10.越中井

:大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12番 (森ノ宮駅から徒歩5分)

 大阪玉造の細川越中守忠興屋敷跡で、焼け落ちて台所の戸だけが残ったという。越中+井=越中井。
 1934年建立の石碑の題字と碑文は徳富蘇峰と広辞苑を編纂した言語学者、新村出の筆。側面の碑文の中に明智玉の隠棲地は丹波であることも記述されている。(写真は大阪市のHPより)

画像3
画像4


 1600年上杉征伐が始まると、石田三成は定石に従い大名たちの家族を大阪城内に人質にとる政策を立てる。まず細川玉子(ガラシヤ)らに大阪城への出自が求められたが、それが拒絶されたため兵が屋敷を囲んだ。腹心の侍女たちは外へ出てきたが、その後、火薬が爆発して囲んでいた兵たちにも死傷者がでたという。結果に驚いた石田三成は、人質政策を急遽、中止した。

 兵たちは武力を背景に「交渉」しており「攻撃」に行ったのではないから、長男の妻は隣家の宇喜多邸に避難することはできたし、(玉子の命令で)侍女たちは表に出ることもできた。兵たちは屋外で玉子が出てくるのを待っており屋内に踏み込んでいくような礼を失することはしなかった。
 玉子は”潔く死ね”という夫の命令に従うしかなかった。もし夫の命令に背いて家を捨てれば罰を受けなければならなかっただろう。それは、おそらくは部下の男たち全員の斬首であり侍女らの耳鼻削ぎ(後述)であったはずである。また、玉子はこの事件より前に”夫と家を捨てて西方の教会(長崎)に逃げさせて欲しい”とオルガンチノに懇願していたが、それをもし受ければバテレン追放令が出て10年以上となりすでに脆弱になっていた教会の政治基盤や一般信徒全員の破滅を招くことは明らかであったからオルガンチノはそれを慰留していた。つまりは、玉子の人生にはすでに理由があればそこで死を選ぶことの他に、永遠の苦しみしかなかった。


 細川忠興の立場から考えれば、人質を取られた場合には「交渉」で救出するのが当時の一般的なルールであったがそれをしない、その必要がない選択を妻と家臣に命じておくことで、細川忠興が忌み嫌うキリシタンの巣窟と化していた大阪の家と、意に沿わない38歳になった妻を火薬で都合よく精算することに成功した、と考えることもできるのである。社会生活においては、家族を犠牲にして示した家康に対する忠誠に論功行賞を認められて12万石から40万石への加増に成功した。

 石田三成は兵たちを一番に細川邸に向かわせたが、家中の女性たちが(夫の忠興に)厳しく監禁されて一歩も屋敷から出られないことは大阪城下では知れ渡っていたはずで、家中の事情を知るオルガンチノと親交が深かった石田三成も知らないはずはない。石田は監禁を解く目的をも含めて一番に「迎えに」行かせたのであるに違いない。ところが、細川越中守の冷徹で功利的な残忍さを読めない石田の甘さの結果は、その後の彼の人生と今日に至るまでの評価にとっても最悪の結果となった。
 とはいえ、歴史を知る現代から振り返っても、治安の維持された総構えの秀吉城下の大名屋敷に大量の火薬が備蓄されているようなことを想定できるような人はいないだろう。

 1つや2つの理由が人間を突き動かすのではない。いくつもの理由の重積が人間を大きな決断に囲い込んでいく。今日もセンセーショナルなこの事件について、①ガラシヤは(離婚して)西方の教会組織に逃げる道を既に断たれていたこと(相談相手だったオルガンチノから拒絶されていたこと)②部下や侍女たちを夫の残忍な刀から守るためには自分が(犠牲となり)死ぬしかなかったこと、を挙げておきたい。

 ここまでの記事内容は、自分が知っている歴史と違う、と思う人がほとんどだろう。どうか、次項11.のフロイスの記録を読んでいただきたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?