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サウナ遊戯 ―副作用のないドラッグ―

『ととのう』…サウナー(サウナを好む人たちのこと)の間で当たり前のように使われるこの言葉。サウナで得られる『ととのう』という感覚を味わいに多くのサウナー達は毎日のように灼熱地獄に身を投じる。


 そんな自分も、気が付けばサウナーとなっていた。

 最初はサウナも水風呂も嫌悪していた。子どもの時から湯の温度は38度くらいが心地よかった。よく熱い風呂に水をつぎ足し、親に怒られたものだ。そんな私としては、わざわざ何分間も熱された空間に入る意味など到底理解できなかった。そんな辛い思いを好き好んでやらなければいけないのか。また水風呂も、なぜあんな冷たいただの水の中に浸からなければいけないのか、意味が分からない…。


 しかし考えは一変した。

 サウナに入るとそこには数人の中年男性たち。90度はくだらない空気にさらされた肌があげる悲鳴が、中年男性たちの肌を光らせる。むき出しの板にひかれたバスタオル。その上におもむろに腰を下ろす。その瞬間、バスタオルが吸収していた水分が周囲の熱で熱されており、臀部を刺激する。しかし「あつっ!!」などとは言えない。当たり前のように、『いつも通りです』という雰囲気を出さなければ、周囲の中年男性から「また素人が来たな…」という嘲笑にも似た視線を向けられることとなる。


 座って10秒ほどたつと、普段なら意識せずともしている呼吸に違和感を覚えることとなる。そう、熱気が口腔から食道、そして肺を熱しているのである。鼻呼吸に変える。すぐにその判断は間違えと気づく。鼻には粘膜がある。その粘膜が瞬時に熱され、唐辛子を鼻の中に詰め込まれたかの如く、激痛を感じることとなる。口呼吸に戻す。鼻呼吸よりはましだ。ベストではなくベター。


 1分が過ぎるころ、不思議な感覚を感じることとなる。周りの空気の温度が冷えたのか?さっき新しく入ってきた人がドアを開けたことで、空気が冷えたんだろう。…違う。皮膚の表面温度が空気の温度に近づいたのだ。しかし我々は恒温動物。変化したのは皮膚の温度だけで、内部は正常な体温を保つ。

 5分が過ぎたであろうころ、時計を見て衝撃を受ける。「2分しか…経っていない…だと?」さっきまで、慣れてきたと思っていた身体は、脳の錯覚であることに気づく。時間間隔は不思議だ。楽しいことをしているとき、時間はあっという間に過ぎる。その状態を「フロー状態」というと脳科学者が言っていた。「没頭」という言葉に近く、何か物事に集中して取り組んでいるときにおこる心理状態であるらしい。幸福感すら感じながら、長い時間が一瞬で過ぎていく。じゃあ、この時間が長く感じる現象には名前があるのだろうか。『時間が短く感じる』ことが『幸福』なら、『時間が長く感じる』ことは『絶望』なのか。…そんなことを考えているうちに3分が過ぎた。

…ポタッ。太ももに、汗がしたたり落ちる。気づいたときには、あなたの体には無数の水滴に覆われる。ニュートンが万有引力に気づかなければ、おそらく自分がその法則に気づいていたかもしれない。汗を地球が引っ張っている。水滴と水滴が引き合い、大きな結晶となり、地球の中心に向かって引き寄せられる。その汗はもちろん中心まで落ち続けることはできない。道半ばでサウナの腰掛、檜が優しく受け止める。木は水分を吸収する。サウナの木には、これまで利用した数限りない中年男性の汗が染みこんでいるのでは?とふと思ったが、汚さや穢れを一切感じることはない。むしろ、自分もその歴史に汗という形で刻むことができることに喜びすら感じる。4分が過ぎる。


『ジュルッ…ジュルジュル…』。サウナに響くこの音は、中年男性たちが顔や体に付いた汗をその大きな手で拭う音である。横目でその姿を確認する。足を組み、頭をタオルにかけた男性。上腕を境に、くっきりと色が分かれている。仕事によるものではなく、恐らくゴルフに興じた結果だろう。サウナ室では単発的なコミュニケーションが行われる。そのほとんどはゴルフと野球、3割はギャンブル、2割は天気やニュースの話である。その話に全く疎い私は、逆にイメージできないためにその空間にいることが苦ではない。賛成の意見も反対の意見ももたないため、サウナ室のスピーカーから小さく聞こえるクラシックと何ら変わらない。…その男性はしきりに肌を拭っている。『ジュル…ジュルッ…』拭うたびに、汗は周囲20cmほどに飛び散る。幸いにも、距離があるため自分には全く影響がないことが分かり、再び視線を戻し、自分に意識を集中させてみる。


