ロザリオ 祈りの伴走者

ロザリオが、好きだ。
いきなり告ったよ、ロザリオに。
私はTwitterIDもrosaryholicにしている。

聖品としてのロザリオも好きだし、祈りも好きだ。
ローマ・カトリックの信者では無くアングリカンのおサボり信徒だけれども、
そんなことはこの大海のように深くかつ素朴な祈りの前には取るに足らない事だ。

聖品としてのロザリオは、
珠がつながって十字架へとまとめられている。
ロザリオの珠を指で繰って祈る行為自体が、
わたしたちの心の中にある願いや祈りや感謝や嘆きを送り出す営みであると同時に、恵みを心の中にいただく営みである。指先の身体性にささえられた魂の呼吸とでもいおうか。



手作りのロザリオ


そしてその根拠であり、発着地点は主イエスの十字架とそばにたたずむおとめマリアだ。

ボディ付き十字架のイエス様の膝上あたりに指をのせながら、十字を切る。
永遠のなかにこだまする、天と地を結び合わせる祈りの言葉を。
指の感覚に助けられながら、祈りがたちあがっていく。

ロザリオのおおらかなところは、たとえその30分の5連の祈りに完全に心を傾けることが難しくても、60点の祈りを50回したら、3000点になるようなところにある。
祈りに点数をつけるなんてナンセンスな、と思われる方もあるかもしれないが、
きちんと祈れなかったと感じると祈り自体が区切りを持たなくなってしまうし、結局祈れなくなってしまうのだ。

ロザリオという「聖品」を手元に持つことは、祈りの履歴をロザリオにしみこませていくようなものでもあるように感じる。あんな時もこのロザリオで祈っていたなぁ、と。
人生と祈りの伴走者として、ロザリオとその祈りが、わたしたちには与えられている。

神秘を黙想しながら、福音書の物語を大きな筆遣いでなぞることもできるし、
身近な人や世界の出来事のために、祈りをささげることもできる。
その祈りの履歴を、ロザリオは静かにたくわえてくれるのだ。
そして、また祈りを繰り返していく。

最近だと、私自身は身近な家族が生きられるようにと、本気で祈ったことがあった。
自分を損なうわざを避け、きょう、あす、あさってと小さな足取りでも確かに生きてくれるようにと。
そんな苦しい祈りの時、祈りも心の中で滞ってどこから祈ればいいか、どのように祈ればいいか、どれくらい祈ればいいかわからなくなってしまうことが、読者の皆さんの経験の中にもあるのではないか?

そういう時にも、わたしはロザリオを勧める。
ものとしてのロザリオが指先から祈りを支え、
区切られた、そして決められた祈りの言葉と時間があることで、その時間、こころの力を確かにその祈りに傾けたのだ、という感覚がある。
そうすることで、続けて粘り強く祈る力にもなるからだ。
その祈りを、マリア様はイエス様のところに運んでくださるし、あなたのロザリオも覚えている。

どんなにたくさん祈れたかは重要ではないが、祈ったという事実は指先から送り出された珠があかししてくれる。

あなたの祈り、願い、感謝、嘆きを、ぜひ、ロザリオの祈りに乗せてください。


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