ヘッダ二章2

業務実績 10)「屋上は寒いので、風邪を引かないようにしましょう。」

 十鬼懸組傘下『龍の巣』の殲滅はそれほど時間をかけずに終了した。それもそうだ、社員総出で対処したのだから早くて当然である。業務を終えた社員達は、やって来た時と同様に三々五々去っていった。事務的な処理は明日に回せばよかろう程度の考えである。
 何発か腹を殴られていた吹雪は事務所へ連行され、みどりに乱暴に湿布を貼られ、更に背中を叩かれた。背中にはさぞ立派な紅葉が写っていることだろう。

 戸締まりよろしくーなんて軽く言われ、みどりが事務所を去り、残されたのは吹雪ひとり。このまま事務所か仮眠室で眠ってしまえばよかったのだが、できなかった。そこにいたくなかった。

 気が付くと、吹雪は何かに追い立てられるように社屋の階段を上がっていた。向かう先は屋上だ。屋上へ通じるドアはやけに重く、彼の侵入をとどめようとする。が、体重をかけて無理矢理にこじ開けた。次はそのドアの取手に足をかけ、屋上から飛び出た形になっている踊り場の屋根に器用に登ってしまう。
 そこは、入社した直後に見つけた吹雪の秘密基地。一番空に近い場所。

 見上げれば星空。雲ひとつなく、煌々と月が輝いている。

 事務所も仮眠室も、そこにいれば嫌でも思い出してしまう。社員達のこと。今日のこと。今までのこと。自分が何をやったのか、どんな結果を招いたのか。
 独りでできると突っ走った。迷惑をかけた。あまつさえ、社員総出で尻拭いをしてもらった。みっともないところを一番見られたくない奴に見られた。
 見られたくなかったのに。自分の過去が、今いる場所にとっての敵だったという事実。洗いざらい調べればどちらにしろ判明してしまうことではある。だけど、見られたくなかった。知られたくなかった。知られてしまったとしても、その前に全て無かったことにしてしまいたかった。自分の手で、消し去ってしまいたかった。
 自分一人でできると判断したのではない。本当は、違う。無理だったとしても、隠し通したかったから。だからひとりでやろうとしたのだ。

「……あ」

 ぽろり、涙が零れ落ちる。慌てて胡座から体育座りに体勢を変え、膝小僧に目頭を押し付けた。涙が頬を伝う感触を認識したくなかった。会社から支給された制服のスラックスに涙を全部吸い込ませて、涙を無かったことにしてしまいたかった。

 くそ、とか、チクショウ、とか、つい言葉が出そうになる。だが堪える。自律神経の興奮状態を余計に煽るだけだ、声も出したくない。
 しかし食いしばった歯の隙間から漏れる嗚咽。そいつが自分の鼓膜を叩いて、現状を知らせてくる。

 自分の情けなさが嫌なのではない。社員の連中に迷惑をかけてしまった、そこが辛いのだ。それだからこそ情けないのだ。回避できた不祥事を回避しなかった結果、余計な負荷を生み出し、それを自分以外の人間に背負わせた。そこが、何より、苦しいのだ。

「詰ってくれれば、いいのに……」

 言葉が漏れた。
 何を言っているんだ。それだって結局は、逃げじゃないか。皆を利用しているだけだ。詰って責め立てられたら、自分の中の罪悪感が多少晴れるだけじゃないか。
 己の中の己がどこまでも容赦なく追求する。自分の中の声に耳を塞ぐことは出来ない。

「うるさい」

 だったら、こんな所でひとりぼっちで泣いてなんかないで、今すぐにでも下に行って謝ればいいのに。

「うるさい!」

 怖いんだ。皆から呆れられ、見捨てられるのが怖いんだ。

 最初にここへ来た時は、さっさと鉄男を倒しておさらばするつもりだった。雇用先をたった一人で潰したアイツが憎くて悔しくて、とにかくあいつを倒さなければ溜飲を下げることが出来ない、そんな気持ちだった。こんな会社なんてどうだって良かった。
 でも。
 ここは居心地が良かった。昔みたいな、当て所もなくふらふらとしながら雇用先を変え、ただ漫然と仕事をこなしている時とは違った。吹雪という一個人を認め、そして許容してくれた。どうってことはないと、言ってくれた。
 俺はただ、失う恐怖に怯えて……

