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大阪 長居 直観的ヒーリング Freude Infinity∞ 戸田好子です

高校一年生になった芦田愛菜ちゃんが主演の映画「星の子」の完成報告イベントで「信じる」について自身の持論を語ったことが話題になっている

下記のリンクに詳細が載っているが…
「裏切られたとか期待していたとか言うけど その人が裏切ったわけではなく その人の見えなかった部分が見えただけ 見えなかった部分が見えたときに それもその人なんだと受け止められることができる 揺るがない自分がいることが信じることと思いました」
「揺るがない軸を持つことは難しい だからこそ人は「信じる」と口に出して 成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」
 
https://www.huffingtonpost.jp/entry/mana-ashida-hoshinoko_jp_5f51b134c5b6946f3eaf9b93

わたし自身 芦田愛菜ちゃんとほぼ同意見だけれど こういう考えに及ぶまで
ほぼ半世紀近くかかっている
彼女はわずか16歳で この考えに及んだことに天晴れである

人は自分が望んでいない応えが 相手から返ってきた場合「裏切られた」とか「あんな人だと思わなかった」と思うことがある

しかし 自分の考えが100%正解ではないし 相手の考えが100%正解ではない

何をおいて正解と言うのか…
人が人を裁くとすれば法律くらいのもんで 法律以外の世間が「常識」云うものも 時代によって変わってくることもある

例えば…
自分の常識が 相手の常識ではなかったり 自分が不愉快に思うことが 相手はさほど不愉快に思わなかったりする

そこは自分の匙加減というか 自分の心持ち次第だったりする
余裕のあるときは許せても 少し氣分が落ち込んでたりすると許せないときもある

同じことを言われても 許せるときと 許せないときもある
人が違えば流せるときと この人の言葉は流せないというときもある

怒っていなかったし 氣にしていなかったことでも 相手のたったひと言で怒りに転じたり 氣になったりすることもある

話は逸れてしまったけど 信じるにしても 許すにしても 自分の軸次第だったりする

わたしが余り怒らなくなったのも 「相手の考え方はわたしと違うんや」と思えるようになったから

裏切られたと思うときって 怒りも出てくることが多々ある
相手に自分の理想というか 相手の応えを自分の枠の中で無意識に決めているから その応えが返ってこないと 裏切られたと思ったり 怒りが出てきたりする

それは生きていてとてもしんどいことやなとつくづく実感している
わたしが一昔前までそういう思いグセで生きていて 可也しんどかったなと 今は思う

21歳くらいのころ氣をつかいすぎるわたしに2歳下の同期が言ったのは「氣をつかいすぎることは美徳ではないで 返って相手に氣をつかわせるって知ってる
」と言われたことが今でも残っている

相手の考えを想像しても 体調や心の状態によっては 変化して当然である
変な話 相手がどう思うかの想像は無駄であると今のわたしは思う
勿論 最低限の配慮は必要だけど 自分の心の機微だって 思いもよらないこともあるんだから 人の心がはかり知れないのは当たり前である

芦田愛菜ちゃんの「信じる」についてのコメントで 自分の人との接しかたの変化について考えるいい機会になった

幼いころから読書家の芦田愛菜ちゃんの思慮深さに天晴れと思ったのであった

最後までお付き合いいただき ありがとうございます
Love∞

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