一人ぼっちの海

海が橙色に染まっていた。沈みかけの太陽を反射させた海面が眩しくて仕方ない。目を細めながら、押しては引いてを繰り返す波に素足をさらす。春と夏の中間の今、水はまだ冷たいがそれがまた心地よかった。
鼻歌を歌いながら波で遊ぶ。砂を踏みしめる音が近付いてきたが、気付かないフリをした。
足音が止まり、腕を掴まれる。残念ながら今日の遊びはここまでだ。わざとゆっくり振り返れば、顔をしかめた彼が立っていた。
「またここにいたんだね」
「うん」
「風邪引くよ」
「うん」
「帰ろう」
「……うん」
まだ帰りたくないな、なんて思いながら返事をすると腕を掴む手の力が強くなった。
「夜になっちゃうから。帰るよ」
「はーい」
間延びした肯定の返事をすれば、腕を掴んでいた手が緩む。離してくれない辺りは信用されていないようだ。心の中で苦笑しつつ波打ち際から離れる。
タオルで水気を拭き取り、靴を履いた辺りでようやく手が離れた。こちらを気にしながら歩き出した彼の半歩後ろを歩く。会話らしい会話はない。段々と遠ざかっていく波の音が物悲しかった。
海が見えなくなり、見慣れた町並みに差しかかった時、彼が思い出したように口を開いた。
「なんであそこなの?」
ボーッとしたいたため、質問の意味がすぐには理解できずにいた 。黙っていると、不意に彼が足を止めて振り返った。つられて足を止めて彼を見る。街灯と街灯の間の薄暗がりのため、表情がよく解らない。
「なんで、何時もあそこにいるの?」
「……ああ、海のこと?」
聞き返すと彼が首を縦に振った。
彼の問いかけを頭の中で繰り返す。なんであの海なのか。そういえば考えたこともなかった。ちょっと疲れて休みたいと思ったら、足が自然と海に向いていたから。
明確な理由は解らない。これをどう彼に伝えればいいのか、的確な言葉が出てこなかった。
「……心配、なんだよ」
沈黙を破るように彼が口を開いた。言葉を探すために自分の思考に没頭していた私は改めて彼を見る。相変わらず表情は見えなかったが、彼が不安そうにしているような気がした。
「何時か死んでしまいそうで」
消え入りそうな声で呟かれたのは彼の本音。もう何回も迎えに来てもらっていたが、本音を聞いたのは初めてだった。
ごめん、では軽い気がした。ありがとう、もしっくりこなかった。一体彼にどんな言葉をかければ安心させられるのだろうか。喉元まで出かかった言葉は、どれも音にならずに胸の奥に落ちていく。
彼が一歩分、距離を縮めてきた。そのまま両手が伸びてきて、私を腕の中に閉じこめた。抱き締めるというよりは、すがりつくといった方が正しいかもしれない。触れ合った箇所から伝わる温度は心地よくて、でも微かな震えが彼の不安を嫌という程に突きつけてくる。
「死なないで」
「……善処する」
彼が欲しかった言葉ではないのだろう。抱き締める力が強くなった。駄々をこねる子どもみたいに首を振る彼に、しかし私は「死なないよ」とは言えない。守れるかも解らない約束は交わしたくなかった。

回想にふけっていた意識が現実に引き戻された。
目の前には仏壇がある。揺れる線香の煙の向こうで遺影の彼は笑っていた。こんなにも穏やかに笑えるのかとぼんやりした頭で思う。
彼は死んだ。信号無視の車に跳ねられて死んでしまった。訃報を耳にした時も、焼香の時も、今こうして遺影の彼を目の当たりにしても、彼が死んだと信じられなかった。何事もなかったかのように現れるような気がしてならないのだ。
「ありがとね」
彼の母親に感謝の言葉をかけられる。私は何も言えない。ただ首を横に振って愛想笑いを浮かべることしか出来なかった。
そろそろ帰ろうと彼の母親に帰宅の旨を告げ、家を後にした。
外に出た瞬間、生暖かい空気が体を包み込む。見上げた空はあの日と同じ橙色。悲しいのに綺麗で、見たくないのに見たい。不思議な感情に襲われてつい足を止めて見いる。
何となく海が見たくなった。回れ右をして今来た道を戻る。彼の家の前を通り過ぎ、住宅街を抜けると見慣れた海が目の前に表れた。何時かと同じように海面は橙色に染まっている。
水に足はつけず、波が届かないギリギリの位置で立ち止まる。彼は一体どんな気持ちで迎えに来てくれていたのか。此処に来れば少しは解るかと思ったが、ピンともこなかった。
これからは海で遊んでいても迎えに来てくれる人はいない。一人で帰らないといけなくなった。肩越しに振り返る。砂浜には自分の足跡が残っているだけ。彼はもういないのだと、突き付けられているみたいで無性に悲しくなった。

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