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 少し蒸し暑くなってきた熊谷市。真夏になればありえない程の気温になるが、今はまだマシな暑さだ。

 熊谷市のターミナル駅である熊谷駅。三つ並んだ駅ビルのほぼ中央、立体駐車場入口横。駅から直結している階段を降りたこの場所に、一人の女性が佇んでいる。
 彼女以外にも、ここで待ち合わせしている人間がちらりほらりといた。沈みかけた太陽が今日最後の熱を地上に撒き散らし、外にいる人間の汗を呼ぶ。
 駐車場横の階段入口には冷却ミスト噴霧器が設置されており、少し涼しい。故に、ここを待ち合わせ場所に指定したのだ。駅入口にも冷却ミストはあるが、ロータリーが混み合っていて慌ただしい。

 女性は白いブラウスの胸元をつまんで前後させ、少しでも扇いで涼を取ろうとする。冷却ミストにも限界はある、他の場所に比べれば遥かにマシだが。ハンカチをバッグから出そうとして、手が止まった。赤い車が目の前にやってきたからだ。
 可憐な顔立ちに笑顔が宿る。ミストの下から道路へと駆け寄る頃には、運転席から降りてきた男が助手席側のドアを開けていた。

「ごめんね、待った?」
「いえ、全然」

 ドアを開けた男は、中川路正彦であった。当たり前のように女性をエスコートすると、急いで運転席に乗り込む。

「暑かったでしょう。今度からは待ち合わせ場所、もっと涼しい場所にしよう」
「大丈夫です、そんなに待ってなかったですし。車が入りやすい場所の方がいいかなって」
「何言ってんの、そんなに汗かいちゃって。こういう時はちゃんと甘えなさい」
「……はあい」

 二人を乗せた赤い車は混雑する駅前を抜け、市街地の外れへと走り始めた。

「今日のコーデも可愛いね。よく、似合ってるよ」

 歯の浮くような台詞を、平気な顔をして、しかも自然に言ってのける。これが中川路という男である。女性ははにかんだ。素直に嬉しかったからだ。

「あとホラ、これ、お揃いだ」

 中川路が己のネクタイを指差す。夏らしいグレーのリネン製スリーピーススーツに合わせた、ネイビーブルーのネクタイ。彼女の着ているフレアスカートと同じ色。

「もしかして……俺が自宅で着替えてるとこ、覗き見したでしょ」
「えー、そっちこそ、私の着替え、覗き見したんじゃないんですかー?」
「バレたか」
「ヤダどうしよう、散らかった部屋見られちゃう!」

 冗談を飛ばし合いながら二人がたどり着いたのは、市街地からかなり離れた場所だった。県道の脇、トラックが抜け道に使う橋のたもとに、隠すように建てられたレストラン。「創作フレンチ」と看板には書いてある。
 駐車場に車を停めると、やはり先に降りて助手席のドアを開ける中川路。一連の動きがもう癖になっているのだ。それを受ける女性の方は今ひとつ慣れないらしく、たどたどしく差し出された手を取った。

「あ、ありがとうございます」
「いいのいいの、当然のことをしているまで」
「こういうの、その、慣れてなくって……アタフタしちゃって恥ずかしいです」
「恥ずかしがることなんてないさ。リードするから、委ねてしまえばいいんだよ」

 すぐ近くで見せる中川路の笑顔に思わずどきりとする。が、同時にこうも思う。この笑顔を独占することはできないのだ、と。明確な根拠はない。しかし否定できる材料も、ない。

 ドアをくぐると、コンパクトな店内の奥に案内される。中川路は既に予約を取っていた。コースメニューは決まっているので、ドリンクだけ選んでくれとメニューを渡される。
 が。彼女の視線はメニューではなく、店の片隅へと注がれていた。中川路は全て承知の上で口を開く。

「簡単なものなら大抵は作ってくれるよ、カクテル」

 隅にあったのは小さなバーカウンター。最低限ではあるが、しっかりと道具も揃っている。

「どうする、自分で作る?」
「え、それはちょっと。折角だから、自分以外の人に作ってもらいたいな」
「だよねえ」

 意地悪そうに笑っている中川路。それに気付いて、女性も笑う。

 供された料理は、和食のテイストが混ざったフレンチ。和野菜のコンソメゼリー寄せであったり、醤油の風味を効かせたポタージュであったり、わさびのソースを添えた肉料理であったり。しかも、ナイフとフォークの横には箸も置いてあるのだ。当然のように二人とも箸を使った。


 さて、創作和風フレンチを堪能し、次に二人が向かったのは再び熊谷駅前。その駅前通りから少し外れた位置にある高級ホテルの駐車場に車は吸い込まれてゆく。
 これまた当然の事ながら予約してあるわけで、彼等が足を踏み入れたのは高級スイートルーム。夜景が一望できる部屋だ。
 中川路は上着を脱ぎ捨て、ベッド脇の椅子に腰掛ける。女性も、ベッドの上に座った。

「よし、じゃあ、始めようか」
「はい」

 そう言って二人が手にしたのは、各々の手帳である。鞄から取り出した中川路の手帳は随分と大きく分厚く、付箋が大量に貼ってある。

「今月は全体的に少なめでした。新しい動きもほぼありません」
「先月言ってた、例の『チャンプ』は?」
「健在です。未だトップを保ってるみたい」

 女性の指が手帳をめくり、目的の日付を探り当てる。

「えっと、これ。先々週の火曜日。『今日も五人抜き。強い奴が最近いない』」
「取り巻きは相変わらず二人?」
「はい、変化なしです。店に来るのは大体火曜、メンバーも同じ。終わった後に来店するようで、時間は十一時頃が多いです」

