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17-7

「ボンジュール、マダム。今日のスペシャリテは何だい?」
「今日の日替わりゴージャスランチは魚介系ミックスフライですわよ、ムッシュ」
「トレビアン。ひとつ、頂こう」
「ウィ、ムッシュ」

 日本語と英語とフランス語が入り乱れる訳の分からない会話は、陣野病院の食堂で繰り広げられているものだ。

 平日、昼過ぎ。ようやっと外来業務を終えた塩野は、食堂のおばちゃんから日替わり定食を受け取りながら内部を見回した。
 食堂隅のテーブルに目澤が一人座っている。このテーブルはほぼ彼等の定位置と化しており、座る位置も大体決まっていた。目澤は壁の角部分にすっぽりと納まっていることが多いのだが、今日も相変わらずそんな感じだ。
 当然塩野もそのテーブルに向かい、目澤の正面に陣取った。

「おう、塩野お疲れ」
「お疲れモジャ。川路ちゃんは?」
「そろそろ来るんじゃないか。あ、来た」

 どうしても外来患者数が多い内科は、業務を切り上げるタイミングが遅くなる。まあ、冬の風邪が流行る頃に比べれば随分マシなのだが。
 疲労も顕に、中川路は生姜焼き定食のトレーを持ってテーブルへとやってきた。

「お疲れさん」
「おつモジャー。今日もハードだったモジャね」
「あああああーくたびれた」

 目澤の隣に腰掛けると、椅子の背もたれにだらりと身を預けて引っくり返る。しばらく動かないままであったが、突如として体を起こすと「腹減った」と息巻いて箸を手に取る。

「最近さ、赤身肉ばっかり食うわ。サシ入ってる白っぽいのとか、キツイ」
「ああー分かるゥー。脂、キッツくなってくるよね。歳ってことモジャね」
「確かに、積極的には食わんなあ。昔はよく食ってたがな」
「たまに食べたくなるんだけど、二口三口くらい食って後悔するんだよな」
「する!」
「分かる」

 すっかりオヤジ臭い会話だ。実際オヤジなのだから仕方ない。
 下らない会話をしながら食事は進む。

「今日さあ、外来のナース連中に『大先生ごっこやりたい』って言ったら、めっちゃ否定されたモジャ」
「何だ、大先生ごっこって」
「こうさ、僕が先頭切って廊下歩いてさ、後ろから他の先生方とか研修の子とかドワーッとついて来てさ、『塩野部長の内診です』とか言ってさ、入院患者さん達を診て回るというね」
「精神科、入院病棟ねえだろ」
「ううっ」

 中川路の指摘に言葉を詰まらせる塩野。ツッコミの追撃は止まらない。

「それに何だよ、先生方ゾロゾロって。精神科担当、何人だ」
「……三人モジャ」
「その内、常勤医師は?」
「……僕だけ、モジャ」
「おひとりさま部長が何言ってんだか全く」
「な、内科と外科の先生方に手伝ってもらうもん」
「断る」
「断固拒否する」
「ひっどおおおおい! 即答!」

 オイオイと塩野が鳴きマネをしてみせるが、二人とも放置。
 どさくさに紛れて目澤の弁当からおかずを頂戴しようとして手を叩かれ、いいところ全く無し。
 さらには中川路からも「めっ」と犬の如く扱われ、塩野は塩をかけられたナメクジのように小さくなった。

「ぶー。ぶーぶー。夢見たっていいじゃなーい」
「夢見てどうすんだ。そもそも、部長なんてそんな偉いもんじゃないだろ」
「学級委員長レベルだからな。書類まとめだのハンコだの出勤日程だの」
「うちの病院はそうだけどさあ、アレでしょ、大学付属とかだと権威すごいんでしょ? 日本の大学とか凄まじいんでしょ?」

 塩野は日本の医大事情に詳しくはない。中川路と目澤は顔を見合わせて、「まあ、な」と曖昧に呟く。

「場所によるな。権力抗争してるところもあるし、緩いところもあるし。中川路はどうだった」
「俺んとこは逆だったな。部長なんて面倒なことはしたくないって押し付けあってるような変人が山程」
「あぁー、学者バカの吹き溜まりモジャね」
「残念だが、本当にバカの吹き溜まりだったから否定出来ない」

 ヘラヘラ笑って、皿の上に残った生姜焼きとキャベツを白米の上に乗せてしまう中川路。乗せながら「あ、そうだ」と話題を変更する。

「今度の土曜、皆日勤だろ? 飲みに行こうや」
「ああすまん、自分、無理だ」

 目澤が片手で拝んで謝る。

「なんで」
「毎週土曜は、みさき君が夕飯を作りに来てくれるから」

 さらりと言ったので中川路も塩野も普通に納得しかけ、少々の間が空いてから、その内容の衝撃的な事実に気が付いた。

「はいいィィィ?」
「な、何だって?」
「いや、だから、毎週土曜は、みさき君が夕飯を……」
「ッ毎週?!」
「お、おう、毎週」
「いつからやってんだそれ!」
「ええと、先々週から」
「先々週!」

