの文の中に、三人称視点と一人称視点を混ぜると、読者は混乱して、読みにくい文章になるのではないか?」という心配はいらない。たしかに、少し認知コストは上がるが、カメラが二台に増えるので、読者の脳内に作られるイメージが豊かになり、コストをはるかに上回るリターンが得られる。もちろん、この文のように手際よくやればの話だが。

●いきなり「あんた誰?」なんて聞くのは失礼であり、単にそれだけだと、ムカつく嫌なキャラになってしまいかねない。つまり、煮魚料理みたいなもので、ほんのわずかに失敗するだけで、生臭い、嫌な味の料理になってしまう。
その臭みを消すための仕掛けを入れる必要があるので、その仕掛けが、このあとの文章で入ってくることが予想される。

●セリフを書いて、改行してから、そのセリフを言った人間の描写をしている。
キャラの個性が強く出るセリフで、かつ、キャラの個性を読者に印象づけたいので、セリフを強調するために、セリフだけで一行にしている。
セリフを言った人間が誰だか分かりにくい場合は、セリフと同じ行に、そのセリフを言った人間の描写を入れることもあるが、このケースでは、その必要はない。必要がない場合は、改行した方が読みやすい。

●「才人と年はあまり変わらない」は、体裁上は、ルイズの年齢の説明をしているが、文の機能としては、才人の年齢の説明をしている。ルイズのだいたいの年齢は表紙絵で分かっている。それを元に、読者は才人の年齢を察する。
年齢は、キャラの手触り感とリアリティを醸し出すのに、重要な情報。それを早い段階で読者に伝えている。


あんまり長く書いてもしょうがないのでこの辺で打ち切りますが、
こんな感じで、独断と偏見で、参考になりそうだと思った点を、どんどん書いていきます。
この「独断と偏見」という点が極めて重要。
間違っても、「客観的に」とか「多くの人の同意を得やすいように」などと考えて書いてはいけません。そんなことをやったら、言葉にウソが混じります。体裁を取り繕ったり、自分にウソをついたりしていると、なかなかうまくいきません。
これは、他人に見せるための文章ではなく、純粋に、自分個人の文章力を上げるためのメモなのです。

なんで、こんなことをやる必要があるかというと、優れた文章には、大量の情報が超高密度に圧縮されているからです。
その圧縮された情報を展開して、もとの大きさに広げてやるのです。
それをやってはじめて、その文章に詰め込まれた、高度な文章テクニックを盗むことが出来るようになります。
超高密度にテクニックが圧縮された極上の文章をいくら読んだところで、その書き方のテクニックは消化できないので、自分の血肉にはなりません。
だから、消化可能になるまで、解きほぐす必要があるのです。

また、これを「一般的に優れた文章」についてやってはいけません。
「自分が好きな文章」についてやらないといけません。
「こういう文章を、自分も書けるようになりたい」と思うような文章で、やらないといけません。

万人にとって優れた文章などというものはありません。
「自分の読みたい文章」と「自分の書きたい文章」があるだけです。
だから、「自分の読みたい文章」でかつ「自分の書きたい文章」であるような文章について、「優れた点の言語化」を行うのです。
もっと正確に言うと、「自分が優れていると感じる点」の言語化を行います。一般的に優れているかどうかなど、自分にとってはどうでもいいことだからです。

ほとんどの「文章の書き方」の本は、この点が、いまいち考慮されていません。
「文章の書き方」の本をいくら読んでも、「いや、それ、一般論としては正しいのかもですが、私の書きたい文章については、いまいち当てはまらないんです。私が書けるようになりたいのは、私が書きたいタイプの文章であって、一般論として優れた文章じゃないんですけど」となりがちです。

「自分が書きたいタイプの文章の書き方」の本はどこにも売っていません。
だから、それに相当するものは、自分で作る必要があります。
それが、この「自分の好きな文章の分析メモ」なのです。

それと、実はこれ、やってるのは「他人の作品の分析」じゃないです。
実際にやってるのは、その作品を自分が読んだときに、「自分は何を重要だと感じるか?」「自分は何を好ましいと感じるか?」の言語化です。
やってるのは、あくまで、「自分の『好き』の高解像度化」であり、「自分自身を見出す作業」であり、「自分自身の個性の発掘作業」なんです。
だから、全く同じ文章に対して、別の人が分析メモを作ると、かなり違ったものができることがよくあるわけです。
人によって『好き』が違うのだから、当然の話です。

なんのために「自分の『好き』の言語化」をやるかというと、自分のスタイルを創るためです。
これは、一般的に優れた文章技術を身に着ける手法ではなく、自分独自の文章技術を醸成し、自分独自のスタイルを創り上げるための方法なんです。

で、分析メモができたら、自分が文章を書くとき、自分の文章が、そのメモが示唆するような理想の文章になっているかどうか、チェックしながら書きます。
この「優れた文章の分析メモ作成」と「分析メモを活用した執筆」をひたすら大量に繰り返すことで、効率よく文章が上達していきます。

ちなみに、同じ文章について、複数の人間がそれぞれ別に分析メモを作って共有すると、めっちゃ面白いことが起きます

何が面白いのか?

第一に、「重要だ」と思う点が、人によって、かなり違うことがわかります。
他の人が重要だと感じるポイントが自分にとっては全然重要だとは感じられず、自分が重要だと感じるポイントが、他の人にとっては全然重要だと感じられないのです。
人は、それぞれ、『好き』が違うのもありますが、違う読者層に対して価値のある文章を書こうとしているからでもあります。
自分には重要に思えないからという理由で、他の人が重要だと思っている点を見て「こいつ、わかってないな」とは思わないようにしたいものです。

第二に、他の人の分析メモを見て、「自分一人では気が付かなかったけど、自分が重要だと感じるポイント」を発見できることがあるということです。
「なるほど。今まで考えたことなかったけど、たしかに、言われてみれば、私も、それ、重要だと感じるわ」ということが見つかるということです。

この2つがあるので、「読書会」ならぬ、「分析メモ共有会」をやると、とても有意義だし、楽しくなるのだと思います。

もちろん、こういうミクロ的な分析だけでなく、もっと、物語全体の構造やキャラクターたちの人間関係の構造など、大きな構造についても分析メモを作るといいです。
また、物語だけでなく、実用的な文章や、ブログ記事なども同じです。

どんな種類の文章であれ、「優れた文章の分析メモ作成」「同じ文章に対する複数人の分析メモの共有」「分析メモを活用した執筆」は、単に大量に読んだり、大量に書いたりするより、はるかに効率よく文章力が上がる修練方法だと思うのです。

お試しあれ。


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※この記事は、文章力クラブのみなさんにレビューしていただき、ご指摘・改良案・アイデア等を取り込んで書かれたものです。


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