「よいしょお、っと」

 突然、自分以外の声が聞こえた。血相を変えて振り向くとそこには、ドア側ではなく室外機が置いてある方からよじ登る鉄男の姿。ほぼ私服に制服の上着とコートを引っ掛けた状態。化粧も落とし、ウィッグも外している。いわゆる、いつもの格好というやつである。

「てめえッ……」
「邪魔するぜ」

 ポケットから取り出すチューハイ缶が二つ。呑気なものだ。

「なんでここに」
「何でってお前、ここ、俺の休憩場所」

 考えてみれば当然だ。吹雪よりも鉄男の方が社員歴は長い。この場所を知っているのも当たり前だった。

「そっち、いいか」
「こっち見んな!」

 つい、叫んだ。

「へいへい、了解」

 いつも通りにヘラヘラしながら鉄男は応え、吹雪の真後ろに座り込む。そして当たり前のように差し出すアルコール。

「飲むだろ?」

 吹雪は奪うように缶を受け取ると、プルトップを開け一気に飲み干した。鉄男も自分の缶を開け、口をつける。

「……あっちいけよ」
「やだね」

 見なくても分かる、鉄男はいつものように笑っている。思わず空になった缶を握り潰した。

「ホント、何しに来たんだ……クソッ、笑いたけりゃ笑えよ」
「笑わねぇよ」
「こっち見んな」
「はいはい」
「余計なこと言うなよ」
「はいはい……」

 鉄男は生返事をしながら缶を呷る。吹雪は潰した缶のやり場に悩み、結局は己の横に置いて、姿勢を胡座に変更した。
 背中越しに、鉄男の体温が分かる。微かにだが。付かず、しかし離れず、鉄男は黙って後ろに座っていた。余計なことを言うな、という吹雪の言葉を忠実に実行しているのだ。

 鉄男という男は、もっと子供っぽい人物ではなかったか? こんな自分を見たら真っ先にからかうような、そんな人間では?
 だが、実際は違った。吹雪の想像とは正反対であった。一人では悲しすぎる。しかし慰めの言葉を掛けられたら、余計に惨めになる。だからただ黙って傍にいるのだ。

「おい、鉄男」
「ん?」
「ちょっと背中貸せ。背凭れとして使ってやるから」
「はいよ」

 少し丸めた鉄男の背中は、やけに大きく感じた。見上げる夜空は腹が立つほど晴れ渡っている。星が降ってきそうなほど輝いて、そんな空に比べたら、自分はなんて小さいのだろう。

「……俺、クビになるかな」

 何気なく聞いたつもりだった。だが失敗した。言葉に出すべきではなかった。言語として認識した瞬間、吹雪の目から再び涙が零れ落ちた。自身でも驚くほどの不意打ちで。

「普通に考えたらクビだよな」

 ダメだ、止まらない。壊れた蛇口みたいに涙がボロボロ流れ落ちて、しゃくりあげるわけでもなく、ただ、涙が。

「俺さ、今までずっと適当に雇われて、適当に仕事して、根無し草みたいにフラフラして、それでいいと思ってた。それでメシ食っていけるんだからいいじゃないかって。恩義とか義理とか感じるような奴はいなかったし、寧ろヘドが出るような奴らばっかりで、でも俺だってそいつらと、同じで」

 掃き溜めみたいな所でこのまま、腐ったまま朽ちてゆくだけ。それが自分の生き方だと信じていた。他に何も知らなかったから。

「初めてなんだ、ここにいたいって思ったの、本当に、初めてなんだ。だからさ、どうしていいか分からないんだよ……」

 鼻の奥がツンとする。流れる涙が頬を伝って、流れて、頭の中は悲しみと恐れと悔しさで塗り潰される。
 皆が皆、優しいのだ。付け焼き刃の、上っ面の優しさじゃない。ただ甘い言葉を垂れ流して、取り繕うわけじゃない。時に言葉が厳しく、また何も発することがなくても、分かる。
 ここにいる鉄男だってそうだ。よく考えれば、敵対している頃にだって殺すことは簡単にできたはずだ。今この瞬間だって。なのに、彼が取る行動はどうだ? 全てが救出であったではないか。いつだって危険を顧みず飛び込んできた。それなのに、自分は礼の一つでさえ口にしていない。

 そんなことは今まで一度もなかった。だから、ずっとここにいたいと思った。そのために焦った。直情的に行動してしまった。

 それなのに。招いた結果は。導いた結末は。自分で作り出した結論は。まるで正反対で、これが本当に望んだことなのか?

