見出し画像

文肉

文章というのはどうも言いたい骨に各々のやり方で、例えば比喩であったり例であったり同じことを言い換えてみたり反語を使ってみたりと肉をつけて伝わりやすく、心に響くようにしていくもののように思える。この骨と肉の例えもそれだ。

要約は骨だけにする作業なのかもなと思う。ただ自分では骨だけにしたつもりでも、骨を一部欠損させてしまったり、肉を残しすぎてしまうこともある。この辺りは訓練なんだろうけれど、昔は要約なんてしなくてもそれ自体で完成された文章なのになんて思っていたから、最近になってようやくこの作業の意味がわかってきた気がする。肉が付いていたら骨は見えにくいから取り除くのかな。

自分が書く文

しかしこの文章やツイート(ポスト)は、自分の頭から出てきたそのままを書いている。結局何が言いたいのかを考えないまま、多少表現を統一したり変えたり文章構成を整えたりはするものの、ほとんど脳内をそのまま垂れ流している。

何を言いたいのかわからないまま、というかそれを自分で理解するために書いている。最初の記事でも書いたが、この自分の中身に関する言語化は本当に良いことなのかもわからない。けれどもぽつぽつと言葉として脳裏に浮かぶのであれば、少なくともその浮かんできたものだけはこうして出力しようと思って書いている。

話は変わるがそういうストレスの発散方法はあるらしい。思うままに書き殴るというのは良い方法と聞いた。自分はそれをこう、何故か公開しているだけなのだ。

言い訳

最初に肉付けの話をした。その肉の中に「言い訳」が存在するのだと思う。実際に他人に見られる・見られないに限らず、自分のことを吐き出すように書くときは、書いている自分以外の目を意識してしまう。その意識から繕うように出てしまうのが言い訳だろう。果たして自分が書く文章の何割がその言い訳なのだろうか。

世に出す文章は大概見た目が美味しそうな綺麗な肉であろう。こうして吐き出しただけの文章は不味そうなものだ。インターネットとSNSの発達によってそういった文章を目にする機会も増えたかもしれない。この文章もそうかもしれない、言い訳は全部余計な脂かもしれない。

言い訳塗れかもしれないが、いつかの自分が、或いはどこかの誰かが「お前ここは言い訳だろう」と削ぎ落としてくれるのならば、こうして今何を思うかを書き記しておいてもいいのかな。と思いながらつらつらとここに打ち込んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?