 おもむろに汗拭いの中年男性が立ち上がる。立ち上がると同時に自分も含め、周囲の人たちが姿勢を正したり、瞬間的に視線を向けたりする。サウナ室は狭い。誰かが出るとなるとぶつからぬよう、少し体を傾ける必要がある。下段の人が肩を寄せ、道を作る。その道を身体を横向きに、一段下りる。下りた衝撃で、大量の汗が飛び散る。さすがになれているのか、下の男性たちは全くいやな表情一つせず、中年男性の退室を無言で見送る。


 6分が経った。サウナの中には、自分を含め、4人の男たち。そのうち2人は自分が入って2分後に入ってきた知り合いと思われる中年男性。そのうち1人は自分が入る前から、サウナ室の角、恐らく熱気がこもりそうな場所に胡坐をかき、頭にタオルを乗せ座っていた。…その時、自分でも思いもよらない、予想もできなかった感情が無意識下より浮かんできた。それはすごく幼稚なものであるし、いや、幼稚というよりも原始的ともいうべきかもしれない。人間は社会的動物と言われている。心理学者のフェスティンガーが社会的比較理論を提唱し、人間を人間たらしめるのは、社会的比較という『比べる』ことにあるという。…そう、「負けたくない」という感情である。その感情が湧き上がってきたのである。サウナに入った時、勝ち負けを競おうという気持ちなど微塵もなかった。その男性も自分のことを競い合う対象としてみていないだろう。しかし、自分の心に湧き上がってきた「負けたくない」という感情をなかったことにすることはできない。


 7分が経つ。熱い。サウナ室の天井付近にかけられた温度計に目をやる。温度計のカバーの曇りは激しく、正確に読み取ることはできないが、おそらく93度。熱い。熱い。…なぜ、93度でも火傷を負わないのかの理由は、事前に調べてあった。93度に熱された水を触ればたちまちに火傷を負う。しかし、サウナ室では空気が乾燥し、皮膚の汗がその高温で気化し、気化熱によりその温度を下げている。それが火傷を負わない簡単な理由である。しかし、そんなことはどうでもいい。今、自分が気になっているのは、角の男性である。

 ほぼほぼ、限界と思える状態に近づいている。この熱さから解放されたいという身体からの要求に応えない。身体をコントロールしているのは、脳である。脳の命令なしに、立ち上がり、このサウナ室を出ることはありえない。例外があるとすれば、このサウナ室に数人の屈強な男たちが入ってきて、私の両手両足をつかみ、引きずり出すことぐらいだろう。または、この瞬間意識を失い、それに気づいた別の利用客に外に運び出されることぐらいであろう。しかしそれはない。貧血を起こすような生活習慣を送っているわけでもなければ、熱中症予防の知識も備えてもいる。それに十二分にまだ意識ははっきりとしている。…男性の様子はどうか。全く入室時と変わらぬ様子でそこに鎮座している。汗をかいていなければ置物かと疑ってしまうくらい微動だにしない。自分より、後に入ってきた男性二人が何やらそろそろ出ようという会話をし、静かに外に出ていく。サウナに残されたのは、鎮座男性と私、二人である。


 9分を越えた。…この人にはかなわない。「負けたくない」という気持ちに嘘はない。しかし、この男性は本物のサウナーである。すでにととのっている。サウナにいながらととのっている。水風呂を経て外気欲中に訪れるといわれる『ととのう』感覚を、この男性はサウナにいながら感じている。


 もうだめだ。両手を座っている檜の縁にかけ、手に体重を移したその瞬間、視界の右奥、そう鎮座男性が動いた。頭のタオルを勢いよく右手でつかみ振り下ろす勢いで、立ち上がった。私は、姿勢を正すために縁を掴んだふりをして、また座りなおした。その鎮座男性は、勢いよくサウナ室のドアを押し開け、外へ飛び出していった。


 サウナ室には、私一人。もう一度、この10分間を振り返る。犇めき合う男性たちが織り成す無言の人間ドラマ。予想もしない自分の感情。この後すぐに自分も去っていった男性たちと同じようにこの場を去る。短時間で繰り返される出会いと別れ。そして、また戻ってきたときに、新たなドラマが生まれる。ただ汗をかくためだけの場所ではない。サウナに憑りつかれた男たちが魅せるサウナ遊戯。


 そして私も過去の男性たちがそうしたように、汗をまき散らしながら立ち上がり、サウナ室の外に出ていく。(サウナ編…完)

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