「……嫌だ」

 悲鳴にも似た呟き。零れ落ちる、感情。

「……ここを離れるのは嫌だ……嫌だ……!」

 限界が訪れた。無理だった。これ以上慟哭をこらえるなんて、できやしなかった。口から声が飛び出した。
 こんな風に声を上げて泣くなんて、何年ぶりだか分からない。気が付いたときにはもう泣くなんてほとんど無かったし、いつも笑って過ごしていた。たとえ悲しくても。
 違うのだ、と、今この瞬間に悟る。堪えることができる程度の内容だっただけなのだ。自分の中で、それほど重要ではなかった。それだけのことだったのだ。


 鉄男は、まだ中身の残っている缶を横に置いた。吹雪が寄りかかっている以上、缶を呷って飲むことは出来ない。だが、それで良かった。酒を飲むためにここに来たわけではないから。

 最初に吹雪を見た時の印象と、今は随分違う。敵として出会った頃は、浮かべる笑顔はどこかぎこちなさがあった。それ以外に表情が分からない、そんな感じだった。ここに来たときもそうだ。笑ってはいるが中身がない。空っぽの器。
 今は違う、と鉄男は思う。思いたいだけなのかもしれないが。今日の行動だって、ヤツなりに役に立とうとした結果なのだろう。

 焦っているのだ、と貴士は言った。見られたくなくて、隠したくて、誰かに知られる前に始末をつけようとしているのだ、だから待ってやりたい、と。だから丸見えなのに見えないふりをした。
 それが良いことだったのかどうかなんて分からないし、そんなこと考えたくもない。良いか悪いかなんて、クソくだらない。そんな問答はゴミクズと同じだ。自分がしたいかしたくないか、それだけが重要なのだ。
 故に、鉄男は黙って見守った。貴士の言うことに納得していたから。そうしたいと、己で決めたから。

 貴士の野郎は甘い。実に甘っちょろい。境遇が似ているとすぐに感情移入してしまう。だが、それでいい。貴士も、吹雪も、そして自分も、冷徹になりきれずにどこか甘さを残して、それで躓いて、時に地面に這いつくばりながら生きている。
 だけど。辛酸を嘗めても再び立ち上がるために、力を手に入れた。泥まみれだろうが煤けていようが破れていようが、んなこたぁ知ったこっちゃない。何度でも立ち上がって、気に食わねぇ奴をブン殴ってやれるだけの力があれば十分だ。

 今回だってそうだ。いささかヤバかったが、間に合った。目障りな奴等を薙ぎ倒してやった。それでいいじゃないか。それだけで、十二分じゃないか。

 しばらくして、慟哭の声が途絶える。そのままじっとしていたが、触れ合う背中の体温が僅かに高くなったことに気付いた。
 さらに待つ。耳をすませば、小さな寝息が聞こえる。

「あー、こいつ酒弱ぇんだった」

 弱い、という程ではないのだが、この会社における酒呑みたちに比べれば遥かに劣る。英治や保と比較してはいけない気もするが……。
 長時間に渡る戦闘、極度の緊張状態、そして絶望にも近い悲観と、心身ともに疲労しきったところにそこそこ高濃度のアルコールだ、寝落ちしてしまっても仕方あるまい。

 今日の「賭け」で二郎から巻き上げた分を酒代に突っ込んだ。とは言えコンビニで売っている安酒だ。そもそも掛け金自体が端金だから仕方ないのだが。本音を言えば酒屋に行ってもっとまともな酒を買いたいところだったが、こんな時間に開いている酒屋なんて無い。ビールは好きではないので、ここ最近話題になっているやつを適当に選んだ。ただし、悪い意味での話題だ。アルコール濃度が高い割に安く、貧困層に好まれているという、アレだ。合成甘味料の味が舌に残る。可能なら、後で口直しをしたいところだ。

 鉄男は器用に体勢をずらすと、一度吹雪を寝転がらせた。気の抜けた酒を飲み干すと空き缶はポケットに突っ込み、吹雪を両腕で抱え上げる。

「結構重てぇな」

 そう言う割には、吹雪を抱えたまま軽々と飛び降りてみせる鉄男。これまた器用に足でドアを開けると、ゆっくりと階段を降りていった。
 お姫様抱っこで下に降ろしてもらった、なんてことがコイツにバレたら、顔を真っ赤にして怒るのだろうなぁ、なんて呑気に考えながら。


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。