言葉で吐くということ
こうしてネットの海に放流すると決めた文章は、どうしても他者の目を意識してしまう。そうではない誰にも見せないつもりの、手書きのノートでさえもそう。これは多分だけれども、未来の自分という他者を気にするからなのかもしれない。いや、わからないけれど。
書きたいことは山ほどあるから何から書こうか迷うけれど、最初の方だし「書くこと」そのものに言及したいと思う。
まず始めに断っておくと、〜と思う、気がする、といった断定しない書き方が多いのは、自分が言うことに確信が持てないから。どこまでを主観と、どこからを客観と言うのか未だによくわかっていないから。くどくて読み辛いのは申し訳ないと思っています。
言葉という手段
一般的には、理解は言語化が必要だとされていると思う。理解できたということは、自分の言葉で説明できることだ。ということを聞いたことがある。たしか受験のときだ。
しかし本当にそうだろうか。
私個人的には、言語化はできないけれど理解しているものはあるのではないかと思う。それが顕著に表れているのが芸術と呼ばれる分野であろう。美術、彫刻、音楽、舞台、ダンス、etc…何でも良い。言葉の代わりの表現で、所謂「なんとなく」の領域があるのではいかと思っている。その中であれば自分は絵やら楽器やらで行動している。
それでもこうして言語化しているのは、最初に出てくるものが言葉だからに過ぎない。他に理由付けをするとすれば、一番手っ取り早いからだ。一番伝わりやすいし、一番伝わったかどうかが確認しやすい。本当に100%完全に伝わっているのかは確認のしようがないが、少なくとも他の手段よりかは。
欲求
本当の自分を理解してもらいたい、などという欲求はない。本当の自分ってそもそも何だ?理解してもらえたという感覚?解釈一致なだけでは?と思うから。しかし自分の思想は知ってもらいたいと思っている、身近な人間ほど、近しい人間ほど。そして同時にその人の思想を知りたいと思う。思想と言うと堅苦しいな、価値観や人生観と言ったほうが良いのかな?それに対して自分があれこれ考えたいし向こうにも考えてほしい。その交流を通してこの思想からまた一歩進めるのではないかという希望がある。そうでなくとも、知ってもらえて何かしらの感想を抱いてくれただけでも正直嬉しい。人間として認めてくれた感覚を覚える気がする。ここまで勝手な想像であったとしても、可能性として在るだけで十分。
しかしやはりこのような話をするのは難しい、切り出すのも流れで言葉を紡ぐのも。
だからこうしてネットに晒している。ここなら言葉を、好きなだけ時間をかけて選べる。今のところ他に丁度良い方法を知らない。
吐き出すつもりが第一でありながら、やはり言葉という選択肢を取った以上、少しでも簡単に伝わってほしい。絵は伝えるつもりで公開していないし、自分でも言語化できないという意味でよく分かっていないものだから、せめて伝わりやすいツールでは伝わるように書きたいと思って書いている。
これからも、このような心積もりでここに書いていくのだろう。また言葉として出てきて、ある程度まとまったら投下していく。よろしければ、また次回。
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