17-6
そこから土曜日までの時間経過は早い。目澤にとっての時間経過である。歳を取ると時の流れが早く感じられるが、それがますます加速しているような気がする。一週間というものはここまで短かっただろうか。
目澤はそれを、今週いっぱい詰め込まれた手術のせいにした。ほとんど手術着で過ごしていたような気すらする。
その手術着でうろうろしていると、臨床検査技師の男性陣から「目澤先生、鍛えてますね」と唐突に言われた。土曜、午前の手術を終えたところだ。
「まあ、多少は」
自分のやっているレベルがどれくらいかよく分かっていないのだが、世間一般のごく普通、ではなかろうと思う。
目澤の実家は古武術の道場を開いている。幼い頃からその古武術を習得してきたので、普通以上にはなっているはずだ。とりあえずは道場の非常勤師範という立場でもあるし、普通ではよろしくないだろう。
館長である養父、元来なら叔父に当たる人物なのだが、この人が「毎週帰って来い」と言うがそれは無理だ。二週間に一回が限界である。帰省するたび道場で門下生に稽古をつけ、さらに館長から稽古をつけてもらい、心身共にヘトヘトになって帰ってくる……無理だ、毎週など無理に決まっているではないか。
まあ、あれだけの稽古をつけてもらえば誰でも鍛えられるであろう。目澤は、そう思う。あれを耐え切れば絶対にそうなる。ならない訳がない。
中川路にも最低限の護身術を身につけさせるため、道場に通わせた時期がある。「二度とやらん」と言ってはいるが、それでもなんとかこなした中川路はそこら辺のチンピラより強くなっている。
塩野にも道場通いを勧めたが全力で拒否された。回避するためなら目澤に対する解体も辞さぬ、とまで言われてしまえば無理強いはできない。
実際のところ、塩野は身内に対して解体も洗脳も、心理を暴くことも絶対にしないというのは分かっている。それでもまあ、そこまで言うなら仕方ない。
自宅で筋トレもしているしなあ、と、後からおまけのように思い出した。朝起きたら一通り型の稽古、これも完全に習慣と化している。こちらも考慮すべきだろう。
以上を鑑みて「多少」などという返事になるのだが、語弊があるような気がしなくもない。
「だって目澤先生、隠れマッチョだもんよ」
「脱ぐとスゴイ系ですよね」
「うーん、どうなんだろうねえ。自分ではよく分からないんだ」
「手術着ん時に、ココらへんに視線感じませんか?」
二の腕の辺りを指差され、言われてみれば、と思い出す。
「この前、ナースセンターで捕まって触られたな」
「あぁー分かる、俺ちょっと分かっちゃった。どうしよ、変態なのかな」
「筋肉フェチ!」
笑いながら、臨床検査技師軍団は食堂へと吸い込まれてゆく。自分も食堂へ行きたいが、その前に汗を流してしまいたかった。
実は本日、午前中のみの勤務である。多少やっつけなければならない書類が残っているが、それでも二時には終わるだろう。その後に予定が入っていて、汗を流したいのはそのためだ。
一旦自宅に戻った方が良いだろうか。悩みどころである。
結局、目澤はそのまま書類仕事を片付け、食堂にも寄らずに帰宅した。自宅でシャワーを浴びて着替え、軽く片付けをしてから外へ飛び出す。今日は待ち合わせをしているのだ。
場所は熊谷市に昔からあるデパート。デパートの玄関先には大きな温度計が設置されており、この時期になるとニュースの画面に大写しされていたりする。外気温などという現実はあまり直視したくはない。
少し離れた位置にある立体駐車場に車を停め、小走りに待ち合わせ場所へ向かう。時間に余裕はあるが、万が一ということもある。急ぐに越したことはないだろう。
途中で、小さな喫茶店を見つけた。シナモンロール専門店だそうな。ディナーではなく、こんなところに連れてくるのも良いだろうか。そんなことを考えつつ、あっという間にデパートの正面玄関前へ到着してしまった。慌ててネクタイを直し、上着をちょっと整えて、それから、歩いて中に入る。
エントランス部分の片隅に彼女はいた。目が合って、頭を下げる。
「申し訳ない、待たせてしまって」
「いえ、全然、全く待ってないです」
ぷるぷると何度も首を横に振る様が子犬を連想させる。みさきは目澤に比べて随分と小さいので、余計にそう思えるのだろう。
本日の待ち合わせ相手とは、そう、この加納みさき嬢である。懸念事項を解決すべく助力をお願いしたいのだ。快く引き受けてくれたので、とにかく彼女には頭が上がらない。
