彼女たちの告発は、すべての“私”に向けられている

セクハラの問題が提起されるとき、いつも自分自身がそれにどう相対すべきか、わからなくて困惑してしまう。「支持します」も「賞賛します」も「相手が許せない」も、どれも自分のなかではしっくりこない。

そうこうしているうちに、今回もまたスネの傷の突き合いがはじまり、悪者探しみたいな濁流が、いろんなものを呑み込んでTLを流れはじめていたりする。

そういう何もかもを見ながら感じるのは、怒りや義憤とかではなく、ただシンプルな悲しみだったりする。誰かが誰かを踏みにじり、その痛みを口に出せば、また違う誰かが口にした者に踏みにじられたと石を投げる。結局いろんなところで石の投げ合いをするしかなくなってしまったのかという、虚脱感としかいいようのない気持ちが今、心をふさいでいる。

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大学に入った頃だっただろうか。どういう状況だったか細かいことはもうすっかり忘れてしまったのだけれど、高校時代の友人が2人、僕のアパートに遊びに来たことがあった。

男の友人1人と女の友人1人だった。特に恋人同士とかではない。ごくごく普通の友人同士だった。

その途中で、何の用事だったか、僕が途中で家を出なければいけなくなった。家を空けた時間は覚えていない。30分程度だったか、もしかしたら1〜2時間くらいあったかもしれない。

その日は戻ってきてからごはんでも食べて解散だったと思う。普通の、友だち同士のちょっとした家飲みだ。

何もかもがうろ覚えのその日のことを、なぜ今も覚えているかというと、そのあと遊びに来ていた女友だちが僕にそっと言った言葉が忘れられないからだ。

「あのね、もちろん何かする人じゃないのはわかってるけど、それでも部屋に男の子と2人きりになると、やっぱりちょっと怖いものなんだよ」

もう20年近く前のことだけど、今でも彼女の言葉をときどき思い出す。もちろん彼は何かするような人間ではないし、実際何かされたという話でもない。彼女も恐怖に震えながら話したわけではなく、すごく落ち着いて優しく、本当にそっと告げてくれたものだ。もちろん友人の彼をとがめているわけでもないし、僕に対してすら特にとがめるというニュアンスではなかった。

「ああ、これが暴力性か」と、そのとき初めてぼんやりと思った。誰ひとり邪悪ではなく、悪意もないし、彼女もそれを間違いなく信頼していた。そして具体的なハラスメントもそこには存在しなかった。それでも、そこには恐怖が生まれてしまう。ただそこにいるだけで、人は人にある種のプレッシャーを与えうるのだ、という事実を突きつけられて足がすくむような気持ちになった。

こういう話をすると、ネットでは「自意識過剰」と叩く人が現れる。だけど、同時に何かがあったときには「女性にも隙があった」「危機管理が甘い」という声が飛んできてしまったりする。そういう理不尽な世界で、彼女の感じた小さな恐怖は、それをそっと告げた声も含めて、ものすごく真っ当なものだと僕は今も思っている。

我々はそういうふうに、望むと望まざるとに関わらず、可能性を含めた暴力性を内包しているのだ。

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「この一件があったから、以来暴力性には敏感になり、セクハラやパワハラをしないようになった」という話ではない。実際、会社員時代に同僚を叱責して激昂されたこともあるし、飲みなどの席で女の人にずいぶん失礼だったりセクハラに当たるようなことを言ったこともあるはずだ(しかも僕は下戸だから酩酊などしていない)。

今だってたとえばどこからどこまでがセクハラになるのか、明確にわかりなんてしない。気付かず自分の暴力性をどこかで誰かにぶつけている可能性がある。

だから、はあちゅうさんをはじめとした#metooでの告発は、僕にとって難題だった。もちろん告発にあったような露骨なセクハラやパワハラをしてきたわけではない。当然したいとも思わない。

けれど、暴力性は悪意や意思、自覚とは無関係に誰もが持っている。だから、僕にとってあの告発は、岸さんや告発の対象と同時に、僕自身に向かって飛ばされていると感じてしまうのだ。

そうなってしまえば、「支持します」なんて言葉はどうやってもしっくりこない。義憤も賞賛も違う。かといって「ごめんなさい」というのもまたズレている。是正されなければならないし、社会はあの告発を守らなければならない。けれど、「この私」は宙に浮いてしまい、どこから声を上げればいいのか、戸惑いがぬぐえないままいる。

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「ナイーブに過ぎる」ともしかしたら人は言うかもしれない。

「そんなことを気にしていたら何もできない」
「何でもかんでもハラスメントになるのか」

まったくそのとおりだ。でも、じゃあ「何が人を苛むかなんてわからないから好きにすればいい」でいいのか、と言われたらそれはやっぱり違うだろう。

悪意を持ったハラスメントはもちろん許されない。だけど、無意識で悪意がなければ許されるわけでもないはずだ。

ハラスメントの問題は、「誰が何に傷つくのか、誰にもわからない」というコミュニケーションの真っ暗闇を突きつけてくる。そして、それは告発された人だけでなく、すべての人に降り注いでいる。老若男女を問わず、あなたにも、私にも、さらには告発した本人にも、だ。

それはとんでもなく不便な投げかけだ。誰もが常に自分の暴力性に恐怖しながら生きなければならない。

けれど、それは「怯えて生きろ」ということではない。自分のなかに暴力性があるという事実をせめて忘れずに生きるということだ。

自分のなかの暴力性を黙殺する限り、ハラスメントの告発は永遠に悪者探し、生け贄探しにしかたどり着かない。誰もが加害者である可能性を秘めているという葛藤だけが、この話を前進させてくれるはずだと信じている。

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