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父ちゃんの鳥打帽

 父ちゃんは大工だ。愛用している鳥打帽には切りたての木の香りが移り、木の粉がついていることもある。その香りが大好きだった。

 僕はそのころまだ5歳、ランドセルを背負いリコーダーで「アマリリス」を吹きながら帰って来る3つ年上の兄ちゃんを、毎日心待ちにしていた。帰ってくるとあとを追いかけ、近所の遊び仲間と一緒に日暮れまで遊んだ。その日、みんなが帰って急に静まった原っぱで、僕は何処からか聞こえる何かの音に気がついた。声のする方向へ歩いていくと、空き地の片隅の土管の中で、消え入りそうな声で震えて泣いている一匹の薄茶色の子猫を見つけたのだった。独りぼっちは怖いだろう。寒いだろう。おなか空いているだろう。膝に置くと身体を摺り寄せてきてとても可愛く、ほおってはおけなくなった。

 けれど、うちでは母ちゃんが病弱なので、猫など飼えないんだといつも言われていた。考えた末に、こっそり連れて帰って内緒で飼えばいい、と兄ちゃんが思い切った顔で言い、抱いて帰った。狭い庭の片隅にミカン箱を置いて古い布切れを敷き、おやつを分けて食べさせてやっても、そばを離れようとすると子猫は哀しそうに泣き始め、すぐ大きい姉ちゃんに知られてしまった。奥の部屋で寝ている母ちゃんには内緒にして、大きい姉ちゃんが父ちゃんを説得してくれることになった。

 仕事から帰った父ちゃんは、靴も脱がずにその騒動に気づき、いつもの理由で飼ってはいかん、の一点張り。泣きじゃくる僕とべそをかいた兄ちゃんと今夜は特に寒いから一晩だけでも家においてやって、と大きい姉ちゃんの頼みも父ちゃんは背中で聞きながら、情が移らぬうちに元の場所に戻してくるぞ、と言い切って子猫を抱いて、夜の道路へと出て行ってしまった。

 チラホラと粉雪が舞い始めていた。それから何分立ったのだろう。鳥打帽を脱いだままの頭をうっすらと白い雪で染めてとうちゃんが帰って来た。

 いつもの鳥打帽は胸に抱いている。帽子の中からみーみーと甘えた鳴き声とともに、子猫が顔を出し、伸びあがって父ちゃんの胸に小さな爪を立て始めた。

「飼うからには責任をもって世話するんだぞ」威厳を捨てた父ちゃんの笑顔があった。

 僕は兄ちゃんの掌をぎゅっと握った。粉雪の舞い込む玄関先で、兄ちゃんの掌もじっとりと汗ばんでいた。
            

                 おわり


 

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