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最終目的の基底

書かなきゃ、早く、遺書を書き上げなければ。

という衝動だけはあるものの、そもそも何を書けばいいのかよくわからないし、書かずに死んでも良いのではないか、という気持ちもある。

なんだか別に遺書なんて書かなくったって気にせず死ねば良い気がしてきた。書かずに死んだらそうだな、Theモラハラを体現したみたいな父親が無駄に母親を責める気がする。(どちらがと言われれば圧倒的にお前が悪いぞ𝑴𝒚 𝑭𝒂𝒕𝒉𝒆𝒓(^^)) あとはそうだな、正直想像が付かないな。

元々何故遺書を遺さなければという観念に駆られているのだろうか。恐らく理由は大きく3つ。

・死ぬ方法が何であろうと事件を疑われて無駄な捜査をされるのは非効率で迷惑。
・仮に身近な人間と呼べる人間が未だ居た場合、どう思われようと感情面や精神面では少なからず影響があり、それを馬鹿な長文で惑わすため。
・己の人生の最終目標であり最終目的の思想の完全を実感し、あわよくば同類の踏み台となるため。(ここでいう同類は、此処noteに残したものやTwitterに共感や反感を覚え思考を巡らせ続ける者などを指すとしておく。直感的に同類だと思えばそれでも良い。)

1つ目はまあよくある理由だろう。2つ目は友人が何も遺さず死んだ故に思ったものだ。非常にその人が無責任に感じた。義務と責任感だけが今の私に生きるために残された枷だから、周りの人間に対するそれは最期まで持ち続ける為に。3つ目は只の自己満足以外の何者でもない。そしてこのnoteも短文のTwitterも、描き散らしている絵も、全て其の為の基底でしかない。

感情は時々あれがやりたいこれがやりたいと欲を囁いたり大声で主張してきたりする、死ぬ瞬間の痛覚は嫌だと喚いている、それでも何処かでは死にたいが残り続ける。理性は其の欲を満たせと言ってくる、死にたいは死にたいが後回しにしろとも言ってくる。

感情と理性もギリギリ生に繋ぎ止める錨となってくれるが、此奴がどうも毎秒質量を変えてくる。錨の癖に小石程度の時がある。だから役割を果たせる程度の質量は持ち続けてる、義務と責任感だけが信用できる錨である。

···さて、何から書き始めるべきだろうか。良かったら何か助言をいただけないだろうか。

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