この後には買い出しもあるので、出来る限り手伝わねば、と思う。
向かう先は六階、キッチンウェア売り場。今回の目的は「台所道具と食器を買う」ことである。
先週、みさきに夕飯を作ってもらって痛感したのは、色々足りないという現実であった。道具が足りない。食器も足りない。調味料も足りない。
あの後、とりあえず炊飯器は買った。が、道具類と食器類は何をどれくらい取り揃えればいいのか全く分からない。ならばみさきに直接聞こうと、このような事態に至ったわけである。
まずは道具類から。フライパンは先週持ってきてもらったので、それ以外。
幾つかの大きさが異なる鍋、大きいまな板、この際だから包丁も新調。
今まで使っていたまな板は、どこで買ったかも忘れた小さいものであった。包丁は「今あるもので大丈夫」と言うみさきを抑えて強引に買った。自宅にある包丁もやはり、いつ買ったかさっぱり分からない。もしかしたら実家からもらってきたものかもしれない。
あとは木べらに計量スプーン、計量カップ。揚げ油用の油壺はみさきが力説するので購入。あれば便利だということでトングとキッチン用ハサミ。保存用の大きいタッパー。
次に食器だ。平皿は何枚かあるから大丈夫だろう。問題はそれ以外がほとんど無いというところだ。
まずは茶碗がありそうな箇所を探す。ずらりと並んだ茶碗を眺めてはみるが、どうもピンとくるものがない。無いと言ってもどうしようもないので、とりあえず適当に茶を濁そうとした時だ。
目の片隅に、一つの茶碗が飛び込んできた。薄い灰色の地に艶やかな杜若の絵。
だがそれは、少し値の張る和食器売り場のディスプレイとして飾られていたものだった。
「うーん」
実家の近所に、杜若が咲いていたのを思い出す。気が付けばそのディスプレイの前で腕組みをしていた。
男性の店員がこちらに気付いて接近してくる。対応が面倒だな、と一瞬思ったが、店員は言葉少なに
「あちらに、絵柄違いもございます」
と一言だけ告げて離れた。言われてみれば確かに、和食器コーナー奥には違う花が描かれた茶碗があと四つ。どうやら、五つの絵柄で展開するセット商品であるらしかった。
桜。木蓮。たんぽぽ。鷺草。そして杜若。茶碗は大きいものと小さいもの、さらに揃いの湯呑もある。
「あ、可愛い」
みさきが鷺草の湯呑を手に呟いた。
その姿を見た目澤の行動は素早かった。先程の店員を呼びつけると、鷺草の小茶碗と湯呑、さらに杜若の大茶碗と湯呑を指して「これ下さい」と言い放ったのだ。
「お包みいたしますか」
「いえ、結構です。あとこれも」
近くにあった漆塗りの汁椀も二つ。慌てるみさきをよそに、店員はてきぱきと商品をピックアップしレジ奥へ運ぶ。
「あの、目澤先生」
「みさき君の分も必要だろう。丁度いいのが見つかって良かった」
ぽかんと呆けたみさきの顔がすぐに、花が咲いたように明るくなって、微笑む。
「ありがとうございます、私の分まで……嬉しいです。でも、こんなに沢山いいんでしょうか。それに、その、お値段が、ちょっと」
「必要なものだからね。それに、きちんとしたものを買った方が長持ちするだろう」
目澤の意識はすぐに会計へと向いてしまう。そのため、彼の背後でみさきが顔を赤くしながら小さく「おそろい」と呟いたことには、まるで気付かないままであった。
しかし店員からは丸見えだった。会計を済ませる目澤が少し浮かれた調子であるのも、後ろにいるみさきの顔がトマトの如く真っ赤であるのも、当然ながら全部見える。
だが、百戦錬磨である店員は余計なことを言わず、ただ黙々と食器を梱包し会計を行った。このお客様ならばきっと夫婦茶碗を買うだろうという予測が当たっただけでも、本日の収穫としてはかなり大きい。一見すると親子にも見える二人が、実際は親子ではないと見抜く事ができた。まだ自分の眼力は衰えていないぞと確認できたのだ。
店員は笑顔で見送る。ありがとうございましたと、去りゆく背中に声を掛けながら。
この後、デパートの地下にある生鮮食品売り場にて食材を買い求め、目澤宅にてみさきが腕をふるった。ちなみにメニューは棒々鶏である。
こうして、第二回目の夕飯も、それこそ何事も無く成功したのである。
恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。