16. 一条戻橋における耳削ぎ

 秀吉の禁教に関する政策は透徹性に乏しかったので、フロイスらは服装も日本人に習い布教活動を自粛して日本での生活を継続していた。伴天連追放令から5年を経て1593年に来日したフランシスコ会の宣教師ペドロバプチスタらは布教しないことを条件に京都で暮らす土地を求めた。多忙を極める秀吉らの目の届かぬところで日本への一時居留を許可されたに過ぎなかったが、しかし、彼らは何らかの確信を持って公然と説教を始める。
 1596年高知に漂着したスペイン船サンフェリペ号事件をきっかけとして、施薬院全宗の告発に端を発し、激怒する秀吉の「キリシタン全員殺害命令」は、石田治部少(三成)の尽力で、フランシスコ会の宣教師を中心とするキリシタン24人まで人数を減らして施行されることになる。
 秀吉はスペインの中南米やマニラの領土征服に神父たちが付き従うのを理解しており、『あの“蓑虫”(フランシスコ托鉢僧団のこと)どもが何をしているのか知らんのか?』と石田治部少(三成)をしかりつけた。
 スペイン人コルテスのアステカ帝国征服は1521年のことで、これが動機となりヨーロッパ人の新大陸侵略と略奪の夢を駆り立て、ピサロがインカ帝国王アタウワルパを欺して殺害し国が滅亡したのは1533年のことだった。
 はるばる日本に辿り着いたフロイスらは当初どう考えたのか?「国土は山ばかりで僅かな平地しかなく生産性は著しく低い。これほど刀を頼りにしている人々は見たことがない。」と評して植民の意味が見出だせない国と考えていた。砂鉄の資源があり鋼の武器を生産できたことが明暗を分けている一面はある。

『私は彼らを…厳罰にする機会を待っていたが、今まで見つけえなかった…』(注:私=施薬院全宗)(日本二十六聖人殉教記)

 
 真面目に秀吉の命令に従い全員のキリシタン殺害名簿を作っていた長谷川右兵衛に、石田治部少は、『…多くの人が信仰を隠しているこの時代には、私はそなたがキリシタンであるかを知らないし、そなたは私がキリシタンであるかどうかも知らない。…』(日本二十六聖人殉教記P61)と怒り、権威を持って名簿の最初に記された高山右近の名も省かせた。
 命令で捕らえられた24人は、一条戻り橋に連れてこられて片方の耳たぶを削ぎ落とされた。削がれた耳たぶはオルガンチノが拾い集めた。

「(秀吉の)命令は両耳と鼻を切るということであったが、(石田)治部少はただ左耳の一部を切るに留めるよう指示した。…おそらく後で彼らの命を救えると期待していたからであろう。(日本二十六聖人殉教記P114)

 京都の町中を引き回したあと、長崎まで徒歩で連行され、連行途中に参加を希望した2人を含む26人が処刑された。
 結局、秀吉の”言うことをきかなかった”ことが処刑の主な理由で、罪状は明文化して長崎の処刑場に掲示された。処刑人らは彼らが苦しまないよう一気に槍を刺して絶命させた。
 わざわざ船運の要衝であった長崎で刑を遂行することには全国に対する警告の意味もあった。この事件についての報告書簡を記載した後、フロイスは長崎で死去する。65歳。

ルイスフロイスの豊富な情報量と正確で豊かな表現力、深い洞察のある歴史記述はここで断筆することになるが、彼らのその後の歴史も追わなければならない。


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 一条戻橋(京都市上京区一条通19丁)は、罪人引き回しの起点。当時、処刑の前に罪人の顔を傷つける(侮辱する)ための場所となっていた。耳と鼻を落とす残酷な罰の意味や習俗には謎が多いが、当時は広く行われていた。
 ここから御所側の一条油小路の間が、「大宇須辻子」(だいうすのずし)(後述)と呼ばれたエリアで、一条油小路を今出川の方に上がると、元誓願寺通の西南角(現在はマンション)に慶長天主堂跡石碑(後述)がある。(画像はWikipediaから)

 

↑「耳鼻削ぎの日本史 」は絶版(!)になっていたが、復刻再販。「耳鼻削ぎの日本史 」文春学藝ライブラリー1580円。 フロイスの誤解についても詳述されている。

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