 叫ぶだけ叫んで、二人はようやっと興奮を収めることができた。目を丸くして顔を見合わせると、空気が抜けるような溜息をつく。

「なぁんだ、そんなとこまで発展してたんだァ。オイチャン、安心したモジャ」
「毎週だってよ。いいねえ、通い妻だ」
「お前ら、そういう下衆の勘繰りは良くないぞ。彼女は善意で夕飯を作りに来てくれているのであってだな」

 目澤と二人との温度が違う。その温度差に嫌な予感。中川路も塩野も、渋柿をそれとは知らずに食べてしまったような顔になる。

「善意って目澤っちさあ……もしかして、目澤っちの部屋でご飯食べて、その後はなぁんにもないの?」
「何もって、それはないに決まっているだろう。帰るだけなんだから」

 言い切って壁に寄り掛かった、その瞬間。
 目澤のこめかみをほんの僅か掠める拳圧と共に、腹の底に響くような衝撃音。中川路の右拳が背後の壁にめり込まん勢いで打ち込まれたのだ。あとほんの僅か横にずれていたなら、確実に目澤の鼻梁を潰していたはずだ。
 その拳はきっと、中川路が今まで放ってきた正拳突きの中でも最速のものであっただろう。気が抜けていたとはいえど目澤が反応しきれなかったのだから。
 突然の大きな音に小さく悲鳴が上がる。食堂には彼等以外にも人がいるのだから仕方ない。

「ちょ、か、川路ちゃん、何やってんのさ、ちょっと」
「うるさい黙ってろ。おい目澤、お前、今、何て言った」

 立った位置から見下ろす中川路の顔は、怒りのあまり無表情であった。完全に気圧される目澤。

「何もない、と言ったな」
「は、はい」

 思わず敬語。縮こまる目澤。

「お前、一度死ぬか? そうすれば男女の機微ってもんが分かるようになるか?」
「死ぬのは、勘弁して……下さい」
「なら、死ぬ気で理解しろ。そろそろ限界だ」

 必死に何度も頷く目澤に、ようやく中川路は拳を下げた。壁がみしりと音を立てたような気がする。
 腰掛けた中川路の方は深く溜息をつくと、先程の殺意を多少減退させて真っ直ぐ目澤を見た。

「俺も、もっと根源的な部分から見直す必要が有るかもしれないな。分かっているだろうと楽観視していたのが悪かった」

 膝の上に両肘を乗せ、少し前のめり気味の姿勢で、中川路はこう、問う。

「目澤、お前……加納さんのこと、どう思っているんだ」

 目澤の口から「ひっ」と言うかすかな悲鳴。だが、それを掻き消すように周辺から音の洪水。食堂内にいる人間全員が一斉に立ち上がったからであった。

「そうですよ目澤先生、どうなんですかそこんところは!」

 最初に詰め寄ってきたのは、臨床検査技師軍団。区別のための青っぽいユニフォームで周囲がみっしりと埋まる。

「前から気になってたんですよそこんとこ!」
「いっつもはっきりしないつうか、いい年こいて何すかその態度!」
「そうだそうだ! はっきりしろ!」

 そこに割り込んできたのは、いつも一緒に昼食をとっている受付と看護師の女性二人組だ。

「そうですよ、はっきりすべきです! いつまでもウジウジしてると妄想の餌食にしますよ!」
「っていうか若くて可愛い女の子には興味無い系か! それはそれでアレだけどこの場合はどうよ? アカンじゃろ!」

 叫びまくる女性陣。それよりも気になったのは後半の言葉だ。

「あれ、ええっと、どうして、可愛いって知っているんだい」
「そりゃあ、前にここまでお弁当届けに来てくれたじゃないですか」

 冷徹そのものといった体で解説してくれたのは看護部長。手にはご飯茶碗と箸を持ったままだったが。

「あの時、ピンときたんだよね。可愛い子がお弁当持って『目澤先生に届けて下さい』って来た時にさあ。で、塚越捕まえて目澤先生連れて来いって。ね?」
「そうそう。私も、それは直に渡さないと意味無いだろうって思って。そん時に見たんですよ彼女を。めっちゃ可愛い子だった」

 言われてみればそうだった、と目澤はようやく思い出した。
 三月だったか、確かその辺で一度、みさきが直に病院まで弁当を届けに来てくれたことがあったのだ。外来業務が始まる前で、急いで来いと言われて猛ダッシュした記憶がある。その時に呼びに来たのは、そう、ここにいる人達だ。

「目澤先生もいい歳なんだから、はっきりしなさいよ全く」

 食堂のおばちゃんまで出てきて小言を言う。目澤は完全に包囲されてしまった。物理的にも、精神的にも。

「もう逃げられんぞ目澤。さあ、この場で白黒つけてもらおうじゃないか」

 中川路が距離を詰めた、その時。
 目澤の院内PHSがけたたましく鳴り始めたのだ。ここぞとばかりに出る目澤。

「っはい目澤です!……急患、症状は」

 急患、という単語に周辺の空気は一変した。
 中川路が椅子を引いて、目澤の通る道を開ける。小走りに駆け出す目澤の後を看護部長が追う。
 目澤が呼ばれたということは即ち外科的処置が必要な訳で、そのために必要な器具のチェックに看護師が動き、諸々の事務処理のために受付が走る。
 食堂にはあっという間に人がいなくなり、後には中川路をはじめとする数名が残された。

「……仕方ない。追求はまた後で、だな」
「命拾いしたモジャね、目澤っち」


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。