 どんなに些細な情報でも、中川路は全て手帳に書き込んでゆく。彼の手帳は記載されたデータのせいで真っ黒だ。

「酒量は?」
「少ないままです。必ず一人は飲まない人がいるので、多分、車で移動してるんだと思います」
「ふむ、律儀だな。この前後の客足はどうだった?」

 矢継ぎ早に放たれる質問に、女性は手帳を見ながらよどみなく応える。彼女の話す内容は全て、彼女の勤める店の中の情報だ。

 この女性の名前は藤田ゆうき。熊谷市内のバーに勤務するバーテンダーである。彼女の勤め先のすぐ隣には大きい公園があり、夜な夜なそこでストリートファイトが繰り広げられている。この事実は世間には知られていない。
 立地条件もあって、店にはストリートファイトの参加者達が多く訪れる。その客達の容姿、特徴、会話内容、飲酒及び食事量、来店時間や回数に至るまで彼女は全て記憶し、こうやって中川路へリークしているのだ。

 中川路の手帳には、保険点数から割り出した「救急外来に運び込まれた患者」「外科、整形外科で外傷の処置を受けた患者」の情報が記入されている。その中でも特に、暴力によって外傷を受けたと思わしきものを抽出。「先々週の五人抜き」の被害者を見つけ出す。

 なぜ、こんな情報を集めているのか。答えは単純で、下っ端から黒幕の尻尾を辿ってゆこうという腹積もりなのだ。

 中川路達を襲う連中は皆、少なからず暴力に関わる者ばかりである。素人玄人の差はあっても、暴力を振るうことに関して躊躇いや罪悪感は持ち合わせていない。
 ならば相手は暴力団か、といえばそれも違う。実行部隊が反社会組織構成員ということは多々あるが、それ以外、例えばそこら辺に転がっているチンピラであったり、荒くれ者であったりもする。
 首謀者としては、やはり確実に葬りたいという気持ちがあるのだろう。暴力に縁のない人間を脅し、無理にでも武器を持たせて殺させるという手もあるのだろうが、それではやはり確実性に欠ける。それ故に、実行する下っ端は選別されるのだ。

 ストリートファイトに明け暮れる連中がいると知ったのは昨年。もしかしたら、その連中に襲撃者として白羽の矢が立つかもしれない。そう考え、中川路は彼等の情報収集を始めた。
 勿論、可能性は砂の中から金を見つけ出す程に低いだろう。しかし、元は細菌の研究者であった中川路からして見れば随分大きな可能性であった。分かりやすい情報と分かりやすい結果がおおまかに見えているのだ、昔やっていた研究に比べればどうということはない。

 藤田が把握している客情報と、推測されるストリートファイトの状況、それと保険点数の記録及び救急外来のカルテ。これらを組み合わせて、可能な限り個人を特定する。彼等になにか新しい動きがあれば即座に分かるように。


 二人の『密会』は一時間半に及んだ。中川路の手帳はますます黒くなり、隙間が減る。

「とりあえずはこんなものか」

 溜息とともに手帳を鞄の上へ放り投げ、大きく伸びをする中川路。藤田も手帳を片付け、ふう、と息をついた。首を傾けると小さく音がして、今まで随分と力んでいたことが分かる。
 中川路に倣って藤田も腕と体を伸ばしていると、隣に中川路が腰掛けてきた。ベッドのスプリングが僅かに軋む。

「俺が言うのも何だけど……大丈夫? こんな事して」

 目が合う。冗談で言っている顔ではなかった。

「店長さんにバレたらまずいでしょう」
「ええ、まあ、そうですね」
「これ以上は嫌だと思ったり、良心の呵責が大きくなったら、いつでもやめていいからね」

 本気でそう言っている。人間を散々観察してきた藤田にはそれが分かる。
 いや、本当は騙されていたのだとしても、それでも構わないのだ。彼女の求めるものは真実などではない。

「私、やめませんよ」

 真っ直ぐに見返す。自分も本気で言っているのだと、伝わればいい。
 そんな視線を受け止めた中川路は一瞬だけ息を呑み、その後、柔らかく微笑んだ。手を伸ばし、彼女の頬に触れる。そっと。

「……いい子だ」

 指はうなじを伝い、体温を確かめるように首に触れ、ふと、離れた。まるで、接着されていたものを無理に引き剥がすような感覚。藤田は思わず、離れた手を掴もうとする。
 が、それよりも先に中川路の指は藤田の長い髪に触れた。梳くように横髪を耳にかけ、顕になった彼女の耳元へ、唇を近付ける。

「ご褒美をあげなくちゃ、いけないね?」

 耳に直接送り込まれる、熱を伴った囁き。心臓の跳ね上がる音が中川路に聞こえてしまったのではないか。我知らず、ワイシャツの袖を強く掴んでいた。掴む手も、顔も、熱い。
 羞恥に震えながら、それでも彼女は陶然とした表情で中川路に告げた。

「たくさん、ください」

 ぎしり、とベッドが大きく軋んだ。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。