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11-8

「……っあー、緊張した」

 サーキットの外に出て、相田はやっと肩の力を抜いた。

「夏季休業終わったら、どんな顔してガッコ行けばいいんだろ」
「え、そんなの気にしなくていいんじゃない?」

 慰めなどではなく、心底そんな程度だという風で言い切る椿。苦笑を返して、それから首を傾げる相田。

「ええっと……ごめんなさい、名前」
「神流椿。かたっ苦しいのは無しね。こっちが佐伯司で、あっちが堀口珠姫」
「神流って、あの神流? バイクの?」
「おや御存知で」
「御存知も何も、もの凄い有名人だよ! 同い年のロードレーサーで、ほら、どっかの高校に垂れ幕がでかでかと掛かってた」
「……あぁー……うあぁー……あれかー……」

 遠い目になる椿。虚空を見つめつつ、バス停へと歩き出す。

「まあ、とりあえず帰ろう」


 バスに揺られること二十分。駅から特急に乗り、更に四十分。ターミナル駅から新幹線に乗り換えて、ここから百分。
 特急の中で全員がぐっすりと眠ってしまったため、特に会話らしい会話もなく乗り換えとなる。新幹線に乗り込んでようやく、相田がレーシングスーツを着たまま、ヘルメットを持ったままだということに意識が向いた。だが着替える気力もない。レーシングスーツの上半身を絡げている格好であるから誤魔化せるだろうと、根拠の無い結論。

 やはり新幹線の中でも熟睡してしまって、あっという間の百分。結局、特に何も話さないまま地元に到着してしまった四人は、改札口を出ると訳もなく立ち止まった。

「……今日は、本当にありがとうございました」

 相田が深く深く頭を下げる。片手にヘルメットを抱えたまま。

「俺、電車で帰るんで、失礼します」

 指差す先は小さな私鉄の改札。もう一度頭を下げて、相田は去ってゆく。彼の背中が角を曲がって見えなくなってからようやく、実感が湧いてきた。

 ああ、彼のレース生活は本当に終わったのだ、と。



 夢を、見たのだ。

 実家の電話が鳴っている。何故か、物置の隅に置いてあるはずの黒電話だ。レース編みのカバーが付いた受話器を取る。やけに重い感触。

「はい、もしもし。相田ですが」
『お、やっと出たな。俺や、俺』
「……俺なんて名前の人は知りません」
『うーわ待って! 切んな? 分かんやろー?』
「分かるけど、俺俺で済ませようとするその態度が気に食わない」
『ごめんなさい。等々力です』
「よろしい。最初から名乗っていれば良かったのだ。で、どした」
『文句言いに』
「だよねー」
『何やあの走り? あれで俺の真似したつもりなん? ざっけんなお前。俺もっと上手いわ』
「分かってるって、もーうるさいなー自分が一番分かってますぅー」
『せやったら最初っからちゃんと走っとったらええやん』
「あの方がいいと思ったんですぅーあの時はそう考えたんですぅー。いっぱいいっぱいだったんだよ」
『ま、分からんでもないから今回は許すわ。うわー俺、超優しい』
「わあ優しい。響介クンやさしいーちょうやさしいー」
『すっげ棒読み』
「とにかくうるさい。次はちゃんとやる」
『次なんて無いやん』
「……まあ、ね。完全引退宣言したしね」
『ええんか?』
「いいの。いい機会だったし、それに……」
『それに、何や』
「お前と一緒に走って、結構楽しかったから、これでいいかなって」
『……そっか。雅之がええんなら俺もええわ』
「主体性ねぇなぁー。もっと自分を出せよ! 熱くなれよ!」
『温暖化してまうわ!』
「もうしてる!」
『だったら言おうか。雅之さあ、お前、これからどうするん』
「どうするって?」
『車と関わること、やめてまうん?』
「あー、それはない。レース以外のところから何かやりたいって思ってるよ。車、好きだし。……俺の先輩がさ、レーサー以外の方法見つけりゃいいって言ってくれてさ。何のために大学入ったって、可能性広げるためですよ可能性」
『そっか、そんなら、ええわ』
「響介さあ、さっきからそればっか言ってるぞ」
『俺の優しさ。嬉しいやろ?』
「……バーカ」
『うっせえ。……そろそろ切らんとアカンっぽい。短いわー』
「え、もう」
『聞きたいことは聞けたし、言いたいことも言えたし、俺一方的にスッキリ。万事解決』
「いや、解決してねえだろ」
『次に来た時、墓、顔が映るくらい磨いとけよ! ワックスかけろ、ワックス』
「墓石にワックスってお前ね」
『メットは雅之にやるわ。そっちも磨いとけよ』
「おい、響介」
『……ごめんな。俺も、もっとレース続けたかったんや。死んでもうて、ごめんな』
「馬鹿言ってんなよ! 響介……」
『アカン、ほんまに時間無くなってしもた。次の人待ってるから、じゃ、これで』
「待て、響介、響介……!」

 ガチャリ、とやけに大きく響いて、後は通話が切れたブザー音。
 重たい受話器をゆっくりと置いてしばらく放心する。 
 受話器を随分と力一杯握りしめていたためか、掌にレースの痕が付いている。

 たった一度きりの電話だったのだと、誰に言われる訳でもなく、悟る。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。