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哲学とコピー① - デカルトの方法的懐疑とコピー -

とあるきっかけで2年くらい前から哲学の本を読むことにハマって、勉強していくうちにこれはコピーライティングとの親和性が高いのではないかと思い実践しています。
今回はそんな僕なりの、哲学とコピーの親和性について書いていきたいと思います。
簡単な哲学の紹介と、コピーライティングへ活かせそうな部分を抽出していくシリーズにできたらと思いますので、宣伝会議賞やコピグラに取り組む皆さんと共有できれば幸いです。
(偉そうにスミマセン)


さて、いきなりですが、

「我思う、ゆえに我あり」

という言葉をご存知でしょうか?
フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596年~1650年)の有名な言葉です。
ぱっと見るだけだと、「自分の意志で考えることこそが自分の存在意義だ」みたいな意味合いにみえるのですが(実際、僕はそんなようなことだと思ってました)、実は違っていて、そのことを踏まえて簡単にデカルトの哲学を紹介していきたいと思います。

※ものすごく端的に、自分が知っている知識としての紹介となるので、誤り等があれば申し訳ありません。

まず、デカルトは哲学のひとつの命題とも言える「絶対的真理(誰もが認める普遍の道理)の追究」をするにあたり、まずそのスタートとなる基礎を整えようとします(スタートが間違っていたら元も子もありません)。

つまり、誰もが疑いようのないスタート地点さえ整っていれば、次の一歩は確実に真理に近づくというわけです。

そのために、デカルトはありとあらゆるものを疑い、疑っても疑っても疑いきれないものを見つけるという方法で、その基礎をつくろうとしました。

それは常識や価値観、目に映るモノ、事象、数学や論理までもとにかく全てを疑い、ついには自分自身の存在まで疑うという徹底ぶりだったそうです(その理由づけに、今見ているものや自分の考えている思考はすべて、悪魔が幻影を見せているかもしれない、とまで考えていたそうです)。

そこまで疑って疑って疑い抜いた結果、「自分は本当は存在しないかもしれない。しかし、そう疑っている私がいるという事実は、疑うことのできないのではないのか」とデカルトは思いいたったそうです。
※いやいや、それも現実ではないかもしれないと疑っても、そうやって疑っている自分はやはり存在しているということになる。

つまり、デカルトは自分の存在を疑うことができる人間の理性は絶対的な真として、真理の追究のスタートとして間違いがないという結論を導き出しました。
それが「我思う、ゆえに我あり」の真意になります。

本当は前後の哲学史や時代背景なども交えるともっとおもしろい話になると思うのですが、それをやり始めるとキリがないので、大雑把ではありますが以上がデカルトの方法的懐疑と呼ばれるものになります。


さて、これとコピーライティングがどう結びつくのか。
もちろんここまで徹底的に疑う必要は全くないと思うのですが、一般常識や自分の中の価値観を一度疑ってみるというアプローチはコピーを書く上で(もっと広く企画や広告全般においても)とても意義のあることだと思います。

と言うのも、よいコピーの定義のひとつと言われる「新しい価値観の提供」というのは、このアプローチがひとつの近道なのではないかと思うからです。

僕が宣伝会議賞のコピーの中でも特に好きなコピーのひとつ、またまた引用してしまいますが、ローラーさんが書いた

何もしない方が、ナルシストだと思う。
第51回宣伝会議賞
パナソニック「ボディシェーバー」
ファイナリスト

これがまさに、今回の記事の中で伝えたい、既存の価値観を疑って生まれた新しい価値観を提供するコピーです。

鏡の前で身だしなみを整える行為をナルシストだと言う一般的な価値観(今でこそそういった考えはだいぶ少なくなったと思いますが、当時はまだマジョリティだったと思います)に疑問を呈して、価値観を逆転させた本当に見事なコピーです。

ただ、既存の価値観に疑問を持つとは簡単に言っても、普段から色んなものごとについて、当たり前だとスルーせずに向き合うクセがついていないと、いざ課題を前にしてもなかなか実践できないと思います。

次の宣伝会議賞が始まるまでの約半年(少し切ってますが)、少しだけデカルトになったつもりで、常識を疑うクセをつけてみてはいかがでしょうか?







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